後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

今年もシイタケが出ました!

2010年02月15日 | うんちく・小ネタ

2008年の5月22日掲載記事のように、山林の中に住んでいる鬼家雅雄さんからシイタケ菌を植えつけた雑木丸太5本とナメコ菌植え付けの丸太1本を貰って来ました。太く重い丸太6本です。鬼家さんが数ケ月にわたり、伐採、丸太作り、キノコ菌を植え付けしたシイタケの原木です。それ以来、庭の畑に埋め、時々水をやり続けて来ました。

昨年は4月7日、巨大なシイタケが2個出来ていました。実に11ケ月の後のことです。2個出てきたことは、その後も次々とシイタケが出てくることを意味していると思い今年も待っていました。

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ところが今年は2月15日に5ケ出て来ました。上の写真はそのうちの3ケの写真です。

0011 左の写真は昨年4月7日に取れた2コのシイタケの写真です。

なおシイタケ菌は秋山種菌研究所から鬼家さんが買ってきたものです。そのURLは、http://www.mushroom.co.jp/index.htm です。

早速、鬼家さんへ報告して感謝しました。皆様もシイタケ栽培は簡単に出来ます。一度お試しになると面白いです。(終わり)


冷戦の終了で大変化の起きたヨーロッパ、その結果、北方4島は永久に還って来ない

2010年02月15日 | 日記・エッセイ・コラム

1989年のベリリンの壁の崩壊で、1945年の第二次世界大戦終了後から44年間続いた冷戦がアメリカ陣営の勝利で終わったのです。日本の周辺ではなにも変化が無く、北方4島は相変わらずロシアの領土のままです。従って日本人にとっては冷戦の終了はあまり大きな事件と思いません。しかし、ヨーロッパの東部ではロシアは衛星国を失い、ロシアの軍事防衛線が大きく東へ退いたのです。

以下の地図のようにポーランドとエストニア、ラトビア、リトアニアはNATO軍事同盟に加わり、アメリカ陣営になってしまいました。更にその東のベラルーシとウクライナも独立してロシアの衛星国から脱したのです。http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=56.57975141889055&lon=22.006962946169054&z=6&mode=map&pointer=on&datum=wgs&fa=ks&home=on&hlat=52.004151275936&hlon=19.007695368044&layout=&ei=utf-8&p=

その結果として、ポーランド北部とリトアニアの間に残ったロシア領のカリーニングラードが本国から切り離されて飛び地になったのです。この飛び地はロシアの軍事要塞として重要な意味があります。

それにしてもこの飛び地は不思議な存在です。そこで少し調べて見ました。歴史的には12世紀後半にカトリックの正式な修道組織として公認された「ドイツ騎士修道会」が布教と領土を求め東ヨーロッパへ侵入したことが原因になっているようです。ドイツ騎士修道会が作った国がプロイセンであり、現在のカリーニングラード付近を東プロイセンと呼ばれていました。第二次大戦の始まる前はドイツの飛び地でした

ロシアがそれを奪ったので戦後はロシアの領地になったのです。

ベリリンの壁崩壊の後で、エリツェン大統領がカリーニングラードをポーランドへ返還しようとしました。しかしポーランドとエストニア、ラトビア、リトアニアはNATO軍事同盟に加わり、アメリカ陣営へ入ろうとしている情報を入手し、ポーランドへの返還を中止し、軍事要塞を自国の防衛の為に保持することになったそうです。

丁度、その頃、北方4島の2島をエリツェン大統領は日本へ返還しようとして橋本首相と交渉をしていました。それが突然中止になったのです。

何故か?私の個人的な想像を記します。ポーランドとエストニア、ラトビア、リトアニアがNATO軍事同盟へ加盟する動きをしたのでロシアは急に警戒を強めたに違いありません。当然、北方2島返還を止め、軍事基地設置を計画したと信じています。

日本では「北方4島返還」と空しく叫ぶ人が多いのも事実です。。しかしそれはロシアの西側の東ヨーロッパで何が起きているかを考えないと無駄な叫びになります。

北方4島返還はロシアとNATO同盟軍の動きと密接に関係していると思います。貴方のご意見をコメントととして頂ければ嬉しく存じます。(終り)

下の写真はエストニアの首都リガの風景です。出典は、http://www.tripadvisor.jp/Tourism-g274967-Riga-Vacations.html です。

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「郷愁と寂寥を強く感じる遠くの町―行田」

2010年02月15日 | インポート

生まれ育った町ではない。しかし強い郷愁を感じる町。そこには故郷の人々が居る筈がない。その上、道路にも公園にも人影が無い。皆死んでしまったような寂寥感が襲ってくる。明治維新も大きな戦争も無かったように、江戸時代の面影が漂って静かに広がっている。しかし祖父や祖母が生きていた時代のような雰囲気なので何故か安堵感が身を包む。そのような町を一つだけ知っている。私が心の中で大切にしている郷愁の町。

東北自動車道を加須ICで降り、17km西へ走れば行田市に着く。道の左右は茫々たる水田と麦秋の広がり。人家が遥か遠方に散在する。やっとの思いで行田へ辿り着くと、そこは現在という時空から断絶された江戸時代の町。

忍城(おしじょう)という小さな城がある。水城公園には行田名物「ゼリーフライ」の看板の店がある。奇妙な食べ物で、心が淋しくなるような味。昔風の「十万石饅頭」の店がある。

行田は利根川と荒川の間の広い空間の真ん中に浮いている。周りは水を満々と湛えた水田が果てしなく広がっている。江戸時代にはこの水田はほとんど沼や湖で、文政6年(1823年)、岩崎長谷の描いた「忍名所圖絵」を見ると沼に長い橋がかかり、その袂で農民が鵜飼をしている。現在の風景も同じようだ。鵜飼だけが消えてしまった。

そんな湖沼を外堀代わりに忍城を作ったのが、熊谷を本拠にしていた戦国武将の成田顕泰(あきやす)で、1479年に完成した。外堀のような湖沼が周りに広がり、敵が近づけない難攻不落の名城。その後111年間、1590年の秀吉による関東平定まで成田氏の城として存続した。1590年の秀吉の小田原城攻略の時には、城主の成田氏長が北条氏につく。そして小田原城が落ちた後、忍城も開城する。江戸時代には徳川の城として、親藩、譜代16人の城主が在城する。そんな歴史がそのまま凍結しているのが町々の佇まい。道路をアチラコチラと郷愁に包まれて歩く。安堵感にもつつまれる。ウナギ蒲焼の店で昼食。江戸時代の味を想像させる甘味の無い醤油味。ウナギも少し泥臭い。

ハッと気が付くと夕日が傾いている。泊る程の距離ではないので車をゆっくり動かして帰ってきた。2008年の6月の旅。それまで、もう三回も行った。そうだ今週、もう一度度行って見よう。郷愁とあの寂寥感を楽しむために。そんな町を貴方はご存じでしょうか?下に行田の風景写真を何枚か示しておきます。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人

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