和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

物にはなりませんわい。

2020-08-25 | 正法眼蔵
「それは貞応2年(1223)の春のこと、
道元は、師の明全にしたがって、宋に渡った。
なお23歳のころのことであった。・・・
そのころの彼には、『この国の大師等は土瓦のごとく』
におぼえて、ひとえに、『唐土天竺の先達高僧』たちに
ひとしからんとする念がもえていた。それは、つまるところ、
ほんとうの仏教とはなにかと訊ねいたる心であって、
その一心のゆえに、万波を越えたのである。」
(p82「増谷文雄著作集⑪」)

こうして、碇泊した船に、かの地の僧が椎茸を
買いにやってくる。その僧はことし61歳だという。

「その時、道元はまだ23歳の若僧であった。その若僧が、
すでに60歳をこえる老典座に向かって、

『座尊年、何ぞ坐禅弁道し、古人の話頭を看せずして、
煩わしく典座に充てて、只管に作務す。甚の好事か有る』

と詰問した。まさに、青年客気のことばである。
その詰問は恥ずかしいものと思えば思うほど、
忘れることのできないものであったに違いあるまい。
かの老典座は、呵々(かか)として笑っていった。

『外国の好人、未だ弁道を了得せず、
 未だ文字を知得せざること在り』

日本からおいでのお若いのは、まだ仏教というものが
おわかりになっていないようだ、というのである。
それを聞いた道元は・・・・心が仰天するような思いをして、
では、いったい、仏教とはどんなことでありましょうかと、
取りすがるようにして問うた。すると、かの老典座の答えは、

『もし問処を蹉過(さか)せずんば、豈(あに)その人に非ざらんや』

というのであった。蹉過というのは、躓(つまず)きころんで
通りすぎるというほどのことであろう。そこのところは、
躓きころんで自分で越えてみなければ、物にはなりませんわい、
というほどのことであったが、その時の道元には、その意味すらも、
よく合点がゆかなかったという。だがそのことばは、いつまでも、
彼の耳の底にあってとどろきつづけたにちがいない。そして、
いま彼は、それをそのまま、中国語のままにここに再現している
のである。この一節は、そのような一節であって、わたしどもが
読みなれた日本人の漢文の行文とは、
まったくその類を異にしているのである。」(p340~341・同上)

この『典座教訓』の箇所を増谷文雄氏は
あらためて、こう記しておりました。

「それは、すばらしい場面であり、また、すばらしい文章である。
わたしもまた、幾度となく読み、幾度となく味わいいたって、
いまでは、ほとんど諳んじるまでにいたっている。時におよんでは、
その幾句かを暗誦して思うことであるが、この一節のなかにみえる
道元とかかの老いたる典座との対話の部分は、おそらく、その時の
中国語による対話を、ほとんどそのままに再現したものであろうと思う。
道元がこの『典座教訓』一巻を制作したのは、嘉禎3年(1237)の春、
・・・興聖寺においてのことである。・・すでに足かけ15年の歳月が
ながれている。だが、道元にとっては、その出会いとその対話とは、
生涯わすれえぬものであったにちがいないであろう。」(p340・同上)

う~ん。躓(つまづ)くといえば、
大谷哲夫全訳注「道元『宝慶記』」(講談社学術文庫)の
「はじめに」で、大谷氏は

「道元の仏法を学びたいと思いながら、
『正法眼蔵』『永平広録』に挑戦し、
躓き、それに頓挫し、あるいはそれを諦めている人びとに、
筆者は、まずは『宝慶記』の精読をすすめたい。

それは、若き道元の熱き求道の志が、そこに展開している
からである。さらにいえば、後の、現代にいたる日本が矜持すべき、
日本人たるきわめて鮮烈な精神の原点がそこにあるからである。
日本の新しい文化の展開は、道元の飽くなき求道の志気にこそ
あるのである。
『宝慶記』は、わが高祖道元が如浄に実参実究した室中の奥書である。・・・」
(p12~13)

ちなみに、道元が会った如浄の年齢は65歳でした。

はい。すぐつまづき、読むのを忘れているのですが、
このブログへと、引用を通じて読み進めますように。



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