山梨百名山から見る風景

四方を山に囲まれた山梨県。私が愛して止まない山梨の名峰から見る山と花と星の奏でる風景を紹介するページです。

三ツ峠清掃登山(その1) ~富士山の形成と三ツ峠~  平成28年6月12日

2016年06月14日 | 番外編
 今から500万年ほど昔、人類はまだ誕生しておらず、アウストラロピテクスという猿人の化石が見つかったころの時代である。富士山はまだ形成されておらず、海の中に沈んでいた。しかし、その頃には既に三ツ峠をはじめとする御坂山塊は形成されており、毛無山などの天守山塊や丹沢山塊も既に出来上がっていた。三ツ峠から見る富士山の方向には海が見えていたということになる。8000万年もの長い歴史を持つとされるラン科植物は今とは違う形態を持っていたかも知れないが、その時代には既にこの山塊に生育していたと推定される。
 100万年ほど前にかつては島だった伊豆半島が太平洋プレートに乗って移動し、これらの山塊と衝突して陸続きとなり伊豆半島が形成された。衝突の際に生じた膨大なエネルギーは大きな地殻の変動をもたらし、古箱根山、小御岳山、愛鷹山の噴火が起こり、海底から隆起した。その後しばらくは火山活動は落ち着いていたのだが、10万年前に再び古御岳山と愛鷹山で大規模な噴火が起こり、この時に富士山の原型が形成された。そしてさらに1万年ほど前に、今度は小御岳山付近で繰り返し大きな噴火が起こり現在の富士山が形成された。このような高くて形の良い山になったのは先に形成されていた愛鷹山塊と小御岳山によって溶岩流の流れが堰き止められ、溶岩があまり流失しなかったことが要因の一つと考えられている。さらに西暦864年、富士北麓の長尾山付近で大規模な噴火が起こり大量の溶岩が流失した。当時はせの湖という一つの湖だったものが溶岩流によって分断されて精進湖と西湖の2つの湖に分かれ、溶岩流は広大な青木ヶ原樹海を形成するに至った。さらに1707年、宝永火口の噴火を最後に富士山の噴火は起こっていない。


    三ツ峠から見る富士山。100万年ほど前まではここには海が広がっていた。

 御坂山塊に咲いていたアツモリソウをはじめとする多くのラン科植物は、このような活発な噴火活動を繰り返してきた富士山を目の当たりに見てきたに違いない。火山礫や火山灰も降り注いだであろうし、空を覆う噴煙で不順な天候にも見舞われたであろう。しかしそのような激動の変化の中にあってもこれらの花たちは果敢に生き延びてきたわけである。ある花は動物の食害を避けるために木の上に棲み処を変え、あるものは葉緑素を持たずに他の植物や菌類から栄養を得る手段を選び、あるものは根を延ばして株分けで増殖する方法を選び、あるものはある種の菌と共生することによって成長する道を選んだ。さなざまに生き方を変え、形を変えてこれらの植物は生き抜いて行く術を身につけてきたわけである。それらの植物の中にあって、アツモリソウ属はもっとも長い歴史を持ち、植物の頂点に立つものだと言われている。


    葉緑素を持たないヒメムヨウラン


    ツラスネラ菌という共生菌とともに成長するアツモリソウ

 ラン科植物は8000万年もの長い歴史を持つ花であるにもかかわらず、ここ50~60年で大きな危機を迎えることとなる。それは戦後の園芸ブームに乗って山の上に咲くこれらの貴重な花たちが人の手によってことごとく持ち去られてしまったことである。植物の頂点に立つアツモリソウ属の花を持ち去るということは当然生態系のバランスを崩すという結果をもたらすわけである。それらの花が無くなることで共生していた菌類も消滅し、その場所には今まで生えることが出来なかった植物がはびこることなり、緑豊かだった草原は大きな変貌を遂げてしまうことになる。さらには地球温暖化と鹿の爆発的な増殖が拍車をかけて、ここ10年で山上の環境は大きく変わってしまっている。

 三ツ峠はこのような激動する植生の変化を防ぐために早い時期からさまざまな取り組みを行ってきた。盗掘の防止はもちろんだが、全国に先駆けていちはやく防護柵を設置して鹿の食害から山を守って来た。さらには積極的に植生を取り戻す取り組みも行われており、はびこってしまったテンニンソウや笹を取り除く作業をボランティアを募って行っている。昨年・一昨年は山梨県山岳連盟主催の三ツ峠清掃活動に参加させていただいたが、今年は山岳連盟で日程がとれない状況となってしまい、個人的に有志を募っての清掃活動を行うこととなった。(その2に続く。)
コメント (2)
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