後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

教会は散歩に入って来る人をいつも歓迎しています

2010年12月10日 | 日記・エッセイ・コラム

025 府中市の大国魂神社から続くケヤキ並木道を北へ数百メーロル行った所にカトリック府中教会があります。

私の趣味の一つに見知らぬ教会へブラリと入って見物することがあります。この府中教会は1990年からカトリックの教会になっていて、よく車で前を通っていましたが、一度も入ったことがありません。

今日は取材のつもりで家内と一緒に車を入れてて前庭に駐車しました。

門柱を見るとカトリック府中教会という標札も出て居ますが、ミラノ外国宣教会の教会という看板も出ています。ローマ法王直属の宣教会です。カトリック東京大司教区の方針に従って宣教活動をしていますが、イタリアの教会です。これは変わっていて面白いと思いました。

左の写真や下のイエス様誕生の像の写真を撮ってから聖堂に静かに入ってみました。入って行くとイタリア人らしい神父さんがミサをしています。

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後でお名前はマウリツイオ神父さんと分かりました。下に聖餅を信者達へ優しく与えている写真を示します。

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このように気楽に教会に入り静かに見学するとキリスト教の実態が分かります。決して読書では得られない体験的な理解が出来るのです。

話は飛びますが、以前ヨーロッパに住んでいるころよく教会に見物に入ったことがありました。ガランとして誰も居ない時も静かで良いのですが、ミサをしている時などは信者の祈る姿や表情を見て居るとキリスト教の神髄が分かります。ヨーロッパ文化の真髄が分かるような気がします。静かにしている限り常に歓迎してくれます。皆様も是非、教会を気軽に見物の為にお入りになる事をお勧めいたします。

今日はミサの後、マウリツイオ神父による旧約聖書の出エジプト記の講義がありました。知性あふれる方です。優しい話し方です。ついつい聞いてしまいました。エジプトのユダヤ人は430年もエジプトに住んた後、ヤーウエの神に導かれて、モーゼの指導で海を渡る話です。紀元前600年以上も前のエジプト王朝のファラオが神でもあったのです。ユダヤの神ヤーウエの方が圧倒的に力のある絶対神だったという話を説明してくれました。当時のエジプト人の迷信や俗信が旧約聖書ではどのように転化し、新しい意味を持つようになったかを歴史的に、明快に話すのです。素晴らしい話し方です。古いエジプト人の農民の酵母無しのパンを食べる儀式と牧畜民の生贄のヒツジの血を住宅用のテントの支柱に塗り悪魔除けの儀式が合体したのが過越祭なのです。そして過越祭の意味は魔よけから神による保護へと意味が変わったのです。

そのように迷信や俗信が時代とともに変化し、新らしい意味と役目を果たすようになると説明してくれます。眼から鱗です。クリスマスもゲルマン民族の冬至祭を踏襲し、イエス様の誕生日となったのです。復活祭は春到来の祭りでした。

このように古い迷信と習俗が生まれ変わって文化が変化して行くのです。マウリツイオ神父さんは文化人類学の学者でもあったのです。神学をよく知っている神父さんは多いです。そしてマウリチイオ神父さんは人間の温かい血を持った学者でもあるのです。そこで帰宅後、ミラノ外国宣教会を検索して調べました。         最後に日本に来ている21名の神父様のお顔の写真を示して、この記事の終りと致します。ウリツイオ神父は最下列の左から2番目の写真です。

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ネットの上で出来た数多くのかりそめの友人達

2010年12月10日 | 日記・エッセイ・コラム

南米へ旅すると友人が沢山出来るといいます。初対面でも、アミーゴ(友人)と呼びかけてくれるそうです。「人類みな家族」という標語もあります。仕事を止め引退するとこのような考え方の良いところに気が付きだしました。現役の間は、「そんなバカな」と一笑していました。そんな折、ブログを書き出しました。他人のブログも数多く見ました。そこには華やかで広い世界が広がっていたのです。若い時から親しんで来た読書の世界とも違っていました。自分の手の届くところに人生観の共有出来る人々が沢山居たのです。勇気づけられるコメントを頂きます。他のブログを読んで感動したらメールを送ります。人生の喜びや悲しみについて感性が同じような人がいます。私の心を打ち鳴らす写真や文章があります。みんな、みんな自分と同じ素人の作品です。それだからこそ手が届く友人のように感じます。ネットの上で知り合った人々を友人と呼んで良いものでしょうか?あまりんも軽率なことではないでしょうか?

初めは少し悩みました。幼馴染も居ました。小学校や中学校時代の親友も居ます。長い間、年賀状を交換している親友も居ます。ネットの上で知り合った人を友人と呼ぶのは昔からの親友へ対する裏切りではないでしょうか?

私はある時フッと気が付きました。この世はかりそめのものなのです。親友もネットで知り合った方々も全てかりそめの友人なのです。どちらも大切な宝ですが、しかしかりそめなのです。少しだけ宗教的な感じ方です。しかし「かりそめの人間関係」を想像すると初対面の人でも皆友人と呼べるのです。縁有って会えたのです。友人と呼んで大切に思えれば自分の世界が広がり、楽しい生活が出来るのです。

ネットで知り合ったかりそめの友人は実社会の親友よりも大切に思える時もしばしばあります。ネットの上で知り合った友人が突然死んでしまったり、ネット社会から消えてしまう事があります。自分が心の中で友人と思っていた人が消えてしまうのです。その時のショックや悲しみの大きさを何度か経験すると、やっぱり本当の友人だったと実感いたします。このブログの左サイドに「推薦したい方々のブログ」が示してあります。もう何年も変えていません。これらの友人が永久に消えないよう祈っているのです。それに加えて何人もの数多くのネット上の友人が居ます。特に親しくメールやコメントを交換している訳ではありませんが縁あって友人になって頂いた方々です。

そして南米のように会った全ての人々を心から友人と呼べるような自分になりたいと祈っています。ですからこそ、ある時から突然、皆様の健康と平和をお祈りするようにしたのです。ここまでお読み下さった方々は私の友人なのです。大切な人なのです。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人

下の写真は今年の5月に肺ガンで逝去したネット上の友人、ひかるのさんが最後に4月に撮影した自宅近くの公園の写真です。

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