昔は、楽しげに人々が集まっていた駅。いつの間にかその人々が消えてしまった。後にはポツンと立つ廃屋のような駅舎。失われた時を求めてそんな秘境駅を訪ねる人々が居ます。めったに停まらない普通列車の時刻をたんねんに調べ遥々旅して来た人々。
薄暗い駅舎に独り坐って昔、通学生や仕事旅の人々で賑わっていた様子を想像するのです。皆何処かへ行ってしまったのです。次に停まる列車までは長い、長い時間が静かに流れて行きます。何故か訳の分からない悲しみが旅人の身を優しく包んでいます。
楽しかった子供の頃。輝いていた青春。追憶がよみがえります。持参してきた柿の種をつまみならカンビールを傾けます。通過する列車が轟音を上げ、悪魔のように唸りながら通り過ぎて行きます。一瞬の出来事。そしてまた静寂がもどるのです。
秘境駅への旅は失われた時を探し迷う旅なのです。牛山さんのHPをあれこれ見て居ると何故か静かな気持ちになります。そうです。亡くなった家族や友人達への惜別の旅なのです。私にはそのように思えるのです。
下の写真は牛山さんが夏と冬に訪ねた留萌本線の「真布駅」の写真です。出典は、
最近、いろいろな不幸な事件が起きて、多くの人々が中国人を尊敬出来ないと言います。マスコミなどは中国を仮想敵国扱いのような勢いです。こんな時に、「私はやっぱり中国人が好きだ」と書いたら袋叩きに合いそうです。民主国家なので半分冗談として書ける幸せを噛みしめていますが。
中国人を心底好きになったキッカケは政府が禁止していた周恩来の秘密の追悼会へ連れて行かれた事です。それは1981年、北京のある秘密の地下室でした。
連れて行ってくれたのは北京鋼鉄学院の周栄章教授です。中国人がどんなに熱く周恩来を想っているか見て貰いたかったのでしょう。それ以来、私も周恩来が好きになりました。尊敬しています。中国人は政府の言う事を無視するのです。恩義のある政治家、本当に人々の幸せの為に身を投げうった政治家へ対する感謝の気持ちを忘れないのです。政府が禁止しても地下室で示す人間なのです。恩義を絶対に忘れない人々なのです。それ以来、北京鋼鉄学院の周栄章教授の変わらぬ友情を頂きました。今日はもう一人の中国人の友人をご紹介したいの想います。上海で1961年に生まれ上海科学技術大学を卒業した張 輝 さんの事です。1988年に日本に来て立教大学で博士の称号を貰いました。数年前に東京で日中の間の架け橋になろうとあるベンチャー企業を作った人です。
このような事を書くと顰蹙を買いますが、私は上海の人々へ対してある種の偏見を持っていました。北京や瀋陽のような北方の中国人との付き合いが深かったので上海や南方の中国人へ対して距離感を持っていました。もっとはっきり書けば理由も無く嫌いでした。その私の偏見を見事に打ち破ってくれたのが上海生まれ、上海育ちの張 輝 さんです。
数年前に張 輝 さんが日中の間のビジネスを支援するベンチャー企業を立ち上げた頃お会いし、知り合いになりました。才気煥発で、とても優秀な人です。新しいタイプのビジネスを立ち上げようとしていました。その卓越した独創性に魅了されました。
感動した私はその仕事をほんの少しだけお手伝いします。日本のある大企業から張さんの会社へ注文が入るように橋渡しをしたのです。結局あまり大きな発注にはなりませんでした。
その頃の私の仕事は経済産業省のベンチャー企業の支援事業のほんの一部を受け持っていたのです。数多くのベンチャー企業が無事育つように色々なことをしていました。張さんの会社へした事もその一環で、数多くのベンチャー会社へ同じような事をしていたのです。別に恩義に思って頂く程のことではありませんでした。
ところが何故か張さんは恩義を感じたらしく、それ以来何年もなるのに礼儀正しくお付き合いをしてくれています。
才気煥発で頭の良い人は人情が無いと言います。そんな言い方を昔から何度も聞いて居ました。眼から鼻に抜けるような明晰な人とは永いお付き合いが出来ないと思い込んでいました。上海生まれの張さんもそのような人と思っていた私は、文字通り浅はかでした。軽率でした。死ぬ前にその事に気が付いた幸運に感謝しています。
余談ながら張 輝 さんが起業し、成功させた会社のHPは、http://www.tb-innovations.co.jp/link.11.htm です。このHPを一度ご覧頂ければ嬉しく思います。下に張さんの写真を示します。
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人