新田次郎家の階段ということで
藤原正彦著「父の旅 私の旅」(新潮社・1987年)p189~190
藤原てい著「わが夫 新田次郎」(新潮社・昭和56年)p60
新田次郎著「小説に書けなかった自伝」(新潮文庫・・・)p75~76
3冊を本棚からとりだす。
はじめに、文庫から
「このころは四畳半の一室を仕事の場にしていたが、
なにかと不自由なので、増築して、二階の八畳間が
私の仕事場となった。その部屋はそのまま現在に及んでいる。
・・・・・
若かったからであろう。このころは役所から帰って来て、
食事をして、七時のニュースを聞いて、いざ二階への階段を登るとき、
〈 戦いだ、戦いだ 〉
とよく云ったものだ。自分の気持を仕事に向けるために、
自分自身にはげましの言葉を掛けていたのだが、
中学生の娘がこの言葉の調子を覚えこんで、
私が階段に足を掛けると、
戦いだ、戦いだと私の口真似をするので、
それ以後は、黙って登ることにした。・・・ 」(p75~76)
この文庫には、新田次郎年譜が28ページもあり、
そのあとには、藤原てい「わが夫 新田次郎」の
前回ブログで引用した箇所が載っており、
その次には、藤原正彦「父 新田次郎と私」も載っている。
その藤原正彦氏の文中にも、この階段が出てきます。
「夕食の後・・・
夏には半袖シャツにステテコ姿で、
それ以外の季節には丹前姿で、
毎日、二階の書斎へ続く十三階段を上っていった。
役所仕事の疲労がたまっていたり風邪で体調が悪い時などは、
階段をよろよろと一歩一歩上りながら、
『戦いだ、戦いだ』とうめくように言った。
こんな時、家族の皆が一瞬水を打ったように静まり、
間もなくそれぞれがそれぞれの持場に散るのだった。」
この箇所を藤原正彦著「父の旅 私の旅」をひらくと
微妙に言葉が異なっておりました。
「父は長い気象庁勤務のあいだ、帰宅するや、夕飯もそこそこに
書斎へ向かうのが日課だった。
役所生活をやめた後も、体調のすぐれない時や
構想がまとまらずに眠れない夜の続く時も、
この日課は続いた。いつもの丹前を着て、
『闘いだ、闘いだ』と自らを励ましながら
二階の書斎へ上って行く父の後姿は、
子供の私にとって、時には怖ろしく見えたこともあった。」(p189~190)
単行本の、藤原てい著「わが夫 新田次郎」(新潮社)からも引用。
「『思い切って、役所をおやめになったら・・・』
夫の姿を見かねて、度々云うのだが、
住み馴れた役所にも愛着がある様子だった。
それにも増して、『月給』という、安定した収入が魅力だった。
とにかく四人の家族をかかえて十何年も生活をして来た
実績の裏づけだったからである。
『戦いだ、戦いだ』夫はこの言葉を自分に云いきかせながら、
夜、七時のテレビニュースのあと、二階の書斎へ上っていった。
・・・・
しかし、子供達はこの父親の姿を見て育ったように思う。
当時、高校生、中学生になっていた彼等は、この父親の
努力を見て、黙って、食事がすむと、
それぞれが自分の部屋へ入って行った。 」(p60~61)
最初に引用した文庫にもどると、その時の様子を
ご自身がさらに続けて書かれておりました。
「・・・それ以後は、黙って登ることにした。
七時から十一時までは原稿用紙に向かったままで
階下に降りて来ることはなかった。
十時ころ娘がお茶を持って来ることがあったが、
黙って来て、黙って降りていった。
その娘が、母親にはお父さんの仕事は順調に行っているらしいとか、
考えこんでいたとか、ものすごく怖い顔で私を睨みつけたなどと
いちいち報告していた。
私自身には気がつかなかったことだが、
書いている場面によってはひどく真剣な顔をしたり、
悲壮な表情になっていたりしたようである。
十一時を過ぎると疲れを感じた。こうなったら駄目だった。
私は無理をせずにすぐ寝床に入った。疲れているせいか
直ぐ眠れた。翌日まで疲労が残ることはなかった。 」(p76)
私は、スカスカな断片読みで、パラパラ読みなのですが、
この文庫の丁寧な編集に感心させられた覚えがあります。
新田次郎は、67歳で亡くなる。
藤原ていは、98歳没。