東京都、府中市の北の部分にカトリック墓地があります。お世話になった神父様が眠っている所なので家内と一緒に時々墓参をし、そして墓地の中を静かに散策して来ます。波濤万里を越えて日本へ来て日本の土になった神父やシスター達の冥福を祈りながら散歩をします。カトリックの信者でなくても、そんなお気持で散歩されることを故人は必ずや歓迎していると思います。是非御出掛け下さい。門はいつも開いています。
下の写真は東京大司教区の亡くなった神父様達の合同のお墓です。1971年に立川教会で洗礼を授けて下さった塚本金明神父様の名前も刻みこんであります。堅信式のために立川教会まで来て下さった白柳大司教様のお名前もあります。土井枢機卿のお名前も、そして小金井市桜町病院を創立した戸塚神父様の名前もあります。
次の写真の右の木の十字架墓は小金井教会の初代主任司祭だったヨゼフ・ムニ神父様のです。1975年に着任して1988年に小金井教会で病気になり64歳で亡くなりました。私共の家にも何度か来て下さいまして、特にお世話になったアメリカの神父様でした。
来日以来めったにアメリカへは帰りませんでした。お葬式には弟妹様が来てくれました。日本の土になってしまいました。
このカトリックj墓地には美しい墓石があちらこちらにあります。
これも一つの例です。
聖パウロ修道会の共同墓です。
墓地を歩いていると悲しい思いをします。お寺の墓地でも、このカトリックの墓地でも戦争で死んだ息子の墓を遺族が大きな石で作っているのです。
子供も持つ親として、息子を若くして戦死させた事を嘆く気持ちが身に沁みます。
大きな墓石は遺族の慟哭です。水野正二郎少尉は昭和14年、中国で戦死しました。
彼は11歳で渡米し、アメリカとヨーロッパでヴァイオリンを修業し、時々帰国しましたが海外で輝かしい演奏活動をしたのです。奥様はオーストリア人でした。娘の鰐淵晴子は美しい女優で、トニーザイラーとスキー映画に共演しました。
偶然そのロケ風景を山形、蔵王のザンゲ坂で見たのを思い出しました。
墓地を散策するのは私の趣味の一つです。今日は東京都の府中市にあるカトリック墓地をご案内しました。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。(終り
宗教を信じるのも、信じないのも個人の勝手です。どちらでも良いのです。特に日本では無宗教がインテリの証のように思っている人が多いので「私は無宗教です」と言っても人格を疑われることはありません。しかし一歩外国へ出ると、この言葉を軽率に口にするのは禁物です。その証拠になるような図面を下に示します。
神様の存在を信じている日本人は35%位で世界で最低のレベルです。他の国々では神を信じている人が圧倒的に多いのです。ですから不用意に、「私は神を信じて居ません」と言うと人格を疑われる場合が多いのです。この図表の出典は、社会実情データ図録:http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/です。クリックして拡大すると鮮明になります。
この図の下半分は死後の世界の存在を信じているか否かの統計です。日本は40%位の人が存在を信じていて、50%以上が信じていません。
この2つの図をあれこれ注意深く見ているといろいろが興味が沸いてきます。
一番徹底して神を信じ、死後の世界を信じているのはエジプト、ヨルダン、イラン、インドネシアなどのイスラム教国です。そして米国ですら90%以上の人が神の存在を信じています。ですから外国へ一歩出たら、「神を信じません」と言うと喧嘩を売ったと誤解されがちなのです。
この図面を見て、2つの問題を思いつきました。
(1)この統計は西暦2000年のものですが、明治維新の前の江戸時代に統計を取ればどうなったか?
お釈迦様を含めて、神仏の存在を信じている日本人はきっと90%以上になったのではないか?
(2)上の仮定が正しいとしたなら何故明治維新以後、日本人は宗教を信じなくなったのであろうか?
(1)はあくまでも仮定ですが、多くの日本人はこの仮定は正しいと思って下さると思います。
(2)に書いたように明治維新以後、宗教心が無くなったのは何故でしょうか?
私は明治政府以来の文部省の指導する学校教育で宗教を無視した教育を連綿として来た結果であると信じています。
文明開化とは欧米の科学・技術や合理主義を急いで取り入れる事と考えたのです。廃仏毀釈や迷信・俗信の排斥だけでなく、学校教育では宗教は非合理なものとして排斥した来たのです。世界の宗教事情を客観的に正しく教えて来なかったのです。
欧米の科学・技術は急いで輸入しましたが、宗教や精神文化の輸入は熱心ではなかったのです。その結果、知識階級とは「宗教を信じない人」という狭量な理解が世の中に普及してしまったのです。「私は無宗教です!」と誇らしげに大声で言う人が居るのはそのせいと思います。無宗教を誇らしいげに自慢出来る国は日本だけです。
私の言いたい結論を書きます。日本の欧米の文化の輸入は科学・技術に偏りすぎています。バランス良く公平に欧米文化を理解し、取り入れるほうが正しい姿勢と信じています。日本が富国強兵になろうと努力した時代は終わったのです。
もっともっと深く、外国の、とくにイスラム諸国の文化を含めて理解し、お互いに深い絆で結ばれることが望ましいのです。戦争を避けるために望ましいのです。もっともその一方で適切な軍備をととのえる事も現実問題として重要です。深い相互理解と強力な抑止力の両方があってこそ平和が存続できると信じています。
今日は日本の平和が何時までも続くように、全ての政治家や官僚が努力されることをお祈り申し上げます。藤山杜人
日本語には日本語 (日本流) の考え方があり、英語には英語 (英米流) の考え方がある。
だが、外国語を知らない人は、自国のことも理解できないであろう。
日本人は、現実と非現実を区別無く話す。
だから、内容が空理空論となる。綺麗事というのかな。
この現象は、我が国の知識人に多く見られる。
考えの内容は非現実であるから、日本流の学問を長年するとそうなりやすい。
だが、英米人は、現実と非現実を区別して日本語を使って話す。
だから、日本語自体に、文法上の欠陥があるわけではないように見える。
だが、じつは、これは誤りで、彼らにも日本語では現実・非現実は分けて話せない。
英米人は、英語で考えた話の筋をただ日本語に載せて話しているだけである。
英米式の教育を受けたものなら、その程度の話で筋を理解できる。
だから、優秀な日本語に見える。が、日本語では現実・非現実は分けて話せるはずはないのである。
言葉で分けられなくても、頭で分けている。
日本人は、英米人の考えが理解できない。
だから、勝手な解釈をする場合が出てくる。英文和訳の名訳も、じつは迷訳であったりする。
これと裏返しの状態が、英米人にも日本語を使って話すときに起こっている。
彼らの考えは、日本語ではこうなるものと思い込んで話している。
これは、英米人には通じても、日本人には通じない。
日本人は、日本語を正しく解釈するからである。
自分の思い込みと相手の思い込みが国際間で生じて相互不信が発生する。これが、危険の種になる。
桃の中から男の子が生まれた話も、処女が懐妊する話も単なる駄洒落に過ぎない。
非現実の内容は現実離れをしているので実感がわかない。それで、日本人には、信じることが難しい。
「おおかみと七匹の子ヤギ」の話の中では、食べられた六匹の子ヤギが狼の腹の中から飛び出してきた。非現実的であって、面白い。だが、子供達にこの話を聞かせる大人は、単なる暇つぶしにこの話をしているのではなかろう。
馬鹿馬鹿しいお笑いなどではない。この話には意義がある。これと似たような意義が聖書の中の話にも沢山ある。
カレル・ヴァン・ウォルフレン (Karel van Wolferen) は、<日本/権力構造の謎> (The Enigma of Japanese Power) の<リアリティの管理>の中で下記の段落のように述べています。
融通性に富み、相対的で、話し合って決めることができる日本の真理。あり余るほどあるとされる理屈。強靭な知的伝統の欠如。管理者 (アドミニストレーター) への法の屈従。無節操を受け入れるどころか賞賛すること。これらのすべてがいうまでもなく、互いに原因となり結果となって絡み合っている。これらは、日本の力の行使におけるもっとも重要な決め手であると筆者が述べた論点を強めている。すなわち超越的真理や普遍的価値に訴えるという伝統の欠如である。現存する他の文明においてはみな、社会・政治的な関心を超越した真理の存在を認める宗教や思想体系を発達させてきた。しかし、日本では神道も仏教も役に立たなかった。(引用終り)
http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812
投稿 noga | 2010/12/12 17:50