富士正晴評論集「贋・海賊の歌」(未来社・1967年)が届いている。
「小信」と題する詩からはじまっておりましたので、その詩のはじまりを引用。
「 数え五十三になった
なってみれば さほど爺とも思えず
思えぬところが爺になった証拠だろう
他の爺ぶりを見て胸くそ悪くてかなわず
他の青春を見て生臭くてかなわず
二十にならぬ娘たちをながめて気心知れぬ思いを抱く
爺ぶるのが厭で しかも爺ぶってるだろう
やり残している仕事が目につく
日暮れて道遠しか
ばたついて 仕事はかどらず
気づいて見れば ぼおっと物思いだ
数え五十三になった
・・・・・・
はい。4ページある、これが最初のページの活字。
もとにもどって、目次を見ると『道元を読む』というのがある。
うん。富士正晴氏は道元をどう読むんだろうという興味がわく。
それじゃあと、そこから引用しておくことに。
「・・・わたしは道元の書いたものを読むことが好きであった
( 道元の思想を研究していたとか、禅に志したというような点は
少しもなくて、道元の文章を享楽していたのだろう )。
そして又、20年近く振りに今それを引っぱり出して読んで見ても
一種の爽快さと、一種の困惑と、一種の尊敬とを感じることは同じだ。
・・・・
わたしは美しい自然や、美しい詩や、美しい音楽に
接するような気持で道元の文章を読むだけだ。
ひどく難解なために退屈するところがある・・・
あちこちすっとばしながら目をさらしている内に、
ひどく純粋な感動を受けるところに突き当ればわたしは幸福なわけである。
・・・道元の文章の中で、一つの言葉は使用されている内に
実に多くの面に向って輝いて展開する。その輝きの交叉のなかから
浮び上ってくるものを感じることが好きだからわたしは時々道元を
読みたくなるのだろうと思う。思いはするが必ずしもその本を開かず、
その輝きの交叉を頭に思い浮かべていい気持でいるだけで
済ますことが多い・・・・・ 」
こうして8ページの文は、後半をむかえます。
「 一つの言葉が次々に新しい面を現わしながら、
展望を広く深く組み上げてゆく有様は、わたしに
何か一つの透明で巨大な詩が現われてくるような感じを与える。
その論法のスピードの緩急の良さが
どうして現代日本の評論のやり方にこれが取り入れられて
生かされないかいつも不思議である。・・・・・
・・道元の文章を読んでいても、
その感動させるもの、刺激してくるものの質が詩に近くて、
小説に実に程遠い感じがしてならない。・・・
わたしは道元を読んで、実は道元の文章の中の
詩を一、二、つまんでいるのにすぎないようだ。
道元の散文に詩が含まれているほどには、
彼の作った歌には詩がない。
散文に於いて詩的であり、歌に於いてははなはだ散文的だった・・
全く奇々怪々な奥知れぬ魅力を感じずにいられない。・・・ 」
( p44~51 )
うん。道元を自分の言葉にしてしまう妙技に
思わず拍手したくなりました。
はい。富士正晴の雑文集が5冊揃いました。
読んでも読まなくてもとりあえず本棚並べ。
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