暗い話で申し合わけありませんが、戦争中の東ヨーロッパで何が起きたのか、その事実を知る事が大切と考えるようになりました。それは1989年の冷戦の終了にしたがってロシア側が情報を次第に公開していることに触発されたためです。そして最近、ハンガリーに在住している盛田常夫さんからハンガリーの実情をいろいろお聞きし、東ヨーロッパを身近に感じるようになったからです。
ポーランドは1939年9月にドイツとソ連に占領され西半分はドイツ、東半分はソ連の領土に併合されてしまいました。ポーランドという国家が1939年9月に この地上から消滅したのです。
この時、ソ連側へ投降したポーランド軍の将校がソ連領内のスモレンスク市郊外のカティン村の森で殺されたのです。4443人です。4443体の遺体は1943年、ソ連領に攻め込んだドイツ軍によって発見されました。死体は手を縛られた上、後方から射殺されていたのです。ドイツ政府はソ連の蛮行として新聞やラジオで大々的に宣伝します。即刻、ソ連側が「ドイツ軍がスモレンスク市を占領した時に同地で捕虜にしたポーランド軍の将校を殺害した」と大きく反論しました。当時はソ連に降伏したポーランド軍がソ連軍に協力してドイツ軍と戦っていたと考えられていましたので、このソ連側の反論にも説得力があったのです。
1989年の冷戦の終結まで、カティンの森の殺戮の犯人は謎として闇の中に消えていたのです。ロシア政府が公式に犯行を認めたか否かは私は知りません。しかし当時のポーランドをめぐる種々の状況を知ると、ソ連軍による殺戮と考えられます。
1939年9月1日に始まったポーランドとドイツとの戦いに乗じてソ連も9月17日にはポーランドへ攻めこんだのです。ドイツ軍によって首都ワルシャワが陥落し、ポーランドが降伏したのは9月27日でした。当時、ソ連とドイツは相互不可侵条約を結んで同盟関係にあったので、ポーランドを2分割して自国の領土として併合してしまうのです。
1939年の開戦前のポーランド軍は120万人も居たのです。その運命は3つの道に分かれました。ソ連へ投降して、その後ソ連と協力してドイツ軍と戦う道。軍服を脱ぎ、ポーランド国内で地下に潜り、占領軍のドイツと戦う道。そしてハンガリーやルーマニアを経由してフランスへ逃れ、英仏連合軍と協力してドイツ軍と戦う道。
この3つの道を選択せざるを得なかったポーランド軍の運命は決して平坦な道では無かったのです。
ソ連へ投降したポーランド軍はソ連軍にとってはあくまでも憎むべき敵です。戦友を多数殺した敵兵なのです。ポーランド兵をソ連の友として、ドイツへと一緒に戦うなどということは想像も出来ません。戦死した友人の復讐の為には殺すしかありません。モスクワのスターリンからの命令が来るや否や即刻銃殺したのです。戦争の現場とはそいうものです。この事実はゴルバチョフも認めたようです。
カティンの森の闇とは戦争現場の闇です。戦争の現場ではロシア正教も無力です。
ですからこそ平和を求め、戦争を避けなければならないのです。
ポーランド人は日本人を尊敬し、親切にしてくれるとよく聞きます。これから数回にわたってポーランドのことを書き進めて行きたいと思っています。(続く)
尚、この稿を書くにあたって、(株)学研パブリッシング発行、「歴史群像」2010年2月号pp64-78 を参考にしました。記して感謝の意を表します。