和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

それぞれが、それぞれの。

2022-11-06 | 本棚並べ


新田次郎家の階段ということで

藤原正彦著「父の旅 私の旅」(新潮社・1987年)p189~190
藤原てい著「わが夫 新田次郎」(新潮社・昭和56年)p60
新田次郎著「小説に書けなかった自伝」(新潮文庫・・・)p75~76

3冊を本棚からとりだす。
はじめに、文庫から

「このころは四畳半の一室を仕事の場にしていたが、
 なにかと不自由なので、増築して、二階の八畳間が
 私の仕事場となった。その部屋はそのまま現在に及んでいる。
 ・・・・・

 若かったからであろう。このころは役所から帰って来て、
 食事をして、七時のニュースを聞いて、いざ二階への階段を登るとき、
  〈 戦いだ、戦いだ 〉
 とよく云ったものだ。自分の気持を仕事に向けるために、
 自分自身にはげましの言葉を掛けていたのだが、
 中学生の娘がこの言葉の調子を覚えこんで、
 私が階段に足を掛けると、
 戦いだ、戦いだと私の口真似をするので、
 それ以後は、黙って登ることにした。・・・   」(p75~76)


この文庫には、新田次郎年譜が28ページもあり、
そのあとには、藤原てい「わが夫 新田次郎」の
前回ブログで引用した箇所が載っており、
その次には、藤原正彦「父 新田次郎と私」も載っている。
その藤原正彦氏の文中にも、この階段が出てきます。

「夕食の後・・・
 夏には半袖シャツにステテコ姿で、
 それ以外の季節には丹前姿で、
 
 毎日、二階の書斎へ続く十三階段を上っていった。
 役所仕事の疲労がたまっていたり風邪で体調が悪い時などは、
 階段をよろよろと一歩一歩上りながら、
 『戦いだ、戦いだ』とうめくように言った。

 こんな時、家族の皆が一瞬水を打ったように静まり、
 間もなくそれぞれがそれぞれの持場に散るのだった。」


この箇所を藤原正彦著「父の旅 私の旅」をひらくと
微妙に言葉が異なっておりました。

「父は長い気象庁勤務のあいだ、帰宅するや、夕飯もそこそこに
 書斎へ向かうのが日課だった。

 役所生活をやめた後も、体調のすぐれない時や
 構想がまとまらずに眠れない夜の続く時も、
 この日課は続いた。いつもの丹前を着て、
 『闘いだ、闘いだ』と自らを励ましながら
 二階の書斎へ上って行く父の後姿は、
 子供の私にとって、時には怖ろしく見えたこともあった。」(p189~190)


単行本の、藤原てい著「わが夫 新田次郎」(新潮社)からも引用。

「『思い切って、役所をおやめになったら・・・』
 夫の姿を見かねて、度々云うのだが、
 住み馴れた役所にも愛着がある様子だった。

 それにも増して、『月給』という、安定した収入が魅力だった。
 とにかく四人の家族をかかえて十何年も生活をして来た
 実績の裏づけだったからである。

 『戦いだ、戦いだ』夫はこの言葉を自分に云いきかせながら、
 夜、七時のテレビニュースのあと、二階の書斎へ上っていった。
 ・・・・

 しかし、子供達はこの父親の姿を見て育ったように思う。
 当時、高校生、中学生になっていた彼等は、この父親の
 努力を見て、黙って、食事がすむと、
 それぞれが自分の部屋へ入って行った。  」(p60~61)


最初に引用した文庫にもどると、その時の様子を
ご自身がさらに続けて書かれておりました。

「・・・それ以後は、黙って登ることにした。
 七時から十一時までは原稿用紙に向かったままで
 階下に降りて来ることはなかった。

 十時ころ娘がお茶を持って来ることがあったが、
 黙って来て、黙って降りていった。

 その娘が、母親にはお父さんの仕事は順調に行っているらしいとか、
 考えこんでいたとか、ものすごく怖い顔で私を睨みつけたなどと
 いちいち報告していた。

 私自身には気がつかなかったことだが、
 書いている場面によってはひどく真剣な顔をしたり、
 悲壮な表情になっていたりしたようである。

 十一時を過ぎると疲れを感じた。こうなったら駄目だった。
 私は無理をせずにすぐ寝床に入った。疲れているせいか
 直ぐ眠れた。翌日まで疲労が残ることはなかった。   」(p76)


私は、スカスカな断片読みで、パラパラ読みなのですが、
この文庫の丁寧な編集に感心させられた覚えがあります。

新田次郎は、67歳で亡くなる。
藤原ていは、98歳没。

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「おーい、おーい、どこへゆくのか」

2022-11-04 | 本棚並べ
藤原てい著「わが夫 新田次郎」(新潮社・昭和56年)。
これが本棚に並べてありました。
大村はま・藤原てい。この次は
新田次郎・藤原てい。を並べることに。

昭和55年2月15日に新田次郎が亡くなる。
その日の様子を藤原ていは記したあとに、
「出合い」と題しはじまっておりました。
はい。引用したくなりましたので以下に。

「早春の光の中で・・・・
 今日は見合いの日である。
 『今度こそは藤原さまだからね』と、
 くりかえし母に云われていた。

 わざわざさまをつけるのは、母が相手の家を尊敬していたからである。
 それまでにも何回か見合いはしているのだが、
 すべて失敗をしていた・・・・・

 『ボク、藤原寛人(ひろと)と云います』
  ・・・
 『両角(もろずみ)ていと申します、よろしくおねがいします』
 そう云って出来るだけ丁寧に頭をさげた。・・・・
 母は、先方の家と旧知にあった関係で、しきりに話し込んでいる・・

 『諏訪はさむいですね』
 『はい』
 又、話は切れた。
 それだけで、その日は終わった・・・・・

 翌朝、母にせき立てられて、東京へ帰る相手を見送るために、
 上諏訪駅へ出た。
 『昨日は、失礼しました』
 相手は母にそう云っている。ふと目が合った時に、
 はじめて笑顔を見せた。・・そしていくらか、照れたような顔だった。

 『今度は手紙を出しますから』
 
 間もなく約束通りの手紙が来た。

 『先日は失礼しました。今日の東京は北東の風、
  風速五メートル、天気晴れ、ロビンソン風力計が、
  春の空にせわしくまわっています』

 全文がこれだけである。・・・・
 私は返事に困った。思いあぐねている時に、再び手紙が来た。

 『 根雪まだ はざまに白きふる里に
     よもぎ送らむと野にいでにけり 』

 この和歌一つだけ書いてあった。・・・・・
 不満ばかりがつのるような手紙だった。

 『よし、東京へ会いにゆこう』
 そう意を決して、上京した。


次に『結婚』と題した文。
そのはじまりは

 その年、昭和14年5月13日に私達は結婚をした。・・・
 それと同時に夫は千葉県の布佐町(現在の我孫子市)
 の測候所へ転任になった。・・・・

 一応母の所へ帰ってみようと考えるようになっていた。
 ・・・母に逢って、話してみたくなった。
 夫が書斎に入るのを見届けてから、かねて用意してあった
 荷物を小脇にかかえて、台所口から出た。・・・
 すべて内緒の行動である。・・・

 夢中になって歩いた。その時、自転車の音が後でした。

 『おーい、おーい、どこへゆくのか』

 『うちへ帰るんです』
 『それなら自転車に乗れ』

 ・・私は、自転車の荷台に乗った。
 夫はいきなり廻れ右をして、今来た道を走り出した。

 『私はうちへ帰りたいんです』
 『うちはこっちだ』



このようにして、新田次郎との生活が語られはじめます。
うん。ここまでとします。
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大村はま。藤原てい。

2022-11-01 | 本棚並べ
新田次郎・藤原ていご夫婦。
というのは、気になりますが、
今回は、藤原てい・大村はま。
この接点を、ひも解くことに。

はい。古本で注文してあった
藤原ていエッセー集「生きる」(読売新聞社・昭和59年)。
これが届く。新田次郎が亡くなってからのエッセーのようです。
さまざまな新聞や雑誌の注文に答えたエッセーがまとめられて、
それを一冊にしたものでした。

目次からひろって、二つのエッセーを読んでみました。

 私の中の大村はま先生(国語通信)と
 女学生時代(信濃毎日・昭和58年10月)と

これだけ読んで、私は満足。この2つのエッセーから引用。

「ある席上で、
 『女学校で、質実剛健の気風で、私はきたえられましたからね』
 と話したら、同席の人達が、妙な顔をした。
 たしかに戦前の教育ではあるが、その当時の女学校は殆どが
 良妻賢母を目標に教育されていた。そんな中で、
 私の母校、諏訪高等女学校、つまり今の諏訪二葉高校は、
 特異であったかも知れない。

 木綿の着物に木綿のハカマをはき、素足に下駄ばきである。
 ズックのカバンを肩にかけて、よほど寒くならなければ足袋をはかない。
 寒風を切って、頬を真っ赤にしながら勇ましく登校していた。
 表面を飾ることは、内容の乏しい証拠だときびしく教え込まれ、
 ひたすらに、質素な生活をしていた。・・・」(p230)

これは「女学生時代」の始まりでした。4㌻ほどの文の終りも引用。

「あの時代からおよそ50年がすぎようとしている。・・・・
 ・・ことにあの敗戦直後の頃のみじめさ。
 三児を連れて北朝鮮を一年余り放浪している。
 寒さと飢えと、敵に追われる恐怖とにさいなまれながらも、
 私は生きようと、全身の力をふりしぼった。
 
 『もうだめだ』とは一度も言わなかった。

 ・・・その根底にあるものは、
 あの女学生時代に鍛え上げられた根性だと思う。
 つまり国語の先生は、単に国語を教えるのではなくして、
 国語を通して、人間を形成してくれたのだと、
 ただただありがたく思うだけである。 ・・・・・。 」(~p232)

はい。この古本を注文したのですから、忘れずに、
「私の中の大村はま先生」からも引用しておかなきゃ。

いきなり、はじめの方にこうあります。

「・・『来年も先生に教えてもらえなかったら、この学校をやめます』
 私は泣きながら、大村先生にそう訴えていた。
 
 『万一、担任にならなくても、先生の家へ勉強に来たらいいでしょう』
 先生はしきりにそう言って慰めてくれていた。・・・・

 ちょうど女学校一年生の終りの頃で、私はその一年間、
 学校をやめることを考えつづけていた。親にすすめられて
 入学した学校ではあったけれども、その生活は決して快適な
 ものではなかった。きびしい規則ずくめの日々。
 ましてや寄宿舎での友達とのつき合いのむずかしさ。
 それまでのように山の中を自由にかけまわり
 おてんば娘で通っていた私にそれは耐えられなかった。
 常に逃げ出すチャンスをねらいつづけていた。

 ・・・・・・・
 『勉強をしよう、大村先生がいるんだもの』
 そう考えるようになった。先生は国語の先生だった。

 ・・・・・・・やがて二年生になった。
 私は大村先生の担任からはずれていた。

 ・・・・その頃から私も、本気になって・・
 かなり勉強をしたといっていい。学校で不足の分は
 寄宿舎で夜に、あるいは朝まで。仲間たちが遊んでいる時間には、
 裏山の草の中で、私は本を読んだ。そして、土曜日の夜、
 外出の許される時間は、大村先生の下宿を訪ねた。・・・

 『あなたのこの字は、なんですか』
 先生は、まずその文字の書き方から、手を取って教えてくれた。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   」
                    ( p166~172 )


はい。ブツ切りの引用では、申しわけないのですが、
わたしは、これを引用するのがやっとこさ。ここまでにします。


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