私はカトリックの洗礼を受けてから日本人の宗教について強い関心が湧いて来ました。キリスト教と比較しながら観察すると非常に明快に理解される場合が多いのです。
例えばキリスト教には古いカトリックへ反発して多くのプロテスタントの教会が出来ました。そこには信者の上に立って威張っている聖職者は居ません。牧師はいますが、信者と平等な立場です。
そのような仏教の一派を探していましたら創価学会へ行きつきました。
1991年に創価学会は日蓮正宗から破門され寺院仏教から完全な意味で「在家信者団体」へと変化しました。大変信者数の多い大きな集団です。これは日本の寺院中心の仏教の歴史の上で画期的な変化です。
1991年以来、寺院や僧侶とは縁が切れ、純粋にお釈迦様の教えを日蓮の指導通り信じる人々の集合体になったのです。
ですからそのお葬式へ行ってみると袈裟を着た和尚さんは現れません。背広姿の創価学会の役員がお経を読み、導師の役目を務めます。Wikipedeaの「創価学会」の項目から、葬儀の仕方を転載します。
葬儀 :かつては日蓮正宗の僧による葬儀が主流だったが、現在は儀典部など会員を読経の導師とする「友人葬」(「学会葬」「同志葬」とも呼ばれる)の形式で執り行われるのが一般的である。 なお、原則として友人葬への参列では香典は必要ない。また「読経料」「戒名料」などと称する対価を求める僧と違って、友人葬の導師は、謝礼を一切受け取らないものと定められている。
死んだ信徒の中にははお寺の先祖代々の墓に入らないで富士山のそばにある創価学会の墓地へ行く人もいるようです。この事は世襲の住職制度と寺院によってお墓を守るという従来の考え方へ新しい改革を提案することになります。
そのような次第で、私は創価学会をキリスト教のプロテスタント教会と類似の信仰形態として重要視しています。
創価学会の会員は日蓮の指導に従い、法華経を唱え、折伏すれば成仏できると信じているようです。
一時、強引な折伏と寄付の強要で悪い評判が立ち、創価学会を忌み嫌う人が多かった時代もありました。現在ではあまりそのような行為を聞きません。適正な布教活動をしているものと思われます。
折伏は他の宗教では宣教とか布教と言います。特に創価学会に限った事ではありません。しかし折伏という言葉がいけません。他人を折る。他人の信じて居ることを悪いと論破する。そんな事を連想させます。困った言葉の使い方です。宣教や布教は、自分の立派な生活態度で周囲の人々を感動させ感化させる方法が良いとされています。無理に押し付けたり、議論することではありません。
ついでに創価学会で尊敬出来ない事を書きます。それは会長様の国際的活動があまり目立ち過ぎることです。
その上、公明党の並存です。やはり政教分離をしてもらいたいと思います。
貴方は創価学会のことをどのように評価なさっていますか?忌み嫌わずに公正な視点で観察するのも良いと信じています。
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人