後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

大友直人さんの指揮でモーツァルト交響曲第41番ジュピターを聴いて来ました

2010年02月06日 | 日記・エッセイ・コラム

府中の森芸術劇場で大友直人さん指揮、日本フィルハーモニー交響楽団の演奏でモーツァルトの41番ジュピターを聴いて来ました。あまり音楽のことを知らないので大友さんという方は初めてです。しかし感動しました。彼の情熱的な音楽の作り方が目に見えます。独創的な指揮ぶりですがモーツァルトの魅力をより一層引き出しています。楽団員一人一人の才能を徹底的に引き出そうとしています。かなり厳しい練習だったと思いました。演奏後、楽団員を地味な管楽器、打楽器、コントラバスの順に紹介し、最後に第一バイオリンを紹介しました。大友さんが楽団員へ感謝しています。相当細かな注文をつけたに違いありません。それだけに聴いている私は非常に感銘を受けました。最後の第四楽章では涙が出そうになって困りました。

ジュピターの演奏の前の部では、ソプラノ歌手、天羽明恵さんがモーツァルトのオペラの幾つかを唄いました。ソプラノの才能は素晴らしく、楽しく聴きました。

下に先程、家内が撮ってきた写真を2枚掲載します。その下に付記としてWikipediaの大友直人さんの紹介記事を掲載します。機会がありましたなら是非大友直人さんの指揮でオーケストラの演奏をお聴き下さい。必ずや感銘をお受けになると信じています。

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付記、大友直人さんの経歴:(Wikipediaより転載)

桐朋学園大学を卒業。学生時分は指揮の他、作曲・ピアノ・ダブルベースを学ぶ。

1986年より1988年まで日本フィルハーモニー交響楽団正指揮者として活躍。

1991年より東京交響楽団の正指揮者、2004年より同団の常任指揮者として活躍している。東京芸術劇場では、「大友直人プロデュースによるコンサート」を展開し、様々なソリストとも共演する。

1995年京都市交響楽団の正指揮者に就任。1996年より同楽団・首席指揮者、2001年より常任指揮者に就任し、2004年からはアーティスティック・アドヴァイザーを兼任。2008年度より常任を辞し、同楽団史上初の桂冠指揮者を務めている。

2000年春より創設された琉球交響楽団のミュージック・アドヴァイザーに就任。2001年3月に同楽団の設立コンサートを指揮し、以来琉響とは度々共演している。

2001年より、指揮者アラン・ギルバートとともに国際教育音楽祭「ミュージック・マスターズ・コースinかずさ」にて創設芸術監督を務める。

2004年、東京文化会館の音楽監督に就任。

2008年9月、第7回斎藤秀雄メモリアル基金賞受賞。


悲劇の国、ポーランド(2)英仏軍とともにドイツと戦った8万人のポーランド軍

2010年02月06日 | うんちく・小ネタ

私は学校で歴史を習いました。学校で習うことは真実で重要なことと信じて暗記しました。しかし成人になって、いろいろな本を読むと重要なことが省略されていることに気がつきます。1939年にドイツとソ連に併合されてたポーランドの120万人の軍人はどうなったのでしょうか?学校では習わなかったのですが、ヨーロッパという地域の文化を深く知る為には重要な事と考えています。

1939年9月のポーランド消滅の直前、政府の幹部と軍隊がルーマニアとハンガリー経由でフランスへ逃れ、亡命政府と亡命軍隊を組織したのです。亡命した軍人は35000人です。それにフランスに移民していた45000人のポーランド人が加わって8万人の亡命ポーランド軍を編成したのです。フランス政府から軍服、武器、戦車、大砲を供給され、ドイツ軍とノルウエイ戦線とフランス戦線で熾烈な戦いを繰り広げたのです。この亡命ポーランド軍は自由ポーランド軍という名前で活躍したのです。そのうちフランスがドイツに降伏します。その前後に自由ポーランド軍はイギリスへ移動し、イギリス軍と共にドイツと戦うのです。特筆すべきは自由ポーランド軍には多くの戦闘機乗りが居たことです。フランスでもイギリスでも戦闘機に乗ってドイツ空軍を迎え撃ったのです。北アフリカのチュニジアで15人のポーランド人飛行士が戦っています。イギリス製のスピットファイヤーやハリケーンという名前の戦闘機を操縦しドイツ機を撃ち落としたのです。一つだけ例を上げます。亡命先の英国で編成された第303「コシチェシコ」戦闘機中隊はドイツ機を126機も撃墜したのです。(歴史群像、2010年2月号、p72)。

明治維新以後、日本は清国、ロシア、中国、米英と戦いました。結果は勝ったとか負けたとか明快な結果ばかりです。結果が単純で分かり易いのです。

しかしヨーロッパで起きる戦争は複雑です。単純に勝ったとか負けたとは言い切れません。ヨーロッパの戦争は日本人の国家観では理解出来ない複雑な社会現象なのです。 何百年も前の封建時代の遺恨も底にあります。宗教戦争、例えば30年戦争の対立も残っています。共産主義や自由主義というイデオロギーの問題もあります。そして宗教も関係します。

間違っているとは思いますが、私のつまらない憶測を最後に書いて終りに致します。

ポーランドは人口の90%がカトリックの国です。ヨハネ・パウロ2世の出身国です。亡命政府や3500人もの亡命軍人が親ドイツのルーマニアやハンガリーを何故無事に通過できたのでしょうか?ルーマニアはカトリック国です。人々が亡命ポーランド人を個人的に支援したのかも知れません。フランスもカトリック国です。何か共通の精神文化をお互いに感じたのかも知れません。そうです宗教は人々を助けるときは有効です。しかし一旦武器を手に取ると無力になります。

ヨーロッパでは国籍よりも個人の思想や能力が重要な地域と言ったら言い過ぎでしょうか?考えさせられる問題です。(続く)

付録:共産主義から解放されたワルシャワの風景写真(出典:Wikipediaより);

左から順にショパンの生家、聖アンナ教会、1979年ワルシャワを訪れたヨハネ・パウロ2世が連帯の為に行った野外ミサ の3枚の写真です。

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日本の歴史のなかで現在が最良の時代(2)高い公徳心ー清潔な街路、駅、公園

2010年02月06日 | 日記・エッセイ・コラム

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皆様はこの公園の写真をご覧になって何を感じられますか?東京の郊外にはよくある公園の風景です。しかしこれを見て、私は大きな喜びを感じます。地面に紙屑が一つも落ちていない、その清潔さに吃驚しているのです。人々が決して紙屑を捨てないのです。公徳心が高いのです。道路も駅も公衆トイレも清潔です。どんな地方の村に行っても全てが完全に清掃され、清潔です。このような国に住んでいる私はしみじみと幸福感を味わっています。

しかし人々の公徳心は一朝一夕に高くなったのではありません。終戦後の混乱期の話は古すぎるので止します。しかし1960年にアメリカへ留学したとき受けた大きなショックを忘れる事が出来ません。彼らの公徳心の高さに打ちのめされたのです。道路も公園も紙屑一つ有りません。当時の日本の公共の場所はゴミや紙屑が一杯でした。人々が勝手に捨てるのです。とくに観光地はゴミの山で、それが当たり前の事だったのです。車の窓からはポイポイとタバコの吸い殻を捨てます。

若かった私は戦争に勝つ国は公徳心が高いものだと吃驚し、純粋に感動しました。

その後、日本人の公徳心は2度大きく上がりました。一度目は1964年のオリンピックから高度成長期です。外国人観光客を大いに呼び込むためにも道路や駅や公衆トイレを清潔にしました。しかしそれは他国の人々を意識した公徳心で、本物ではありません。本物の高徳心が一気に育ったのは1990年のバブル経済の崩壊後です。経済成長が止まった日本人は自信を失うのです。しかし間もなく人々は経済成長だけを目標に生きる愚かさに気がつきます。人生観が多様化します。そして成長神話にとりつかれ足元をみる暇のなかった生き方を反省するのです。

その結果はいろいろな形で現れました。抽象的な言い方で恐縮ですが、日本人が内省的になり、人間らしく生き始めたのです。文化の質が変化したのです。

公共の場所を清潔にするのは自分の心の平和の為にするようになりました。外国から来る観光客の為にするのではありません。

このような公徳心の高い時代は明治維新以来初めて来たのです。

日本の歴史上で最高の時代とは言えませんが最良の時代の一つではないでしょうか?戦国時代にフランシコ・ザビエルとともに来たイエズス会の神父がその本部へ送った書簡で、日本人の公徳心の高さを絶賛しています。日本のどんな片田舎へ行っても道にはゴミが無く掃き清めてある。家家の周りや庭先も整理整頓され乱雑さや不潔感が感じられない。それ以前に通ってきた東南アジアの国々とはまったく違うと報告しています。

誤解を恐れずに断言すれば、公徳心の高低こそが文化の高さを決めているのです。私はこのような時代に日本に生きていることを誇りに思っています。

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。藤山杜人