後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

悲劇の国、ポーランド(3)ワルシャワ蜂起の悲劇ー66年後の現在何故書くのか?

2010年02月11日 | 日記・エッセイ・コラム

ポーランドで起きた悲劇を書くのは気が重いです。数日、逡巡したあとでやはり書き続ける事にしました。人類の悪魔のような行為を絶対に忘れないために。そして祖国の為に立ちあがった若者の勇気を讃え、冥福を祈るために。

ドイツ軍の占領下のワルシャワで地下に潜っていたポーランド軍5万が蜂起して戦ったのです。ドイツ軍はすかさず鎮圧にかかり蜂起軍を殺戮します。すぐ近くまで来ていたソ連軍は高みの見物で、助けようとしません。ドイツ軍が少しでも弱体化するのを待っていたのです。イギリスへ逃げていた亡命政府もポーランド軍も遠方すぎて手が出せません。蜂起軍が2ケ月後に鎮圧されドイツ軍も被害甚大な状態になってからソ連軍が侵入し、蜂起に加わったポーランド人を全て逮捕、処刑します。ポーランド独立を目的にした蜂起軍はソ連の占領後も同じ事をするに決まっていると疑心暗鬼になったからです。ワルシャワ蜂起で死んだポーランド人は20万人から25万人といいます。ソ連に見放されドイツ軍にムザムザ殺戮されたのです。ドイツ軍もソ連軍も悪魔のような所業をしたのです。戦後、ポーランドは共産国家になり、ソ連の衛星国になります。

その後、連帯のワルサ代表が改革開放への道へ拍車をかけ、1989年に新生、ポーランド共和国が成立します。その初代大統領になったヤルゼルスキがワルシャワ蜂起の悲劇を見ています。彼は、ソ連軍とともにポーランド東部へ進撃して来たポーランド第一軍団の将校でした。ワルシャワを10km先にして、切歯扼腕していたそうです。ポーランドには現在アメリカの基地がありミサイル防衛網が敷かれています。ロシアのミサイル攻撃に備えているのです。

下に「ワルシャワ蜂起」としてWikipedia百科事典の掲載されている蜂起軍の写真と文章を再録しておきます。

Lokajski__powstancy_w_c59arc3b3dmie @ワルシャワ蜂起の経緯

1944622日から開始された、ソビエト軍の作戦の成功により、ドイツ中央軍集団は壊滅し、ナチス・ドイツは敗走を重ねた。ドイツ軍は東部占領地域に再編成・治安維持のために駐屯する部隊をかき集めて戦線の穴を埋めて防戦に努めた。ソ連軍占領地域がポーランド東部一帯にまで及ぶと、ソ連はポーランドのレジスタンスに蜂起を呼びかけた。730日にはソ連軍はワルシャワから10kmの地点まで進出。ワルシャワ占領も時間の問題と思われた。ポーランド国内軍はそれに呼応するような形で、8月1、ドイツ軍兵力が希薄になったワルシャワで武装蜂起することをソ連軍と打ち合わせた[1]81日午後2時頃、約5万人のポーランド国内軍は蜂起を開始。国内軍は橋、官庁、駅、ドイツ軍の兵舎、補給所を襲撃する。

@蜂起に対するドイツ軍の反撃

鎮圧軍司令官に任ぜられたエーリヒ・フォン・デム・バッハSS大将は83日には現地に入り、周辺の部隊をかき集め、5日には反撃に出る。急遽近隣に駐屯していた部隊をかき集めたドイツ軍は殆どが大隊規模の部隊だけで、臨時に戦闘団に編成し、市街地西側から攻撃を開始する。7日には市街地を何とか横断し、国内軍占領地を分断し、包囲されていた部隊を解放した。しかし、市街地に立て籠もる国内軍の抵抗はすさまじく、激しい市街戦が続く。国内軍も819日に総反撃に出て、電話局を占領し、120名のドイツ兵が捕虜になった。ディルレヴァンガー連隊、カミンスキー旅団の残虐行為の報復として、捕虜のうち武装SS、外国人義勇兵は全員その場で処刑された。

@高見の見物を続けるソ連軍

ヴィスワ川対岸のプラガ地区の占領に成功したソ連軍は市街地への渡河が容易な状況にあったにもかかわらず、蜂起軍への支援をせずに傍観を決め込んだ。ソ連軍と共に東方からポーランドへ進軍しプラガ地区に到着していたジグムント・ベルリンク将軍の率いるポーランド人部隊「ポーランド第1軍団」のみが対岸の蜂起軍支援のための渡河を許され、彼らポーランド人軍団はベルリンク将軍以下必死で蜂起軍の支援をしたものの、その輸送力は充分ではなかった。ソ連軍は輸送力に余裕があったにもかかわらずポーランド第1軍団に力を貸さなかった。のちにポーランド人民共和国最後の国家指導者で1989の新生ポーランド共和国初代大統領となったヴォイチェフ・ヤルゼルスキはこのときポーランド第1軍団の青年将校として現地におり、物資補給作戦に参加している。彼はこのときの燃え盛るワルシャワ市街を眺めながらソ連軍に対して涙ながらに感じた悔しさをのちに自伝『ポーランドを生きる』のなかで赤裸々に吐露している。

ソビエトはイギリスやアメリカの航空機に対する飛行場での再補給や、西側連合国による反乱軍の航空支援に対し同意せず、質・量に勝るドイツ軍に圧倒され、蜂起は失敗に向かっていく。

@復讐心に狂ったドイツ軍によるワルシャワの徹底的破壊

蜂起終結後、ドイツ軍は火炎放射器により市街の破壊を行ったのです。更にその後、ドイツ軍による懲罰的攻撃によりワルシャワは徹底した破壊にさらされ、蜂起参加者はテロリストとされ、レジスタンス・市民約22万人が戦死・処刑で死亡したと言われる。しかし、イギリス政府がワルシャワのレジスタンスを処刑した者は戦犯とみなすとラジオを通して宣言したため、レジスタンスへの処刑は止んだ。10月3、国内軍はドイツ軍に降伏しワルシャワ蜂起は完全に鎮圧された。翌日、ワルシャワ工科大学に国内軍は行進し、降伏式典の後、武装解除された。降伏した国内軍は、捕虜として扱われて捕虜収容所に送られた。しかし、武装解除に応ぜず、地下に潜伏して抵抗を続ける者も多かった。

市民の死亡者数は18万人から25万人の間であると推定され、鎮圧後約70万人の住民は町から追放された。また、蜂起に巻き込まれた約200名のドイツ人民間人が国内軍に処刑されたと言われている。国内軍は16千人、ドイツ軍は2千名の戦死者を出した。

@蜂起鎮圧後3ケ月もドイツ軍の占領が続き、1945年1月なってやっとソ連軍が進撃する

ソ連軍は1945に入った112日、ようやく進撃を再開。117日、廃墟と化したワルシャワを占領した。その後、ソ連軍はレジスタンス幹部を逮捕し、自由主義政権の芽を完全に摘み取った。生き残った少数のレジスタンスは地下水道に逃げ込み、ソ連軍進駐後は裏切ったソ連を攻撃目標とするようになった。共産政府樹立後も、要人暗殺未遂などしばらく混乱が続いた。

@ワルシャワ蜂起の背景

ワルシャワ蜂起を指導したのはポーランド亡命政府である。ポーランドには第二次世界大戦勃発直後、ルーマニアからパリを経由し、ロンドンに亡命した「ポーランド亡命政府」が存在した。亡命ポーランド政府にとって、ソ連は自国をナチスドイツと共に侵略した国であったが、独ソ戦開始後はソ連に接近する。さまざまな問題により、決して良い状態でなかった両政府の関係は、カティンの森事件の発覚により決定的に悪化する事となった。

東欧をナチスドイツから解放してきたソ連は、ロンドンの亡命ポーランド政府とは別に、共産党系主導の親ソ派政権樹立を目指し、ポーランド東部ルブリンに親ソ政権を樹立していた。したがって亡命政府側主導の武装蜂起は、相容れるものではなかった。そのためワルシャワ蜂起は、亡命ポーランド政府主導の組織を壊滅させるための、ソ連の意図的な陰謀であったという説もある。


英香 著 「別れ」

2010年02月11日 | 日記・エッセイ・コラム

ロンドンとは言っても街中ではなく、南に車で20~30分程の、広大な緑の森に囲まれた地域に我が家はある。
静かで端正な家並みが、深い緑に包まれたこの方面の雰囲気が事の外気に入っている私達は、渡英以来何軒か住まいは変わったものの、いつもこのエリアから離れた事はない。
兄の葬儀を終え英国に戻った私を迎えてくれたこの町で、久々に車を走らせていると、車窓に飛び込んで来る町の景色の其処ここに、長い英国生活の様々な想い出が刻まれていて、その時々の光景がまぶたに鮮明に蘇る。
何かあっても「私の帰る場所は・・・やっぱりこの国なのかもしれない・・・」そう感じさせてくれる瞬間でもある。
私は二人の兄を持つ末娘としてこの世に生を受けた。
末っ子の一人娘ということで、特に父は私を「目の中に入れても痛くない!」と公言してはばからない程可愛がってくれた。
・・・が、実際の日常では、常に長男が別格の待遇を受けるという典型的な古い家風の家に育った。
毎日の食事の光景が全てを物語るように、いつも父に継ぐ上座に座るのは幼い頃から長男であって、思慮深く飛びぬけて聡明であったにも拘らず、下の兄はどちらかと言うと我が家では影の薄い存在であり、更に言えば、母や祖母そして私は常に末席に座らされた。
対照的とも言える性格の兄同士は、僅か2歳違いと歳が近かったせいもあってか、二人はいつも行動を共にし、時には兄弟喧嘩をするような時もあったが、総じて仲の良い兄弟であった。
しかし、歳が離れていた私は、下の兄を尊敬し慕いこそすれ、幼心にも我がままで身勝手に映った長兄との距離は遠く、どこかよそよそしい関係のまま大人になった。
この間、下にも置かぬ育てられ方をした長兄は、長男としての自覚を散々植え付けられて来たにも拘らず、およそ長男らしくない自由奔放な人生を歩んだ。
一方、ほとんど放って置かれたかに見えた下の兄は、大学卒業と同時に海外に渡ったものの、着々と堅実な人生を歩んだ。
代々地方の医者という家庭に育ち、上四人の兄弟が全員地元の医者になったにも拘らず、末っ子だった父は親の反対を押し切り東京に出て事業を始めたように、長兄も又、父の期待を裏切り、父の跡を継ぐ事もなく一人でいくつものビジネスに手を染め、結果、そのどれをも形に残すことなく晩年を迎えた。
派手に豪遊する事が大好きで、酒豪がたたって入退院を繰り返す事もあったが、その都度、何事もなかったかのように又元の不摂生な生活を繰り返した。
「人生は太く短く!」と豪語していたが、誰の目から見ても生き方の上手な人ではなかった。
そんな長兄が、お正月気分も抜け切らない一月上旬、いつものように行きつけの店々で豪遊し・・・その結果、思わぬ転倒事故による脳挫傷であっけなく亡くなった。
思い起こせば、昨年の夏の終わり、いつものように英国に戻る直前の私に、長兄は珍しく電話をして来た。
「母さんももう92歳・・・そう長くはないと思うが・・・何かあっても僕が最後をちゃんと見送るから・・・日本の事は心配するな・・・」
予期せぬ長男らしい言葉に驚きながらも、母の最期には自分が喪主として葬儀を仕切るつもりで居る事を知って、それまでの私のわだかまりが一瞬にして溶けて行くのを感じた。
しかし、最後に本人が一番望んでいたかもしれない長男らしい事が出来ないまま・・・母より先に、67歳の若さで、私達に別れを告げた。
生前入退院を繰り返す長兄に「貴方は心配ばかりかけて・・・いいですか、親より先に逝く事ほど親不孝はないのですからね・・・」と叱りながらも、父亡き後、唯一人日本に住む長男を、やはり心の支えとして生きて来た母は、人目をはばかることなく号泣した。
日本での総ての雑事が終って、下の兄も私も各々の国に帰国する前の晩、銀座で数十年ぶりに二人だけの夕食をした。
ゆっくりと語り合いたかったので個室を頼み、お酒を酌み交わしながら、夜が耽るまで長兄の想い出話に花を咲かせた。
泣いたり・・・時には笑ったりしながら・・・。
帰り際「僕とお前は精一杯生きて、兄貴の分まで母さんをうんと幸せにしてあげなければな・・・」
兄のその言葉に・・・又涙がこぼれた。(終り)

以下のロンドン郊外の風景写真は、http://www.europe-z.com/tabi/gb_london/00.html からお借りしました。記して感謝の意を表します。

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世界中に住む日本人と肉親のお葬式、その鮮烈な悲しみ

2010年02月11日 | 日記・エッセイ・コラム

ブログを書いていると外国に住み、活躍している人々とお付き合いが出来ます。アメリカのワシントンDC、カリフォルニア、中国、タイのチェンマイ、ネパール、ハンガリー、南フランス、そしてイギリスなど。皆さん幸多い人生です。しかし日本に居る肉親の死と葬式にどのような対応をされるのでしょうか?

昔は外国に住みついている日本人は少なかったので大きな問題ではありませんでした。しかし海外に色々な理由で棲みついている日本人が非常に増加しました。したがって現在では重要な個人的な問題です。

上にある記事はイギリスに住んでいる「英香」さんというある女性の方の「別れ」という文章です。趣味人倶楽部の2月5日の日記として発表した文章です。転載に対するご本人のお許しも頂いています。

この文章を何故、全文転載するのでしょうか?その理由は幾つかあります。

1)日本に居る肉親の死に対して、外国に住んでいる日本人の一つの対応の仕方が書いてあります、

2)死んだ長男とまだ元気な次兄、そして末娘として育った自分の心の交わりが抒情的にしみじみと書いてあるからです。父母のことも丁寧に書き込んでいます。葬式を終えてまたロンドンへ帰って行くときの気持ちが書いてあります。

3)現在は消えてしまった昭和の日本の良い上流家庭の中の日常生活が記録されているからです。それは定点カメラで撮った民族文化の歴史的断片と、私個人は高く評価したからです。将来の民衆歴史学の資料になると思ったからです。

上に掲載する、趣味人倶楽部の英香さんの「別れ」という抒情的な文章をお楽しみ頂き、いろいろお考え頂ければ嬉しく思います。

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。藤山杜人