和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

本の最大の驚異。

2020-09-14 | 古典
古本で300円だった、大岡信著
「古典のこころ」(ゆまにて選書・1983年)を買う。

清涼飲料水を買うような感覚(笑)。
「はしがき」より引用。

「・・だから、本を読むということは、
人間のよくよく不思議な事業なのである。
あわただしく便所の中で読んだ本の1ページが、
じっくり坐った机の前で読んだ本一冊よりも
ずっと有益だったというようなことは、いくらでもある。

何が『古典』で何が『駄本』か、などという区別も、
本来ありはしないのである。
はっきりしていることの一つは、私にとって『古典』は、
私がかつて読んだものの中にしかないということ。
・・・・・
根本は常に『こちらの都合』にあるのだ。
そういう具合の付き合い方をした本でないと、
古典であろうがなかろうが、本というもの、ほんとうのところ、
身にしみて大切なものではなくなってしまうだろう。
 ・・・・・

自分の都合が大切だ、といった。そのことは、言いかえれば、
自分にとって今何が必要なのかを明確に知っていなければ
ならないということである。これは大変なことで・・・・・
人からああせい、こうせいと言われるがままに動くのよりは、
遥かに難かしい。
・・・・・

私は余裕をもって読書を楽しむよりは、たとえ大急ぎの
斜め読みでも、自分にとって必要なことだけはがっちり
我がものにしてしまうぞ、という心がまえで本と付合ってきた
人間なので、今さらきれいごとを言うわけにもいかにのである。

そんなやり方でも、ずいぶん多くの楽しみや余暇や喜びを、
本の世界は私に与えてくれた。こちらに『余暇』がない時の、
せっぱつまった読書でも、本の方から真の『余暇』を与え
返してくれることが沢山あった。それこそ、実をいえば、
本を読むということが私たちに与えてくれる最大の驚異なのである。
・・・・」

はい。「はしがき」読みで、本文は読まないかもしれない。
とりあえず、そのまま本棚へ。
はい。今日のブログの値段は300円。
これが高いのか、安いのか。チラリ読みでも、
『最大の驚異』が、あとからやってきますように。
明日がよい日でありますように。

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茶を沸かし、ひとり飲めば。

2020-09-13 | 本棚並べ
篠田一士著「三田の詩人たち」(講談社文芸文庫)は、
一読あざやかな印象を残す一冊でした。
迷路だった詩の系譜が、全線開通した時のような驚き。

1984年前期の慶應義塾での講義全9回をまとめたもの。
久保田万太郎記念資金講座『詩学』での講義でした。
最初が久保田万太郎。あとに続くのが折口信夫・佐藤春夫
堀口大学・西脇順三郎・永井荷風。
単行本は、小沢書店から昭和62年に出ておりました。
単行本の題名は「現代詩大要 三田の詩人たち」。

う~ん。きょう取り上げるのは、この本でなくて
篠田一士著「現代詩人帖」(新潮社版・1984年)です。
そのなかに、高橋新吉が取り上げられておりました。
「無用の用としての言葉」と題されて、高橋新吉の詩が
とりあげられている箇所でした。
何とも、わからないながら、気になっておりました。
その詩を篠田氏はうれしそうに語っております。
まず詩から引用。


     霧雨  高橋新吉 

  霧雨の しづかにふる朝
  幻しの犬が匍ひ歩いてゐる

  茶を沸かし ひとり飲めば
  姿なき猫が 膝にかけ上る

  ひとときの 夢の露地に
  竹を植ゑ 石を置きて 風を聞く

  雲走り 夕となれば
  うつつの窓を閉ぢ ねやにふす



詩を引用したあとに
篠田一士氏はこう語っておられます。

「『幻しの犬』、『姿なき猫』、『夢の露地』の
三つの成句に着目し、これを幻想詩といってみてもはじまらない。
つまり、『うつつ』の場にはありえぬ幻想風景の謂である。
さればといって、霧雨の降りつづく一日、詩人そのひとでも、
だれでもいいが、任意の人物を想定し、そのひとの心中を横切った
幻想の断片を唱ったものと考えるのは、いかにもみみっちくて、
この傑作詩篇には、もとより無縁だろう。

言葉をそのまま率直に読み、また、読みかえしてゆくうちに、
言葉がまことに融通無碍、夢と現(うつつ)の間を往き来し、
その間に、なんの障りもないことに、読むものは、思わず、
おどろきの固唾をのむ。・・・・」

このあとに、篠田一士の解説はつづくのですが、
もちろん、私はそれを読んでも呑みこめなかった。
ただ篠田氏が「この傑作詩篇には」と指摘されている、
ということだけが気になっておりました。

「ひとときの 夢の露地に
 竹を植ゑ 石を置きて 風を聞く」

なんだろう。竹を植え、石を置き、風を聞く
「ひとときの 夢の露地」というのは?

うん。わからないのは変わらないのですが、
庭ということを思うと、この詩を思い出しました。



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60歳を過ぎてから。

2020-09-12 | 本棚並べ
本棚を整理してたら、谷沢永一・渡部昇一対談の
「いま大人に読ませたい本」(致知出版社・平成14年)が
出てくる。新刊でパラパラ読みして本棚に置いてそのまま
にしておりました。あらためて、ひらいてみる。

まえがきは、渡部昇一氏。
あとがきは、谷沢永一氏。
そのあとがきの最後を引用。

「私は劣等生なのだから確かに頭はワルイのであろう。
しかし勉学と読書とはどうやら次元が違うらしい。
読書はアタマで取り組む作業とは異なる。
アタマ以外に読書は感覚と情念に訴える精神的な行為であるらしい。
読書は必ずしも賢くなくてもよいのではあるまいか。
人間としての思うところ考えるところありさえすれば、
読書は心の奥底に滲み入る人格養成の径路であるらしい。」

はい。これが「あとがき」の最後の箇所です。
うん。せっかく開いたのですから、対談のはじまりの箇所も
引用しておくことに。

谷沢】 ・・・私が12歳のときに読んで印象に残っているのは、
『プルターク英雄伝』の中の一節で、アテネで絶大な人気を誇る
アリステイデスの陶片追放の話です。僭主の出現を防ぐための
陶片投票が行われる当日、アリステイデスが浜辺を歩いていて、
一人の男に出会う。

その男が、『わしゃ字が書けんから、代わりに書いてくれよ』と
アリステイデスに頼む。『誰を書くのか』と聞くと、
『アリステイデス』と男は答える。
『なぜ彼を追放したいのか』と重ねて聞くと、
男はこう答えるんですね。『あっち向いてもこっち向いても
アリステイデス、アリステイデスとうるさくてかなわんからだ』。

これはメインのストーリーからははずれる話なんですが、
あれを読んだときの名状しがたい気持ちは、忘れられない。
人間というのは難しいものだと感じた最初でしたね。

渡部】 そのときの本筋からはずれた話が心にとまったことが、
60年間発酵しつづけて、谷沢先生の『人間通』という本に結晶する
わけですね。そのように、本を読むと必ず心にひっかかるものに出合う。
・・・・・・・
それがだんだん分かってくるのは60歳を過ぎてから、
というのはざらにあることで、
その間ずうっと疑問を持ちつづけているわけです。

谷沢】 疑問を持つということが、
本を読んで得られる最大の財産ですよ。
疑問のない人間は、成長しません。・・・
(p17~18)

はい。私はこれだけで満腹。
また、本棚にもどします。

60歳を過ぎてから、いったい
どれほどの、疑問を持ち続けていたのかどうか。
今度は本棚のすぐに目につく場所に置くことに。
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庭の打水をして。

2020-09-11 | 本棚並べ
2007年「諸君!」10月号の特集
「私の血となり、肉となった、この三冊」に
徳岡孝夫氏が取り上げたのは、まず方丈記で、
3冊目が誰も取り上げない一冊なので、かえって
印象に残っておりました。それは
幸田露伴著「太郎坊」(岩波文庫)で、徳岡氏は
こう指摘されておりました。
「30分もあれば読める短篇小説だが、読めば死ぬまで
忘れないだろう。あるじと細君とあるだけで、登場人物には
名すらない。ある夏の夕方、晩酌の間に起きる出来事で、
これも外国の小説にない終り方をする。・・・」(p246)

はい。読んでみました。
はじまりは『庭に下り立つ』場面でした。

「・・・真夏とはいひながらお日様の傾くにつれて
さすがに凌ぎよくなる。・・・
主人(あるじ)はかひがいしくはだし尻端折で庭に下り立つて、
蝉も雀も濡れよとばかりに打水をしている。・・・」

「主人は打水をおへてのち満足げに庭の面を見わたしたが、
やがて足を洗って下駄をはくかとおもふと・・・
手拭、石鹸、湯銭等を取り来らしめて湯へいってしまった。
返って来ればチャンと膳立てが出来ているといふのが、
毎日毎日版に摺ったように定まっている寸法と見える。」

湯から帰って来ると

「庭は一隅の梧桐(あおぎり)の繁みから次第に暮れて来て、
ひょろ松桧葉(ひば)などに滴る水珠は夕立の後かと見紛うばかりで、
その濡れ色に夕月の光の薄く映ずるのは何ともいえぬすがすがしさを
添へている。主人は庭を渡る微風(そよかぜ)に袂(たもと)を
吹かせながら、おのれの労働(ほねおり)がつくり出した快い結果を
極めて満足しながら味わている。・・・」
(注:旧漢字などは、ところどころ、ひらがなに直しました)

はい。これが物語の導入部となっておりました。
うん。このあとが肝心なのでしょうが、私には
この導入部がなぜだか印象に残っております。
ですから、もうちょっと引用してみます。


「ところへ細君は小形の出雲焼の燗徳利を持って来た。
・・・『さぞお疲労(つかれ)でしたらう。』と云った
その言葉は極めて簡単であったが、打水の涼しげな景色を見て
感謝の意を含めたような口調(くちぶり)であった。主人は
さもさも甘(うま)そうに一口啜って猪口(ちょこ)を下に置き、
『何、疲労(くたびれ)るといふまでのこともないのさ。
かえって程好い運動になって身体の薬になるやうな気持がする。
そして自分が水をやったので庭の草木の勢ひが善くなって生き生き
としてくる様子を見ると、また明日も水撒きをしてやろうとおもふのさ』
と云ひおわってまた猪口を取り上げ、しずかに飲みほして更に酌をさせた。
・・・・」

この猪口が、この物語の重要な鍵となっておりましたが、
どうもわたしは、この前半の庭の箇所の方が印象深いのでした。

さてっと、なぜ徳岡孝夫氏は、この『太郎坊』を選んだのだろう
と、そういう興味で読みました。けどわからない(笑)。
そして、庭といえば、まずこの文を思い出すのでした。
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庭をつくる人。

2020-09-10 | 本棚並べ
家に庭はなく、勝手口から、コンクリートの通路を通って裏に出るスペースが
あるばかり。一般的に、どうみても、庭というのを知らずに育ったわけです。

妻の実家のご両親が亡くなり、そちらの家が
普段は閉めっぱなしとなりました。
ときどき、窓を明けに行きます。そちらには、庭があり、
道路に面しては木々がある。昨日も草刈りに出かけました。
しらずしらず、はじめて庭を意識したきっかけとなります。
何のことはない65歳を過ぎて庭と出会ったようなものです。

では、庭とどう向き合えばよいのか?
はい。雑草刈りしながら思います(笑)。

だいぶ前に買った古本に
「くらしの伝統」(主婦の友社・昭和47年)があった。
「非売品」とある。編者は井上靖・臼井吉見。
くらしに関するあれこれの文を寄せ集めた一冊でした。
目次を開けばそこに、室生犀星の「庭をつくる人」というのが
はいっております。室生さんの文のはじまりはこうでした。

「純日本的な美しさの最も高いものは庭である。
庭にはその知恵をうずめ、教養をかくして上に土を置いて
だれにもわからぬようにしている。遠州や夢窓国師なぞは
庭の学者であった。そうでない名もない庭作りの市井人が
刻苦して作ったような庭に、かくされた教養がある。

庭を作るような人は、陶器とか織り物とか絵画とか
彫刻とかはもちろん、料理や木地やお茶や香道の
あらゆるつながりが、実にその抜けみちに待ちかまえて
いることに、注意せずにいられない。結局、
精神的にもそうだが、あらゆる人間の感覚するところの
高さ、品のよさ、においの深さにまで達しる心の用意が
いることになる。・・・・・・」

なんか、こうしてはじまるのですが、そこから、
いろいろな方面に文章は進んでゆくので、引用は
ここでカット。

そういえば、心理療法には「箱庭療法」というのがあるそうです。
雑草を刈りこんだり、抜いたりして疲れるのですが、
それなりに、心は静まった状態に保てるのかもしれません。

昨日は、雑草取りをおえて、まあ、このくらいでいいかと
思いながら帰ってきたのですが、夕飯の一杯を楽しく飲んで、
ゴロリと横になりながら、その日午前中の出会いや、午後の
庭掃除のことやなにかを思いながら、そのまま眠りました。
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余生の一期一会。

2020-09-08 | 京都
山崎正和氏が亡くなり、その新聞の評伝で、氏の代表的な本として
山崎正和著「柔らかい個人主義の誕生」(中央公論社・昭和59年)が
あがっておりました。

はい。読んだことがないと、古本で注文。
江戸川草古堂から届く。1円+送料350円=351円。
目次をめくっていると、本文の最後に
「『一期一会』の消費」とある。
はい。そこをまずひらく。
本文の最後を途中から引用。

「・・・・またしても可能性としてではあるが、
この『無常』の状況が逆にひとびとを動かし、
ひとつひとつのものに深く執着して、
それをたんねんに味はふことへと導くことも考えられる。

さういえば、かつての日本において、
他人とともにものを味わうことに精神的な意味を見いだし、
『一期一会』といふ金言を生んだ時代は乱世であり、
言葉の本来の意味において『無常』の時代であった。
俗に『末期の眼』はものを美しく見せるといふが、
それは必ずしも現実の死にのぞむまでもなく、
ものとの触れあひが慌しく過ぎて行くときにもなりたつものであろう。

いはんや、現代は高齢化の時代であり、
現実に老後の時間が延びるとともに、
ひとびとが『余生』の時間を深く味はひ、
それをいつくしむ時間も延びることになった。

運命の偶然と環境の流動を痛切に感じる時間のなかで、
ひとびとは孤独な自己の姿を見つめなほす機会を増やし、
それと同時に、他人とともに満足を味はふ、
幸福な自己の姿を確認する機会をも求めるはずなのである。」

うん。本が届いたのだけれど、
私は、この最後しか読まないかもしれないなあ。
う~ん。
「『一期一会』といふ金言を生んだ時代は乱世であり、
言葉の本来の意味において『無常』の時代であった。」

はい。その時代の京都を、また読んでいきたいので、
山崎正和著「室町記」を、あらためてひらくことに。
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唐土(もろこし)の使者。

2020-09-07 | 古典
産経新聞9月7日の一面見出し「中国は尖閣奪取に自信」。
脇には「フォークランド紛争の侵攻手法に学んだ」とあります。

「アルゼンチンが英領フォークランド諸島に侵攻した
1982年のフォークランド紛争で英軍の上陸部隊を指揮した
トンプソン元少将(85)が産経新聞の取材に応じた。
同氏は『中国はアルゼンチンの強引な手法を学んでいる』
と警鐘を鳴らし・・・
トンプソン氏は『(紛争当時)アルゼンチンは英国から
領土を奪えると信じた』と指摘した上で、
『中国も日本が(尖閣防衛に)対応する能力や意思を
持っていないと考え、侵略が成功すると信じている』
と述べた。中国が2012年、フォークランド諸島の領有を
主張するアルゼンチンへの支持を表明したことなどに触れ、
紛争での侵攻手法などを学んでいるとした。・・・・」

この記事は、2面・3面へと続いておりました。

ところで、
清川妙著「つらい時、いつも古典に救われた」(ちくま文庫)で、
「唐土(もろこし)の使者がきて難題を吹っかけた」という文が
枕草子に出てくることを指摘されております。
せっかくですから、清川妙さんの文から引用させていただきます。

「昔の帝が、ただ若い人だけを大事にして、40になった人の
いのちを絶っておしまいになったので、40以上の人は、みな
遠い国に逃れて隠れ住んでしまい、都のうちには、
若い人しかいなかった。その頃、中将の位を得てときめいていた人が、
70に近い両親を持っていたが、たいへんな孝行者で、こっそりと
地下室を掘り、その中に二人を隠しておき、一日に一度は顔を見にいった。
 
あるとき、唐土の帝が、この国の帝に、試みごとを
しかけてきたことがあった。この国の人たちの知恵を試し、
知恵がなければ討ちとろうという魂胆であった。

お使いは、つやつやとまるくきれいに削った二尺ばかりの木を
取り出して見せて『この木の根もとのほうと、先のほうを、
どうして見分けますか』と問うた。

だれにきいても、そんなことは分かるはずもなく、この国の帝は
悩みぬいておられた。中将は、帝を気の毒に思った。

ひそかに地下室に行って親に問うと、『流れの早い川の傍に立ち、
横向きにその木を投げ入れよ。ぴょこんと立って流れるほうが先のほうだ』
と教えた。実際にそうして、先のほうに印をつけて、
唐土の使者に渡すと、みごとに正解であった。

だいぶ経ってから、また唐土の使者がきて難題を吹っかけた。
七曲がりの玉で、中に穴が通って、左右に口があいているのを持ってきて、
『これに糸を通してください。わが国では、だれでもできることです』
と言う。このときも、すべての人々は、できないと首を振った。

中将は老いたる親のところに行き、知恵を乞うた。
『大きな蟻を捕え、その腰に細い糸をつけ、その糸にもうすこし
太い糸をつけなさい。向こう側の出口に蜜を塗り、こちら側から
蟻を入れなさい』
その教えの通りにすると、蟻は蜜のあまい香りをかいで、
さっとすばやく、穴をくぐりぬけて、あちら側に出たのであった。

帝はたいへん喜ばれ、中将に『この功に、何をもって報いようか。
どんな官位につきたいか。なんなりと望みを申せ』と仰せになった。

中将は『官位などにはなんの望みもございません。ただ、
老いたる父母がどこかに隠れておりますので、探したずねて、
都に呼び戻したいのでございます』と答え、帝も快くお許しになり、
国中の親と子は大喜びをしたのであった。

この話は、『枕草子』の社(やしろ)の段に出ていて、
蟻通の明神の起源を語っているのだが、中将のことばを原文でいうと、

『さらに、司(つかさ)も冠(かうぶり)も賜はらじ。
ただ老いたる父母の隠れ失せてはべる、たづねて、都に
住ますることを、ゆるさせたまへ』

というところ、子のやさしさが身に沁みて涙ぐましい。」
(p44~47)


なにやら、イソップ物語を連想してしまいそうになります。
いつの時代にも『また唐土の使者がきて難題を吹っかけた』。
そして『このときも、すべての人々は、できないと首を振った』。
なんだか、モロコシが、チャイナにダブります。

さてっと、清川妙さんは、このあとに、こう書いておりました。

「『枕草子の教室』で、この段を講義したあと、
私はこんなことを言った。
『アフリカのギニアから来ていらっしゃる外交官のサンコンさんが、
【年寄りが亡くなるのは、図書館がひとつなくなるようなものだ】と
おっしゃっているのを聞きましたが、なんといいことばでしょう』

それから、ちょっとつけ加えた。
『私も古典の小さな図書館になりたい。あまり本はたくさんないけれど、
そこに行ったらとても愉しい雰囲気があるような、そういう
小さな図書館になりたいと思います』」(p47)

はい。尖閣諸島と、唐土の使者と、古典の小さな図書館。

ちなみに、岩波文庫の「枕草子」では、
「244 蟻通の明神」にあり、p272~275です。
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いつも古典に救われた。

2020-09-06 | 本棚並べ
文庫本を整理してたら、
清川妙著「つらい時、いつも古典に救われた」(ちくま文庫)
が出てくる。早川茉莉編となっております。

うん。いつでも読めると思っていて、
いままで読まずにおりました。
この機会にパラパラとめくってみます。
枕草子・徒然草・万葉集について、章立てで
エッセイがまとめられておりました。
まずは枕草子の章のはじまり

「古典の作者の中で、いちばん友達感覚でつきあえるのは
清少納言である。娘時代に、はじめて彼女に出会ったときから、
私たちは波長が合った。これは私の腹心の友への手紙である。」
(p17)

徒然草の章のはじまりも引用。

「このごろ、思い立って『徒然草』をていねいに読み直している。
兼好法師の頭は非常に合理的で知的、筆は的確で歯切れがいい。

気持がだれたとき、マイナスに傾いたとき、どうしようかと迷ったとき、
そのページをパラパラとめくってみると、探しものをしていた心に、
かならずピタリと寄り添う言葉がみつかる。
たとえば、この一節など、一生を左右しそうな、おそろしいまでの深さ
を持っていると思えてならない。『ある者、子を法師になして』に
はじまる第188段の中のことばだ。

『(前略)行末久しくあらます事ども心にはかけながら、
世をのどかに思ひて、うち怠りつつ、まづ、さしあたりたる
目の前の事にのみまぎれて月日を送れば、事々なす事なくして、
身は老いぬ。終(つひ)に物の上手にもならず、
思ひしやうに身を持たず、悔ゆれども取り返さるる齢(よはひ)
ならねば、走りて坂をくだる輪のごとくに衰へゆく。』

ーーー将来にわたって、こうしたい、こうなりたいというような
夢を持っていながら、のんびりかまえ、怠って、目の前のことに
紛れて月日を過ごしていると、なにごとも達成できず、
いつか年をとっている。その道のベテランになることもなく、
いい暮らしを立てることもできず、ああ、しまったと思っても、
もはや遅い。そうなると、まるで坂道を走り転がる輪のように
衰えていくばかりなのだーーという意味である。

なんとも耳がいたい。ズキンと思いあたるものがある。
しかも、兼好のこの文章は真向から切先鋭く迫ってくる。」
(p95~96)

ちなみに、「まえがき」には、2012年の文が掲載されておりました。
そこにご自身の家族のことが、さりげなく語られていておりました。

「もう18年も前になるが、夫が、ある日、旅先で夢のように逝き、
その後を追うように、息子が病死。私は、その間に入院、手術と、
嵐の時代がわが人生にもあった。・・・」

万葉集については『まえがき』から引用。

「なぜ、万葉集が好きか。この歌集は、生きていることを
何より大事にしていて、愛の心がどの歌にもみずみずしく
あふれているからである。恋の世界、兄弟愛の世界、親子の愛の世界、
それぞれが身にしみ通る愛隣の情で歌われている。
それと、もうひとつ。天然現象に対しても、動物、植物に対しても、
人間の仲間でもあるかのような共感を持って歌っていることにも、
目をみはる気がする。星の林に漕ぎ入っていく月の船、
花妻である萩の花を訪ねて恋を語る雄鹿。万葉を読めば、
生きていることが心底貴重なことに思えてくるし、
まわりものすべてがいとしくなる。・・・」(p6)

うん。『令和』という年号が決まった際に、わたしは、
万葉集を読もうと思った。けれど、本棚に未読のまま。

はい。清川妙さんは
1921年3月20日生まれ。
2014年11月16日に死去。

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京都の路地というのは。

2020-09-05 | 京都
山折哲雄著「早朝坐禅」(祥伝社新書・2007年)に
京都のことが出てくる。

「・・・さらに、私が二週間に一度ぐらい足を運んで
お参りするのが、西本願寺だ。岩手県の花巻にある実家が、
浄土真宗西本願寺派の末寺だった関係で、私は学生時代、
京都までやって来て西本願寺の御影堂で得度を受けている。
10日間の研修を受け、最終日には頭を剃って墨染めの衣を着て、
当時の門主さんからおかみそりの儀式を受けた。
その西本願寺に散歩の途中に立ち寄り、本堂の畳に坐って
本尊の阿弥陀如来を仰ぎ見ていると、頭のなかに自分自身の
半生がふっと浮かび上がって来る。・・・・・そのなかに、
いまの生き方を考える上で味わい深い発見があるのだ。」
(p102)

このあとに、小見出しがあって
「京都の本質は、『路地』を歩かないとわからない」。
そこを引用。

「・・京都散歩の味わいは、そういった名所旧跡にだけ
あるわけではない。綾小路通での生活を始めてから
気づいて驚かされたのは、路地のそこかしこにささやかな
祠が祀られ、花が供えられていることだ。京都の路地というのは、
だいたい50メートルから100メートルごとに小さな祠があり、
地蔵や観音像などが祀られている。ただの石がひとつ、
ポンと置かれて祀られているような祠(ほこら)も少なくない。

その祠に、地元の人々が毎日欠かさず花を供えている。
生活のなかに、昔ながらの信仰心が根づいている何よりの証拠だろう。
花だけではない。どの祠も例外なく、きれいに掃き清められ、
水が打たれている。これは本当に感心させられた。

・・・私も、
京都には以前から頻繁に足を運んでいたにもかかわらず、
下京区に住むまでそれに気づかなかった。・・・」(p103)

ちょっと坐禅のことが気になってパラパラとひらいたら、
何のことはない、京都のページに目がいきました。

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ゆめで。

2020-09-04 | Weblog
昨日。ブログ更新を怠る。
可笑しかったのは、夢でブログを書いておりました。
うん。だんだんとGOO ブログが日常化しはじめてる(笑)。

そういえば、『夢で会いましょう』という
古いテレビ番組の題名がありました。
ブログの書きこみをしながら、他の方の
ブログを読ませてもらってる、
ひょっとしたら、それは夢かもしれない。
けれども、その夢を日々怠らず書きこんで
おられる方々がいる。という手ごたえは、
わたしに、何とも励みになります。

この頃、ハエが家にはいってくる。
顔や腕にとまったり、わたしは蠅叩きで
一匹一匹とどめをさす。
あれだけ暑かった際には、ハエもバテていたのかなあ。

昨日、バリューブックスから古本が届いておりました。
39円+送料257円=296円。
山折哲雄著「早朝坐禅」(祥伝社新書)。
はい。持っていたのですが、昨年の台風15号で、
水を吸ってしまったせいで(読めなくもなかったのですが)、
あらためて、古本で買いました。
帯つきで新刊なみのきれいさは、ありがたい。
本の『まえがき』はこうはじまっておりました。

「人間は、関係のなかでしか生きていくことができない。
これまでのわが人生をふり返って、どれだけ人間関係の広大な
網の目によって救われてきたかしれない。人間関係というものの
奥行きの深さ、ありがたさである。・・・・」

う~ん。これと坐禅とがどうつながるのか。
何かこれだけでも、私は満腹。
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太夫の花車。

2020-09-02 | 京都
古本を買うと、注意しなければいけないのは、
安いと、ついつい、あれもこれもと購入してしまう。

淡交社「写真集成 京都百年パノラマ館」(平成4年)。
これが新刊定価が6800円。古本で700円。
百年前の京都の写真が盛りだくさんの255ページ。
うん。あれもこれもの購入品の一冊。

さてっと、本代じゃなくて、本題に入ります。
山崎正和著「室町記」に

「・・・・下京の町衆たちが帰依する六角堂・頂法寺の
僧侶であった。豪商や振興武士の支持を受けた池坊の生け花は、
宗教的な供花をたちまち人間の眼の娯しみに変えて行った。
いろいろな法要の機会に池坊専慶が花を飾ると、
ひとびとはこれを見るために争って押しかけたという。・・
この頃、多様な生け花が互いに交流していたことが明らかであろう。」
(単行本p62)

ここに、「ひとびとはこれを見るために争って押しかけた」
という雰囲気は、イマイチ、ピントこなかったのでした。
はい。そこで「写真集成京都百年パノラマ館」。
ぱらぱらとひらいていると、「鴨川をどり」の写真のあとに
「島原の太夫道中 島原大門」の写真があるのでした。
道中では、大きな和傘を後ろから、花魁にかざして
道の両脇の人達が見守る中をすすみます。
気になったのは「島原大門」での写真でした。
『太夫と禿(かむろ、遊女に仕えた少女)と花車』と
写真下に解説が一行ありました。
着飾った太夫のすぐまえに花車があり、
太夫の身長の倍くらいの立花が大きく活けてあり、
それを木の車で6人の少女が綱をこれから引いてゆく場面です。
写真で見れば、太夫より、先導する花車の立花が鮮やかです。

うん。思う浮かぶのは、うちらの地元の山車。
地区によりさまざまなのですが、山車をひっぱる前に
金棒さんという小・中学生女子が二人歩く場合があったり、
竹竿に提灯を飾って前を持ち歩く場合だったり、
竹竿に紙の花飾りをひろげて、先頭を歩いていたり、
地区によっていろいろです・・・・。

その道中の写真では、太夫と大きな傘を中央に、
道の両脇を、明治のころですからほぼ和服の人たちが
大勢で見ているのでした。ああこれかもしれないなあ、
「ひとびとはこれを見るために争って押しかけた」場面。

太夫の道中では、残念ながら花車は写っていませんでした。

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「一期一会」の孤独。

2020-09-01 | 京都
山崎正和著「室町記」(昭和49年)に
花を語った箇所があり印象に残る。

「茶の湯と生け花は今日も日本の伝統を代表する芸能と
見なされているが、いうまでもなく、このふたつはともに、
室町時代の『社交文化』の産物であった。

・・・にちに八代将軍・義政の時代になると、
力を失った将軍にとって、社交ということが
ほとんど唯一の政治手段になったといっても過言ではない。
そうしたサロンの『もてなしの芸術』として生れた茶と花で
あるが、このふたつがいずれも、社会の多様な階層から
同時多発的に生み出されたということは面白い。・・・」

はい。ここでは生け花をとりあげて引用してみます。

「そのなかでもっとも画期的な人物は池坊専慶であろうが、
彼は下京の町衆たちが帰依する六角堂・頂法寺の僧侶であった。
豪商や新興武士の支持を受けた池坊の生け花は、
宗教的な供花をたちまち人間の眼の娯しみに変えて行った。
いろいろな法要の機会に専慶が花を飾ると、
ひとびとはこれを見るために争って押しかけたという。
やがて彼は宮中や青蓮院門跡にも招かれて美技を見せる・・・

精神的な意味を含みながら、しかも感覚的に華麗な花というものは、
貴族と民衆のこうした交流のなかからこそ生れるにふさわしい
芸術だったといえる。
それにしても、茶の湯はもちろん、生け花というものも、
芸術としてははなはだ風変りな存在である。それはどちらも
『もてなし』の芸術であって、一回のもてなしが終ればあとには
形を残さない宿命を持っている。・・・・・

・・・・・生け花の場合も花と花器だけが作品ではなくて、
それが置かれた部屋の全体が客を楽しまさなければならない。
枯れやすい花はそれだけ多く主人の配慮を要求するわけで、
むしろその心づくしが客の眼を喜ばせることになる。

中心になるのはあくまでも茶や花を楽しむ人間の関係であって、
それは移ろいやすく、指さしてどこにあるとも示し得ない
ような対象である。そういうものに形式をあたえて芸術化しようと
いうのは奇妙な努力であるが、考えて見ればいかにも室町時代に
似つかわしい努力であったかもしれない。

都会化と社会の動乱のなかで人間は深く孤独を知り、
それを裏返した熱心さで、一瞬の社交を重く、手応えのあるもの
にしようとした。『一期一会』というのは後世の言葉であるが、
日本人は長くこの孤独を忘れることがなかったようである。」
(第五章・乱世が生んだ趣味の構造・もてなしの芸術化(一))

うん。忘れられない箇所となりました。
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