後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

私は家内にこのようにして写真を撮って貰っています

2011年08月19日 | 日記・エッセイ・コラム

ブログに使う写真は多くの場合家内に撮って貰っています。

写真を撮りに行く前にブログへ掲載する写真のテーマや写真で主張したい内容を決めます。それは聞かれないかぎり家内へは黙っています。

現場に着くと、私は構図と撮影の場所を決めます。下のようにステッキや指で家内へ説明します。すると構図の詳細を考えて家内が撮影します。絵画藝術が好きで、自分でも油絵を描いたことのある家内は構図の決め方が上手なのです。

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何時も写真助手のようで内心では不満らしくて時々勝手に写真を撮ります。下の写真はワイン選びに夢中になってしまった場面を撮られてしまいました。しかし良くみると自分が立派な後期高齢者に育った事が分かりました。一升瓶のワインへ伸ばしている腕のしわの深さが後期高齢者のものです。残念でもありますが、何故か嬉しくもあります。勿論、私独りだけで写真を撮りに行くことも多いのですが。自己紹介もかねて、詰まらいないことを書きました。ご免なさい。

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歳をとると確実に体力が下がってくる・・・健康でも体力はなくなる

2011年08月19日 | 日記・エッセイ・コラム

自然の摂理です。60歳台は体力はまだまだ余裕があって毎日、通勤していました。70歳になって完全に引退し、遊んでいます。遊ぶのがこんなに楽しいとは思っていませんでした。しかし今年、75歳になって、急に体力が無くなりました。あんなに痛快至極だったヨット遊びも苦痛になって来ました。毎夕ランニングをしている家内も筋肉が衰えたと嘆いているので、私は運動は一切しないことにしています。そこで自然の摂理に逆らわないで、クルーザーを若い人に譲ることに決心しました。

老人になると体力に限界を感じます。そんな感じを持ちながら、いつも読んでいる「めいこ」さんの絵日記に「限界」という題目の随筆を見つけました。しみじみとした名文に何時ものように心暖まるやさしい色使いの絵が添えてあります。

その絵日記をいつものように下にご紹介いたします。めいこさん有難う御座います。

=============================                     「限界」http://www.geocities.jp/hyoutannjima0/index.htm
美術や歴史にはそれほど興味のある方では無いのに、今まで国立博物館や都の美術館などに仏像や絵など有名な催しものがあると「行かなくては」と背中を押されるような気持ちになって、出かけている。
この数年は昔、社宅で一緒だった一歳違いのAさんとよく外出する。同じ東京生まれで若い頃の体験が似ている。

六月十二日まで、上野の東京国立博物館で開催された「写楽展」、いつの間にか六月に入ってしまい、慌てて行く日を決めた。
混雑を予想して、何時もは、上野駅に十一時に待ち合わせるが、この日は早めに十時に待ち合わせた。

その日、私は八時半ごろ家を出て小田急線と山手線を乗り継いで出かけた。まだこの時間は混んでいて座れず、小田急線では茶色の髪の外国人女性に席を譲られた。Aさんも横浜から東海道線のグリーン車の切符を買って乗ったのに、空き席が無く、立って下さる人もなく、最後まで席に座れなかったそうである。私達が行動するには少し時間が早すぎたらしい。

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上野では道路が改修中なのを知らず、遠回りをして国立博物館に着いた。
写楽展の館内はすでに混雑していた。始めは、行列に加わって移動して鑑賞していたが、人々の流れが遅く、時間が懸かりそうなので、早足で歩きはじめる。その時代を背負っているこれらの絵は独特な雰囲気で何かを語ってくれる。
テレビでも紹介されたが、日本で所蔵されている写楽の版画と、今、外国から里帰りしている同じ図柄の版画が二つづつ並べて掛けてある部屋があった。版画の色具合や痛み方が少しずつ違っている。
ずっと昔、日本を離れていても、今になって、外国から、里帰りできる絵なのだから、異国で大事にされて、この年月を過していたのだろうと考えながら観る。

十一時過ぎ、美術館を出た。何時ものように、十五分ほど歩いて上野精養軒にゆく。
分りきった道なのに、二人とも、とても疲れていて、精養軒にやっとたどり着いたという感じ。不忍池の見える良い場所ではないが、最後の二席が空いていて、すぐ座れたのは運がよかった。適当なランチを注文し、終わりのコーヒーを済ませた。もう少し休憩をしていたかったが、入り口の待合所には二十人位の人達が食事の順番を待っているのが見えたので、外に出た。二人とも相変わらず足どり重く、歩きだした。

両側に桜並木の続く大通りに出ると、道の反対側の、道路の仕切りコンクリートに、七,八人の人たちが椅子代わりに腰掛けて、鳩と遊んでいるのが見えた。私達もこちら側のコンクリートの上に腰を降ろした。
この通りは車が通らないので、西郷さんの銅像の方からと、反対の噴水広場の方から、人々が歩いて来て、目の前で交差して行く。お天気が良かったせいか、ベビーカーに乗せられた小さい子供の多いのが目に付いた。
私達が腰を下ろす前から、傍の道路の上に、木琴と空き缶のような打楽器、スピーカー装置、椅子が、置かれていた。暫くすると一人の若い男がやってきた。幾つかの楽器を、手や足で操作し、「一人演奏」を始めた。南方系風の音楽のメロディが流れる。竹ざるが前に置かれたのを見ると、大道芸人だ。十分位、その演奏の聞えるまま聴いていたが、四、五人の観客が少しの間、足を止めていただけだった。
立ち上がって、駅の方へと歩き始める。まだすごく疲れているのが分る。こんなに歩くのが辛いと思いながら上野公園の中を歩いたのは初めてだ。体操教室に通っているAさんまでも私と同じ様な状態にみえる。
「餡みつやさんに行って休憩したい」と、二人で声を出したが、途中にそんな店が無く、駅が見えてきたので、そのまま、Aさんと駅で分かれて電車に乗った。

乗換駅の新宿に着いたら、少し元気が出てきた。京王デパートの中の甘味どころに寄り、一人で休憩する。朝が早かったのでまだ二時を過ぎたばかり。ガラガラの急行に乗って、楽に帰宅した。

夜になって、Aさんと長電話をする。体力がお互いこんなに落ちているとは思わなかったという話。世間の常識から見れば、八十代後半なのだから、こんな遠出をすること自体が無理なのかもしれない。
「こんなに疲れるようになったのだから、上野まで遠出するのは限界で、今回が最後になるわね」と私が言うと「タクシーを使えば、まだ行けるわ」とAさんが言う。上野公園の外回り道路には、タクシーが何台も走っていた。
貸しきりタクシーで、小刻みに乗ったり降りたりしながら、動物園はパンダを見て、不忍池の水鳥達や、桜並木、ボート遊びの風景を車窓から眺め、食事の東天紅や鰻や、岩崎邸、横山大観邸、芸大、美術館等に出たり入ったりしている自分達の姿を、暫く想像していた。


ああ、ついに日中、22度という涼しい日がやって来ました!

2011年08月19日 | 日記・エッセイ・コラム

ここ2週間以上、連日の猛暑で、最高気温が38度、最低気温が28度という日が続きました。涼しい日は永遠に来ないのかと思うほどでした。気象台発表の東京の気温を参考にして、毎日、庭の屋根の下の寒暖計を何度も見ていました。

昨日は午後4時に38度でした。今朝見ると28度です。午前中から雨が降り、午後には22度に下がりました。現在21度です。

昨日38度で今日は21度とはすごい変化です。これから5日くらいはこのように涼しいという予報です。エアコンなしで今夜は安眠できそうです。嬉しい限りです。このまま秋になるのかと思うとちょっと淋しい気もしますが・・・

皆様のお住まいの地も涼しくなったことと信じています。


戦争中、「海洋少年団」へ入り、その結果ヨットが趣味になりました

2011年08月19日 | 日記・エッセイ・コラム

日本に住んでいる人々は誰でもこの国が好きです。愛しています。今回の大震災後の多くの若者のボランティア活動を見て、彼等の愛の心に感動しています。

愛国心は育った時代と環境によってその現れ方が様々に違います。

人生の終わりが近い年齢になり、自分の一生を振り返っています。

すると若い頃に受けた愛国的な教育が心の底にあって自分の職業や趣味へ深い影響が与えて来たことに気がつきます。今日はその一つの実例を記します。

それは昭和20年4月の体験です。沖縄の壮絶な戦いが始まった頃の事です。

国民学校の3年生だった私が「海洋少年団」へ入ったのです。

入団してすぐに、仙台中の「海洋少年団」の会員の全員、50名ほどがある学校の校庭に集められました。

壇上に立った老人の元海軍兵が演説をします。「お前たちは大きくなったら海軍へ入れ!そして御国のために一身を捧げるのだ!」と。

そして、「今日は海軍で一番重要な、舫い結び(もやいむすび)の仕方を教えてやる!」と言って、全員へ一本づつロープを渡しました。

30人程の元海軍兵士が白い戦闘服を着て海洋少年団の少年に付き添い、「舫い結び」の仕方を丁寧に教えてくれます。ヨボヨボに老いた元海軍兵ですが白い戦闘服が似合い、格好良く見えました。

「舫い結び」は船を岸壁に係留するとき、船からのロープを岸壁の杭に結ぶ方法です。一旦、結ぶと絶対にほどけないのです。しかし、結び目をほどこうと手をかけると簡単に解けてしまいます。不思議な結び方です。そしてかなり複雑な結び方です。文章では絶対に説明出来ません。

仙台の「海洋少年団」の訓練はこれが最初で、最後でした。アメリカ軍の本土上陸がせまり、退役兵士も再召集され海岸線の塹壕堀りへ行ってしまったのです。

しかし私は一生、「もやいむすび」を覚えていました。時々紐を見ると独りで練習していました。

50歳になり、気持ちの上に余裕が出た時、いよいよこの「舫い結び」を使ってみる決心をしました。そこで中古のクルーザーを買って、25年間の間、「舫い結び」を使って来ました。

船員はいろいろな結び方を知っています。しかし、「舫い結び」が一番重要で、残りの結び方は自然に覚えられるのです。

私の心の中に巣くっている愛国心、あるいは国粋的な考え方は戦中、戦後の教育の結果、自然に育ったものです。大人になってアメリカへもドイツへも留学しましたが私の愛国心はますます強くなる一方でした。

老人になった現在、一生を振り返り、若い時の教育が非常に重要な事をしみじみと考えています。そんな事を考えながら今日も。「流れ行く日々」の一日になりました。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申しあげます。藤山杜人

==上の記事へ対して趣味人倶楽部のdexさんから頂いたコメント===

私も小学生の頃、海洋少年団(佐世保管区)に入団、
海軍に憧れましたね。

「神代ながらの日本の~・・・」を歌いながら。

手旗信号・モールス信号の練習に勤しみました。

敷設艦「八重山」で訓練しましたよ。

そして終戦前、海の学校へ。
短剣なし、3ヶ月で終戦。