祖父は大坂、伊丹の奥の妙見山のそばの田舎寺の住職でした。を見降ろす高台に石垣を積み、その上に白い漆喰の壁が本堂を囲んでいました。白い壁には黒い瓦が乗っています。を見下ろす石垣の上には鐘楼があり、住職の祖父が朝夕鐘をついていました。祖父は何時も白い衣を着て、めったに喋らない老人でした。
毎年、夏になると祖父母の寺へ10日位帰省するのが父母の習慣でした。都会から行くと田舎の寺の生活のすべてが珍しく、子供心が楽しく踊ったものです。本堂の金色の仏像が珍しく、その回りで遊んだものです。を流れる小川には沢ガニやカジカが棲んでいました。の人々はお寺さんの孫だといって親切にしてくれます。その里には少しの水田があり、低い山に囲まれた小さなところでした。30軒ほどありましたが、皆が貧しげでした。しかし寺を大事にしてくれ、毎日、農産物を届けてくれます。信仰心の篤い人々です。心の温かさが子供にも分かります。
しかしそのお寺は貧乏です。お米と野菜を人々が寄進してくれる他は一円の収入もありません。寺に登る石段は立派なのですが門が有りません。後に何故、門が無いか父に聞いたことがあります。父が少し気分を害したように言いました、「山門を作るにはお金がかかるのだ。の人々が余裕が無く、作ってくれないのだ」。
それ以来、いろいろなお寺に行く度に山門をしげしげと眺めるようになりました。立派な山門があると檀家の深い信仰心の証のように感じます。近所に、よく散歩に行くお寺があります。海岸禅寺と言います。五日市街道に面してしますが、門前に広い駐車場があり梅が咲いています。住職さんの豊かな心を感じさせる広い駐車場はいつも綺麗に掃き清めてあります。そのお寺の山門が立派な江戸時代ものです。
その山門の木組みを下から見上げると不思議に思います。キチンと宮大工の修行をしたことのない大工さんが作ったような感じを受けます。まあ、はっきり言えば下手な作りです。器用な素人が苦労してコツコツ組み上げたような木組みです。努力のあとはよく分かるのですが、何かバランスに欠け、美しくないのです。
脇にある山門の説明板を見て納得しました。江戸中期に一帯の新田が開発され、農民がお寺が欲しくなったそうです。有力な世話人が越中の海の傍にあった海岸禅寺を移してきたと書いてあります。そして山門をつくったのな大工の棟梁の家に居候をしていた渡り大工が作ったと書いてあります。何故、渡り大工が作ったと伝わったのでしょうか?出来あがりがあまり上手でなかったので棟梁の恥になるのを避けるためにそのような事にしたのでしょうか?あるいは無責任な渡り者の大工が最初は気軽に請負い、仕事を進めるに従って本気になり、そして信心も芽生え、努力に努力を重ねて完成したのでしょうか?兎に角完成した山門です。現在の住職はこの山門を大切にしています。最近は屋根を葺き変え保存に努力しています。
そんなことを勝手に想像しながらお寺の庭を散歩して帰ってきます。お寺は幼少のころの楽しかった思い出が蘇る場所なのでよく散歩に行きます。
下の写真は上から山門、下から見上げた木組み、駐車場に咲いている梅の写真です。
今日も皆様のご健康と平和を御祈りいたします。藤山杜人