後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

土浦市は太平洋へつながっています

2010年02月25日 | うんちく・小ネタ

太平洋の漁業基地の銚子港から利根川を20km遡り、霞が浦の東の外浦へ入り、古い利根川を20km走り、霞ヶ浦へ入り、40km巡航するとJR土浦駅の東口につきます。合計80kmの航路です。今朝、ヨットの係留地へ行きましたら、銚子港の漁船が泊っていました。ヨットでもマストを倒して、幾つかの橋を潜って80km航行して行くと太平洋へ出られます。私は行ったことはありませんが、隣のヨットの亡くなった友人は何度か太平洋へ出て、九州までセイリングしていました。その友人を思い出して銚子から来た魚船の写真を撮りました。個人的な日記で恐縮です。

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霧の霞ヶ浦でセイリングをして来ました

2010年02月25日 | 写真

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今日は7時に家を出たので、9時40分にはセイルを上げられました。一面深い霧です。霧の中のセイリングはロマンチックです。キャビンの中のステレオでショパンのピアノ曲を聴きながら、霧の湖面を滑るように走ります。風が弱かったので舵を固定してキャビンの中で寛ぎながら走りました。

3時間も沖に出たのですが霧は晴れません。黒い点のように見える鴨類だけが湖上に存在するものでした。結局、帰港するまで深い霧が漂っていました。

このような霧の中のセイリングは久しぶりだったので、その楽しさに少し興奮しました。

ごく詰まらない写真ですが3枚お送りいたします。(終り)


日本が世界に誇れる都市、それは長崎です

2010年02月25日 | うんちく・小ネタ

日本には世界の人々へ誇れる町や自然が多くあります。江戸時代の町が保存されている高山や、合掌作りの白川郷もあります。富士山もあります。松島や天の橋立のような絶景もあります。

その一方で、宗教的な理由のために、キリスト教国の人々が尊敬している都市があります。それが長崎です。

日本人が260年間の禁教にもかかわらず信仰を守り抜いた所です。隠れキリシタンが明治維新の直後に外国人神父へ信仰を告白しました。26聖人の銅像があります。そして長崎で6年間活躍したコルベ神父が1982年に聖人になったのです。その時の列聖記念銅像もあります。その銅像へヨハネ・パウロ2世が花輪をささげに来ました。

そしてあのマザーテレサも来てくれたのです。一緒に御祈りしてくれたのです。下にその時の写真を掲載致します。出典は長崎市の本河内教会のHPからです。

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この長崎ヘアメリカは原子爆弾を落としたのです。その事で、心あるアメリカ人は罪深さを感じているはずです。原爆で廃墟になった長崎に、なにも起きなかったように教会が蘇り、祈りが静かに続いているのです。このような都市こそ、我々が世界中の人々へ誇れる都市と思います。いかがでしょうか?(終り)


悲劇の国、ポーランド(9)ポーランド出身のローマ法王がコルベ神父を偲び長崎へ来る

2010年02月25日 | うんちく・小ネタ

1939年、ポーランドを占領したドイツ軍が全国に8ケ所の絶滅収容所を作り、270万人のポーランド在住ユダヤ人を殺戮し尽くしたことは前回書きました。カトリックの神父も処刑されていたのです。悲惨な収容所で、マキシミリアーノ・コルベ神父が一人のユダヤ人の命を助けるために処刑されたのです。その悲劇の国で生まれた一人の男がローマ法王になるのです。ヨハネ・パウロ2世です。イタリア人以外が法王になるのは445年ぶりです。

戦乱と絶滅収容所跡を見て育ったパウロ2世は世界平和の為に諸国を飛び回り、各地の信者とともに平和の祈りをします。そして1981年に日本にも来ます。日本のカトリック信者のために東京で盛大なミサをしてくれました。しかし彼の日本訪問にはもう一つの大きな目的があったのです。長崎へ行って日本の26聖人をはじめ多くの殉教者を讃え、そしてコルベ神父の活躍の跡を辿り、記念聖堂でお祈りをするという大きな目的です。コルベ神父は1930年から1936年まで長崎で働いていたのです。

Slide31 長崎の西の郊外にある「本河内教会」には、コルベ神父の銅像があります。この写真はこの教会のHP(http://www1.odn.ne.jp/tomas/hongouti.htm )から転載しました。

コルベ神父の記念聖堂もあります。彼が作った「聖母の騎士修道院」もあります。コルベ神父の活躍を偲ぶものが沢山あるのです。ヨハネ・パウロ2世は長崎への旅を「巡礼の旅」とも言っていました。同じポーランド人のコルベ神父がユダヤ人を助けるために死んだのです。ヨハネ・パウロ2世がコルベ神父の銅像へ花輪を捧げ(右)、コルベ記念聖堂で祈っている様子(左)の写真を下にしめします。(写真の出典は、http://www.seibonokishi-sha.or.jp/in20.htm です。)

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Korube041111 コルベ神父記念小聖堂の写真を左に示します。(写真の出典は上の写真とおなじです)

パウロ2世はこの直後の1982年にコルベ神父を聖人として公認しました。それまで聖人はキリスト教の信仰を捨てないために殉教した人々に限られていました。

それが異教徒の人の命を救う為に死んだ人も聖人として認めたのです。聖人にたいする新しい考え方を導入したのです。

パウロ2世は戦争に巻き込まれた悲劇の国に生まれ育ったのです。出国以来はじめて、1979年にポーランドの土を踏み、地面にぬかづいたのです。宗教の違いを先鋭化すると戦争の原因になると理解していました。違う宗教の人々と積極的に会い、友好を深め、世界平和のために協力し、努力したのです。

例えば日本へ来た時も、ローマ法王は神道信者の昭和天皇を表敬訪問しました。そしてキリスト教諸宗派の代表や仏教の諸宗派の代表と会い、異宗教や異宗派の友好関係が宗教人にとって非常に重要なことを真剣に説明しました。この事実は読売新聞の2009年11月10日号の10ページ目のヨゼフ・ピタウ「時代の証言者」に書いてあります。仏教界はヨハネ・パウロ2世の態度を理解し、歓迎します。特に成田山新勝寺は広島での法王の平和メッセージが素晴らしいからと、そのメッセージを取り寄せました。そして平和大塔を作り、法王の平和メッセージをカプセルに入れて塔の基壇の下に埋めたそうです。仏教とキリスト教の協力で平和を守る祈りをしたのです。

ヨハネ・パウロ2世はキリスト教の全ての宗派を再び融合・統一する努力もしました。例えば聖ピエトロ寺院での祭祀にはイギリス教会(聖公会など)のカンタベリー大主教と東方の正教会のコンスタンティノポリス総主教と一緒に司祭しました。東方の正教会とはギリシャ正教、そしてロシア正教、日本正教会などを含みます。2000年前のイエス様のころはこれらの別々の宗派は存在しなかったのです。そのもともとの状態へ戻し、正しいあり方に復帰しようとする運動をエキュメニズム(教会一致促進運動)と言います。ヨハネ・パウロ2世は、別々の宗派の存在がキリスト教としてあるべき状態でないという強い信念を持っていたのです。

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。藤山杜人

今回をもって「悲劇の国、ポーランド」の連載を終了とします。この拙い連載をお読み頂き、ポーランドへ想いを馳せて下さった全ての方々へ深い感謝をお送りいたします。

悲劇の国、ポーランドは人口の90%がカトリックの信者です。1991年に共産主義を止め、民主国家になって以来カトリック教会は勢いを取り戻しました。多くの国民の傷ついた心が、ヨハネ・パウロ2世によって癒されました。どんなにか強く癒されたか想像に余りあります。私の悲しみも少し救われました。