廃品回収に出さずに、そのままになっている新聞紙の束があって、
その恩恵にあずかる場合が今回でした。
ふだん、産経新聞を購読しておりますが、
パラパラと見出しをくってゆくだけで、ちっとも読まない。
さてっと、石井英夫の追悼文が産経新聞2024年12月30日に
あったのに気付かない。産経抄と評伝が載っておりました。
まずは社会面の評伝から、はじまりを引用。
「 新聞の名コラムニストといえば、『天声人語』の深代惇郎さんの
名前がよく挙がる。ただ執筆の期間は2年9カ月と短かった。
石井英夫さんは昭和44年から平成16年まで実に35年間、
産経抄を書き続けた。・・・・
石井さんがコラムニスト卒業後に作った名刺には、
『 家事手伝い 』と書かれていた。・・ 」
ある程度の年齢を重ねた人には、深代惇郎(ふかしろ・じゅんろう)の
天声人語といえば、ああ、と思い浮かぶはずですが、
それを年少の方に説明するのは、案外難しいかもしれないですね。
それを説明されている方に、1958年生まれの坪内祐三さんがおりました。
坪内祐三著「考える人」(新潮社・2006年)から引用。
「 ジャーナリストやコラムニストは、その現役の時に出会えなければ、
過去の人として、復活されにくい。つまり、言説が、同時代の中で、
消費されてしまう。・・・・
今の中学、高校の国語(現代国語)の授業方針はどうなっているのか
知りませんが、当時、私(坪内祐三)の中学、高校生時代には、
国語力をつけるために『天声人語』を読むことが奨励されていました。
例えば夏休みには、毎日の『天声人語』についての二、三百字程度の
要約が課題(宿題ではなく課題だったと思います)で出されました。
それがたまたま深代惇郎の担当期間に当っていたのですから
(・・当時の私は、もちろん、無自覚でした――
つまりあくまで匿名コラムとして愛読していたのです )
それはとても幸福なことでした。 」
はい。このあと、起承転結でいえば、「転結」の指摘がつづきます。
「 しかし、その結果、『天声人語』イコール深代惇郎レベルの
文章という印象が体に深くしみついてしまったのは不幸なことでした。
それ以後の『天声人語』はろくなものじゃない。・・・ 」(p125)
2024年12月30日産経新聞一面にもどると、写真入りで、
「石井英夫さん死去 」という見出しが、一面コラム脇にある。
最後にその日の産経抄から、前半の箇所を引用させてください。
「 『産経抄』を35年にわたり執筆した石井英夫さんは、
読者からの問い合わせがあると、必ず自分で対応した。
執筆中のある日、『 今日の産経抄について聞きたい 』
と読者から卓上に電話がかかってきた
▼『 今日、私何を書きましたっけ? 』と返す石井さんに、
読者は『 今日書いたことをもう忘れるのか 』。
石井さんは苦笑まじりに言ったという。
『 明日のことを書きながら電話を受けているので、
今日までの分をいったん忘れないと前へ進めないんです 』
▼世の中の全てのニュースは哀歓苦楽を伴う。
『 忘れる 』は、それらの感情を引き受け、
筆を執るコラムニストの重責の暗喩ではなかったか。
週6日の執筆を重ねること35年、その数は1万本に上る。
産経抄を小紙の顔へと育てた石井さんの訃報が届いた。
91歳だった 」
そうなんですね。
きさらさんの詩が産経から朝日へと
次の日の「天声人語」に載るなんて、
素敵な記念となる経験をしたのですね。
いったい、どなたが一面コラムを書いて
いたのでしょう。
書店で売られていますね。
「産経抄」書き写しノートがないのは 残念です。
一度だけ 天声人語に
私の詩を取り上げて頂いたことがあるのですよ。
前日の産経新聞の「朝の詩」に掲載された 震災関連の詩でした。その日の朝日新聞だけは 保存してあります。冊子にも 英訳と共に載りました。