ポーランドで起きた悲劇を書くのは気が重いです。数日、逡巡したあとでやはり書き続ける事にしました。人類の悪魔のような行為を絶対に忘れないために。そして祖国の為に立ちあがった若者の勇気を讃え、冥福を祈るために。
ドイツ軍の占領下のワルシャワで地下に潜っていたポーランド軍5万が蜂起して戦ったのです。ドイツ軍はすかさず鎮圧にかかり蜂起軍を殺戮します。すぐ近くまで来ていたソ連軍は高みの見物で、助けようとしません。ドイツ軍が少しでも弱体化するのを待っていたのです。イギリスへ逃げていた亡命政府もポーランド軍も遠方すぎて手が出せません。蜂起軍が2ケ月後に鎮圧されドイツ軍も被害甚大な状態になってからソ連軍が侵入し、蜂起に加わったポーランド人を全て逮捕、処刑します。ポーランド独立を目的にした蜂起軍はソ連の占領後も同じ事をするに決まっていると疑心暗鬼になったからです。ワルシャワ蜂起で死んだポーランド人は20万人から25万人といいます。ソ連に見放されドイツ軍にムザムザ殺戮されたのです。ドイツ軍もソ連軍も悪魔のような所業をしたのです。戦後、ポーランドは共産国家になり、ソ連の衛星国になります。
その後、連帯のワルサ代表が改革開放への道へ拍車をかけ、1989年に新生、ポーランド共和国が成立します。その初代大統領になったヤルゼルスキがワルシャワ蜂起の悲劇を見ています。彼は、ソ連軍とともにポーランド東部へ進撃して来たポーランド第一軍団の将校でした。ワルシャワを10km先にして、切歯扼腕していたそうです。ポーランドには現在アメリカの基地がありミサイル防衛網が敷かれています。ロシアのミサイル攻撃に備えているのです。
下に「ワルシャワ蜂起」としてWikipedia百科事典の掲載されている蜂起軍の写真と文章を再録しておきます。
1944年6月22日から開始された、ソビエト軍の作戦の成功により、ドイツ中央軍集団は壊滅し、ナチス・ドイツは敗走を重ねた。ドイツ軍は東部占領地域に再編成・治安維持のために駐屯する部隊をかき集めて戦線の穴を埋めて防戦に努めた。ソ連軍占領地域がポーランド東部一帯にまで及ぶと、ソ連はポーランドのレジスタンスに蜂起を呼びかけた。7月30日にはソ連軍はワルシャワから10kmの地点まで進出。ワルシャワ占領も時間の問題と思われた。ポーランド国内軍はそれに呼応するような形で、8月1日、ドイツ軍兵力が希薄になったワルシャワで武装蜂起することをソ連軍と打ち合わせた[1]。8月1日午後2時頃、約5万人のポーランド国内軍は蜂起を開始。国内軍は橋、官庁、駅、ドイツ軍の兵舎、補給所を襲撃する。
@蜂起に対するドイツ軍の反撃
鎮圧軍司令官に任ぜられたエーリヒ・フォン・デム・バッハSS大将は8月3日には現地に入り、周辺の部隊をかき集め、5日には反撃に出る。急遽近隣に駐屯していた部隊をかき集めたドイツ軍は殆どが大隊規模の部隊だけで、臨時に戦闘団に編成し、市街地西側から攻撃を開始する。7日には市街地を何とか横断し、国内軍占領地を分断し、包囲されていた部隊を解放した。しかし、市街地に立て籠もる国内軍の抵抗はすさまじく、激しい市街戦が続く。国内軍も8月19日に総反撃に出て、電話局を占領し、120名のドイツ兵が捕虜になった。ディルレヴァンガー連隊、カミンスキー旅団の残虐行為の報復として、捕虜のうち武装SS、外国人義勇兵は全員その場で処刑された。
@高見の見物を続けるソ連軍
ヴィスワ川対岸のプラガ地区の占領に成功したソ連軍は市街地への渡河が容易な状況にあったにもかかわらず、蜂起軍への支援をせずに傍観を決め込んだ。ソ連軍と共に東方からポーランドへ進軍しプラガ地区に到着していたジグムント・ベルリンク将軍の率いるポーランド人部隊「ポーランド第1軍団」のみが対岸の蜂起軍支援のための渡河を許され、彼らポーランド人軍団はベルリンク将軍以下必死で蜂起軍の支援をしたものの、その輸送力は充分ではなかった。ソ連軍は輸送力に余裕があったにもかかわらずポーランド第1軍団に力を貸さなかった。のちにポーランド人民共和国最後の国家指導者で1989年の新生ポーランド共和国初代大統領となったヴォイチェフ・ヤルゼルスキはこのときポーランド第1軍団の青年将校として現地におり、物資補給作戦に参加している。彼はこのときの燃え盛るワルシャワ市街を眺めながらソ連軍に対して涙ながらに感じた悔しさをのちに自伝『ポーランドを生きる』のなかで赤裸々に吐露している。
ソビエトはイギリスやアメリカの航空機に対する飛行場での再補給や、西側連合国による反乱軍の航空支援に対し同意せず、質・量に勝るドイツ軍に圧倒され、蜂起は失敗に向かっていく。
@復讐心に狂ったドイツ軍によるワルシャワの徹底的破壊
蜂起終結後、ドイツ軍は火炎放射器により市街の破壊を行ったのです。更にその後、ドイツ軍による懲罰的攻撃によりワルシャワは徹底した破壊にさらされ、蜂起参加者はテロリストとされ、レジスタンス・市民約22万人が戦死・処刑で死亡したと言われる。しかし、イギリス政府がワルシャワのレジスタンスを処刑した者は戦犯とみなすとラジオを通して宣言したため、レジスタンスへの処刑は止んだ。10月3日、国内軍はドイツ軍に降伏しワルシャワ蜂起は完全に鎮圧された。翌日、ワルシャワ工科大学に国内軍は行進し、降伏式典の後、武装解除された。降伏した国内軍は、捕虜として扱われて捕虜収容所に送られた。しかし、武装解除に応ぜず、地下に潜伏して抵抗を続ける者も多かった。
市民の死亡者数は18万人から25万人の間であると推定され、鎮圧後約70万人の住民は町から追放された。また、蜂起に巻き込まれた約200名のドイツ人民間人が国内軍に処刑されたと言われている。国内軍は1万6千人、ドイツ軍は2千名の戦死者を出した。
@蜂起鎮圧後3ケ月もドイツ軍の占領が続き、1945年1月なってやっとソ連軍が進撃する
ソ連軍は1945年に入った1月12日、ようやく進撃を再開。1月17日、廃墟と化したワルシャワを占領した。その後、ソ連軍はレジスタンス幹部を逮捕し、自由主義政権の芽を完全に摘み取った。生き残った少数のレジスタンスは地下水道に逃げ込み、ソ連軍進駐後は裏切ったソ連を攻撃目標とするようになった。共産政府樹立後も、要人暗殺未遂などしばらく混乱が続いた。
@ワルシャワ蜂起の背景
ワルシャワ蜂起を指導したのはポーランド亡命政府である。ポーランドには第二次世界大戦勃発直後、ルーマニアからパリを経由し、ロンドンに亡命した「ポーランド亡命政府」が存在した。亡命ポーランド政府にとって、ソ連は自国をナチスドイツと共に侵略した国であったが、独ソ戦開始後はソ連に接近する。さまざまな問題により、決して良い状態でなかった両政府の関係は、カティンの森事件の発覚により決定的に悪化する事となった。
東欧をナチスドイツから解放してきたソ連は、ロンドンの亡命ポーランド政府とは別に、共産党系主導の親ソ派政権樹立を目指し、ポーランド東部ルブリンに親ソ政権を樹立していた。したがって亡命政府側主導の武装蜂起は、相容れるものではなかった。そのためワルシャワ蜂起は、亡命ポーランド政府主導の組織を壊滅させるための、ソ連の意図的な陰謀であったという説もある。