和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

1000年ぶり。

2018-01-13 | 道しるべ
鎌田浩毅について。
最初に私が意識したのは、
東日本大震災の直後の雑誌対談でした。

「新潮45」2011年5月号。
そこに、鎌田浩毅氏とビートたけし対談。
対談のはじまりで、ビートたけしが

「政府の地震調査委員会の報告では、
宮城県沖地震、三陸沖北部地震、茨城県沖地震が
今後三十年以内に起こる確率は90パーセントを
超えていたそうで、先生もそのことを昨年末、
雑誌で警告していた。
特に宮城県沖地震は99パーセントだった。
そのことに驚きました。」(p123)

さてっと、
2018年「中央公論」2月号に
鎌田浩毅氏が8頁ほどの文を掲載している。

はい。買うことにしました。
はじまりは

「2017年10月11日、鹿児島と宮崎の県境にある
霧島連山の新燃岳(しんもえだけ)が噴火した。
・・・・
今、日本列島の地盤は不安定な状態にあり、
さらに言えば、九世紀以来の『大地変動の時代』に入った、
というのが我われ地球科学者の見解である。
再び大変動期に入った端緒は、7年前の2011年3月11日に
起きた東日本大震災まで遡る。
・・・・
地盤の歪みが解消されるには、数十年という長い時間が必要だ。
よって、地震は当面やまないだろうし、
残念ながら近い将来に、これまで経験したことのない
巨大災害に見舞われる可能性が高い。
・・・・」(p158~159)

うん。詳細は読んでもらうことにして、
最後の、この箇所を引用しておきます。

「自然界には同じことが繰り返し起きる『可逆現象』と、
二度と起こらない『非可逆現象』がある。
工学や農学が扱うのは可逆現象であり、
それによって電車が走り農作物が収穫できる。
ところが地球内部の現象は全て非可逆現象であり、
時間とともに地下が変化するのが常態なのだ。
実用的な地震・噴火の予知が極めて困難な状況で、
日本列島は1000年ぶりの変動期に入ってしまった。

今後、自然災害が頻発する中で
生き延びるには、こうした
『想定外』がありうることを
正しく理解し、その上で
『自分の身は自分で守る』
準備をする必要がある。」(p165)


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道元に出会う。

2018-01-12 | 道しるべ
栗田勇著「道元一遍良寛」(春秋社)を、
パラパラ読みをしていたのですが、
最後の「初出一覧」を見ると、

「道元に出会う」(旺文社)
「浄土宗・時宗 日本の仏教・人と教える3」(小学館)
「曹洞宗 日本の仏教・人と教える7」(小学館)

とあるので、この3冊を
古本で注文することに。
家に居ながらにして、本が届くありがたさ。
「道元に出会う」など送料共で407円。
装丁もしっかりしていて、愛着がもてます。
その「道元に出会う」をひらくと

岩田慶治・無着成恭・平井富雄・栗田勇
今枝愛真・水上勉・高崎直道・百瀬明治

この方々が、道元との出逢いを語ります。
古典は、こういうふうにして反芻できるのが魅力。

とりあえず、無着成恭氏の文を読む。
はじまりは

「わたしは何かのきっかけで、道元と出会ったのではない。
わたしは、小さな禅寺に生まれたので、小学校の頃から
父の口をとおしたり、父の師匠から教えられたりして、
道元のコトバを聞いてきた。・・・・」(p61)

無着氏は、こういいます。

「道元の本質はやっぱり『正法眼蔵随聞記』にあるのではなくて
『正法眼蔵』そのものにある。『正法眼蔵』の不透明で奥深い
部分に道元の本質があるように思う。」(p104)

はい、わかりました。
他の方々のも、パラパラ読みしてみます。



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町の本屋さんへ。

2018-01-11 | 地域
今年初めて
町の本屋さんへと寄る。

「司馬遼太郎と宗教」(週刊朝日MOOK)がある。
へ~。こんなのがあるのだ、と買う。

編集後記をみると、
こんな箇所がある。

「・・・・司馬さん没後21年、
作ったムック本通算で25冊。
ようやく念願の『宗教』に
たどり着きました。
     (村井重俊)  」

はい、買いました(笑)。

Voice2月号が出ている。
宮家邦彦氏の巻頭言をひらく。
「謹賀新年」とはじまっております。

「『戦略的な視点の持ち方』については名著が二冊ある。」
として
岡崎久彦著「戦略的思考とは何か」(中公新書)
「エドワード・ルトワックの戦略論」(毎日新聞社)

この二冊をあげておられます。
そういえば、読まないけれど、
岡崎久彦氏の新書を持っています。
本棚にありました。
「あとがき」をひらくと
こんな箇所。

「私の知るかぎりで、先進国の大学で、
戦略や軍事と題した講義を聞けない国は
日本だけということである。・・・・・
ということで、
戦前、戦後、世代の相違も問わず、
日本では、政治家も、学者も、評論家も、役人も、
誰ひとりまともに戦略論を習ったことがないという
変則的なインテリ社会が出現した。」

「昔から『生兵法はけがの基』とも言う。
とくに日本の場合は、戦略論が未発達なために、
理論と実際とが、種々の研究者により何度も、
照合され、検証され、議論されているわけではない
のでその危険が高い。・・・」

はい。あとがきだけでも、
「変則的なインテリ社会が出現」
「マルクス的平和論」
「生兵法はけがの基」
と言葉が並びます。

ちなみに、この新書は1983年8月初版。

もどって、
雑誌の巻頭言の最後を引用。

「ワシントンでは、誰に聞いても2018年が予測の
難しい年になると異口同音に答える。
さればこそ冒頭で述べたとおり、
時々の権力者や世論・流行に左右されず、
国際情勢をより普遍的、戦略的な視点から眺め、
可能な限り客観的な分析を加える『質の高い評論』が
求められる。今年も、いや今年こそは、
これをめざして一層の努力を重ねていくので、
本年もよろしくお願い申し上げる。」

はい。巻頭言を楽しみに、
来月号までに、この新書
「戦略的思考とは何か」を読んで、
何とか戦略的のセの字ぐらいは
分かるようにしたいと思います。
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学校のしつけ。

2018-01-11 | 産経新聞
今日の産経抄は、福沢諭吉。
うん。うん。と読みました。

そういえば、昨日の産経新聞
オピニオン欄曽野綾子さんの
水曜日連載「透明な歳月の光」の下
「解答乱麻」が印象に残っているので
打ち込んでおきます。
元小学校校長・玉田泰之氏。
そのはじまりを引用。

「全国各地を講演行脚して、児童生徒の姿を見、
父母と対話された森信三先生が
「腰骨を立てる教育」を提唱されるようになったのは、
昭和37(1962)年頃からである。
森信三全集第24巻には『腰骨を立てる教育』と題して
一書を収めておられる。
この教育は後日短く『立腰(りつよう)教育』と
呼ばれるようになった・・・」

内容は端折って、
ここでは、最後を引用

「新学期の第1日の1時間目から実践する。
立腰教育の成否は全校であれ、学級であれ、
初日の教師の第一声によって決まる。
これは『学校のしつけ』の根本原則といってよく、
教師も児童生徒も心が共に最高の緊張度に達しているが故である。
それはかの『鉄は熱いうちに打て』という語以上に、
『魂の最高燃焼の一瞬を空しく逸し去るな』ということである。

 腰骨を立てていなくても叱らない。
小言は言わない。立てている子を褒めるだけ。」

はい。
残念ながら、義務教育で私はこの
立腰教育を、うけてこなかった。

いま、60歳を過ぎてから、
こりゃ、自分ではじめるしかないと
腰が痛くなってから、
改めて、気づかされるこの頃(笑)。

幸いに
齋藤孝著「坐る力」(文春新書)
それに、この新書で指摘されていた
森信三先生講述「親子教育叢書全六冊」寺田清一編に入っている
「性根の入った子にする極秘伝 立腰教育入門」が
ありました。

さてっと、
森信三全集を本棚に揃えておられる方を
知っているので(笑)、全集第24巻を
今度借りてくることにします。

「学校のしつけ」に遭遇しなかったし、
遭遇していても無視したであろう私は、
あらためて、自分のための立腰教育の
入門をこれから果たす所存でおります。

新春早々の、入門のきっかけとして、
「解答乱麻」を読ませて頂きました。



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イギリスの朝日新聞。

2018-01-06 | 朝日新聞
昨夜。
お酒を飲んでいると、
電話がかかってくる。
イギリスからでした。

経過を話すと長くなるので
やめますが、毎年カレンダーを
送っていて、そのお礼の電話でした。

昨年の今頃は、イライラするということで、
それは、朝日新聞を購読しているからかもしれないですよ。
読売新聞を読んでみたらどうですか?
と電話での会話をしたことを思い出します。

今年、またお礼の電話をいただき、
どうも、イギリスの日本人では、朝日新聞しか
とれないのだということを聞いたのでした。

こちらは、読売、産経、朝日新聞をとって、
比較しながら読んだことがあります。
こちらは、ちょうどお酒を飲んでいた時なので、
相手の電話代のことなど、お構いなしに、
ベラベラと一方的に喋りました。

とりあえずは、
イギリスでの、日本人社会では(範囲はわかりませんが)
朝日新聞しか購読できないようだと、電話口で教えてくれます。

日本で三紙を比較して読むという贅沢。それは、
海外では出来ないようだと分かりました(笑)。

イギリスから掛けていただいた電話なのに、
私は酔った勢いで、どれほど、朝日新聞がいけないのか
ながながと喋っておりました。
もっとも、いけなかったのは、
朝日は駄目だと三回以上
語っていたことかもしれません。
酔いが醒めてから、反省。あとの祭り。
もう、電話は頂けないかもしれません。
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永平録を読む。

2018-01-05 | 詩歌
栗田勇著「道元一遍良寛」(春秋社)は
平成25年8月に、古本で280円で買ってありました。

寝かせてあったので、今読み頃をむかえました(笑)。

さてっと、ここに
良寛の漢詩「永平録を読む」を
栗田氏がかみ砕いて訳しております。
「渡辺秀英氏の解釈を私風によんでみよう」(p170)
とあって、はじまります。

「春の夜は更けて、
春雨は雪にまじって庭の竹にふっている。
寂しさを慰めようとしても術(すべ)もなく、
うす暗い棚から手さぐりで『永平録』をとりだした。
香をたき灯をともして、静かにひらいて読めば、
一句一言が、皆、珠玉である。
憶い出すが、昔、玉島で円通寺の老師から
『正法眼蔵』の提唱をさずかったことがある。
そのときすでに深く感動し、
とくに拝読を願って許され、
身みずから実践につとめた。
そのとき、はじめて覚ったのは、
それまでなんと無駄な力を費したことか、
形式や学問ではなかった。
いらい師のもとを辞して、
遠く行脚の旅に出た。
なんという道元禅師との深い縁があったのであろうか。
ゆく先々で、『正法眼蔵』の写本に出逢い、
そのたびに参究を幾度かさねたことだろう。
しかし、しばしば理解が及ばぬ、
そのたびにいろいろな教えを先輩に尋ね、
二たび手にとってはじめてほぼ了解することができた。
ああ、様々な解釈が混じり、
玉石を分かつこともできなくて、
五百年来、観ることなく塵に埋もれたままにしたのは、
宗門の僧が正法をえらぶ眼がなかったからである。
いま滔々たる時流をどうすることができようか。
いまさらに心に悔いても仕方ない。
だが、この夜、灯のまえで涙がとどまらず、
『永平録』をぬらしてしまった。
翌日、隣家の老人が庵にやってきて、
この本がどうして湿っているのかと問いかけるが、
答えようにも言葉もない。
しばらく頭を垂れているうちに言葉が出た。
昨夜の雨もりでぬれたのです、とーー。」
(p170~171)

このあとに栗田氏はこう書いておりました。

「『正法眼蔵』は秘本であって、
五百年来、目にする者は数えるほどしかなく、
いわんや、『眼蔵』をまっ正直にうけとめて
実践する者など決してなかったということを、
良寛は充分に自覚していた。・・・」


それが、現在は講談社学術文庫にも
現代語訳が入っているので、
読もうと思えば、どなたでも手に取ることができる。
ありがたいなあ。
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それ、やめたほうがいいわよ。

2018-01-05 | 短文紹介
眉村卓氏の文庫を注文してあったのが届く。
「僕と妻の1778話」(集英社文庫)。

最初から読もうとしたのですが、数ページでダウン。
そこから癖になっているパラパラ読み。
パラパラでも気に入る箇所がありました。
そこを引用。
「711 繰り返す癖」と題してあります。
そのはじまりと
そのおわりの箇所を引用。

「世の中の、そんな風潮がいかんのだーーとC氏はいった。
つづけて、
『風潮がいかん』
ちょっと間を置いて、
『風潮がいかんのだ』
と、繰り返したのである。
『それ、やめたほうがいいわよ』
夫人が口を開いた。
『何を?』
C氏は夫人を見る。
『その、同じことを繰り返す癖』
夫人は指摘する。
『それは前からそうだったけど、
この頃は三回いうでしょ?
二回でもうるさいと思う人が多いでしょうに、
三回もいったりしたら、あの人、
近頃ボケてきたんじゃないか、
くどくなった、と、嫌がられるんじゃない?』」
(p175~176)

はい。これがはじまり。
では、おわりの方も引用します。

「C氏より少し若い人々との、飲みながらの談議があった。
『全く、今は親が甘過ぎるんだ』
と、C氏はいった。
甘過ぎるんですよ、
甘過ぎる、
といいたくなる衝動をぐっとこらえて、C氏はいう。
『南無阿弥陀仏』
一息おいて、
『南無阿弥陀仏』
『Cさん、本当にこの頃、お称名をよくいうようになりましたね』
ひとりがいった。
『何か、発心でもなさったんですか?』
別の者が問う。
『そういうことでもないんだけどね』
C氏は答えた。
そういうことではない。
そうではない。
とはつづけずに、
『南無阿弥陀仏』
『南無阿弥陀仏』
なのである。
このことについて夫人が
今のところ何もいわないのは、
それ以上に良い言葉はなさそうだ、
と判断しているのかもしれない。
だからC氏は、このままそれで行くつもりであった。
動機が何であろうと、お称名は
お称名なのだ。罰は当たらないはずである。」
(p179~180)

はい。これは私のツボにはまりました。きっと同じ言葉を
繰り返すたびに、この文を、私は思い出すだろうなあ。
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いわゆる有識者たち。

2018-01-05 | 短文紹介
塩野七生著「ギリシア人の物語 Ⅰ」(新潮社)届く。
発行年をみると、2015年12月20日とあり、
私が新刊で注文したのが、今年に入ってからですから、
まだ、増刷されていなかったようです。

はじまりは「読者への手紙」となっておりました。
そこに引用したくなる箇所がありました。

「最後になったが、ギリシア人を書く気になった
理由の第二について簡単に述べておきたい。
それは、昨今とみに耳にすることが多くなった、
民主主義とは何か、民主政下のリーダーは
どうあるべきか、についての論争が発端になる。
この問題を声高に論ずるのは、政治家とマスメディアと、
メディアに登場すること頻繁ないわゆる有識者たち。
しばらく交き合っていた私もついに拒絶反応を起し、
これについて論ずる新聞も雑誌も読まなくなり、
テレビもチャンネルを変えるようになった。
騒々しく論争しても有効な対案には
少しも結びついていない、と思ったからである。」(p3)


はい。はい。別に若い世代だけが
新聞を読まないわけじゃなく。
塩野七生氏も読まない。

その塩野さんの新刊は、
「メディアに登場すること頻繁ないわゆる有識者たち」
には、読まれていないらしい。
はい。それなら、私は読んでみましょう。
という気になってくるではありませんか(笑)。
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新刊注文。

2018-01-03 | 短文紹介
あけましておめでとうございます。
今年の一月は、新聞を二紙購読することにしました。
産経と読売。
さっそく、1月3日の両コラムを見る。

産経抄は、こうはじまっております。

「元旦は、塩野七生さんの『ギリシア人の物語Ⅰ』を
読んで過ごした。・・・・」

編集手帳は、

「毎日を笑って過ごせば免疫力も増すと聞く。
がんと告げられた妻のため、ショートショートを
一日一編書き下ろそう。眉村卓さんの
『妻に捧げた1778話』(新潮新書)は、
その約束を果たした約5年の記録である。・・・
2004年の刊行で品薄だったが、タレントの
カズレーサーさんがテレビで紹介し、
緊急増刷された。きっかけがあれば
良書を手に取る人は多いという証左だろう。」

うん。ここには、編集手帳のコラムの最後を引用。

「1979年の角川文庫の広告は印象深い。
眉村さんの『ねらわれた学園』など100冊を
薦めるキャンペーンで、薬師丸ひろ子さんが
『時間がないんだ青春は。』と説いていた。
思う存分、本を読む時間はなかなか取れない。
限られた日々、最愛の人の作品と過ごした
眉村さんの奥様は幸せであったろう。」


2冊をさっそく注文。
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