後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

イエスとマルクスの間に揺れる人生の不運

2011年08月15日 | 日記・エッセイ・コラム

今回、独りで山の小屋に2晩泊ってきました。小屋にはテレビも新聞も無いので読書をしてきました。2007年に文藝春秋社から出た佐藤優の「私のマルクス」というぶ厚い本です。以前に同じ著者の「国家の 外務省のラスプーチンと呼ばれて」という本と「自壊する帝国」という本を読んで感動したので、もう一冊読んで見ようと2008年に購入して山小屋に置いていた本です。読み始めてつまらなくなり放り出していた本です。

ご存知のように佐藤優さんは鈴木宗雄代議士の逮捕に関連して逮捕され1年半もの長期拘留を経て懲役2年6月執行猶予4年の判決が最高裁で確定された人です。

「国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて」という本は外務省の官僚主義の悪を赤裸々にあばきだした驚くべき内容でした。そこまで書けば外務省は、将来の長い年月にわたって国民の誰もが信用しなくなるような事まで書いてしまいました。

同じように国家官僚組織の一部である検察官も裁判官も佐藤さんを有罪にしたくなる気持ちが分かります。起訴内容が普通なら犯罪にならないような会計操作の不注意だけなのです。

佐藤さんの本の内容は国民にとって興味深いものです。しかし官僚組織にとっては回復困難な打撃になっていると思います。外務省にとっても佐藤さんにとっても不幸な事件でした。

「自壊する帝国」の方はソ連の1991年の崩壊の時に、モスクワの日本大使館に勤務していた間の見聞録です。

ソ連崩壊過程の時々刻々の情報収集と分析を大使館で佐藤さんが担当していた時の見聞を、かなりどぎつく描いた本です。

どぎついだけでなく佐藤さんはソ連中央政府のゴルバチョフやエリチィンの側近と実に親しく付き合っていたのです。彼の共産主義とキリスト教神学の学識がソ連の政治家へ感銘を与えていたのです。佐藤さんは当時のソ連政府の要人に尊敬されていたのです。ですからこそソ連の国家機密情報すら入手出来たのです。彼はモスクワ大学の神学部で講義もしていたのです。

この2つの本は大宅ノンフィクション賞と毎日出版文化賞をとっています。読みやすく、内容がドラマチックなのです。活きた歴史の一章を見事に描き出しています。

しかし「私のマルクス」という本は自分の出生や浦和高校時代や同志社大学神学部での時代の事が長々と書きこんでいます。高校でも大学でも学生政治運動のある派閥のリーダー的活動家でした。学生の政治運動には民青、中核、革マル、などなどといろいろな派閥があり、相互に血を血で洗うゲバを繰り返していたのです。本人にとっては重大な問題で、長々しい記述が続きます。私はつまらいので途中で投げ出していました。

今回、山の小屋でもう一度この本をとりあげました。二つの明快な目的を持って読み始めました。「一体、佐藤優さんはキリスト教信者なのか?それともマルクス主義信奉者者なのか?」。そうして、「何故彼はキリスト教とマルクス主義の両方へ近づいて行ったのか」

この二つの疑問はどのようにでも答えられます。しかし安易な答えは解答の一部であったり、一側面に過ぎないことが多いのです。そのことはいずれ稿を改めて書いて見たいと思います。

今回は長くなり過ぎたので、結論だけを記します。佐藤さんは自分で書いています。自分はキリスト教信者です。マルクス主義者になったことは一度もありません。本人がそう書いているのですから反対する必要はありません。

キリスト教とマルクス主義に近づいたのは母親がクリスチャンで日本社会党の熱心な支持者だったからです。そして母の14歳も年上の兄が社会党の政治家であり、彼からの影響が大きかったのです。

それでは母親がクリスチャンで日本社会党の熱心な支持者だったのは何故でしょうか?いずれその回答を私なりに考えてみたいと思います。

いずれにしても、佐藤優さんの一生はキリストとマルクスの間を揺れ動く不運なものでは無ないでしょうか?抜群の知性を持ちながら、なぜかリスキーな一生になりそうです。それはバランス感覚が無いというような軽い問題ではなく根源的な「さが」のようにも思います。

「私のマルクス」という本は彼の青春の回想録のような部分が多いのです。親友のこと、自分を愛してくれた先生のことなどが温かい筆致で書いてあります。その部分は読んでいて心が和みます。ホッとします。「私のマルクス」は山小屋に置いておき、時々静かに読み返したい本になりまました。

佐藤優さんはその後多数の本を出しています。しかし私は上に紹介した3冊だけで十分な気が致します。あなた様のご意見を頂ければ嬉しく思います。(終わり)


盛夏・・・山に湧きあがる雲と花々の写真

2011年08月15日 | 日記・エッセイ・コラム

お盆の前後の高速道路は大変混雑し、渋滞します。しかしそれは午前中のことで午後3時から夕方にかけては渋滞が解消します。

13日の午後に家を出て、山梨、北杜市の小屋までは渋滞が無く、午後4時には到着しました。午前中は30kmの渋滞とテレビのニュースで言っていましたがウソのようです。

冷房装置が不要なほど涼しいく、明け方は寒いくらいでした。

毎年、お盆に別荘地の管理組合の総会と懇親会があります。それに出席して、もう一泊して今朝の7時に小屋を出発しました。朝早く帰る人は居ないので渋滞は全くありませんでした。9時30分に家に帰りました。

総会には亡くなったメンバーの息子一家が来ています。組合の役員も息子の代へと引き継がれて行きます。年々歳々人同じからずです。

夏空の雲と花々の写真をお送り致します。お楽しみ頂けたら嬉しく思います。

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徳富蘆花、徳富蘇峰と三島由紀夫の関係

2011年08月15日 | インポート

3人とも天才です。偉大な人物です。凡人の私があれこれ批判をするのは大変失礼な事は分かっています。ですから批判ではなく、私の好き嫌いだけを書きます。

徳富蘇峰の実弟が蘆花です。三島由紀夫と徳富蘇峰の関係は、血縁関係でなく右翼思想で少し繋がりがあるようです。

3人の記念館を、それぞれ2、3回見た上での感想です。

蘆花の旧宅は世田谷区の蘆花公園に保存されています。

三島由紀夫と蘇峰の記念館はいくつかありますが、その一つは山中湖の傍に向いあって建っています。私は山中湖へ行くと、時々寄って見ます。

下にその3つの記念館の写真を示します。

蘆花旧宅はWikipedeaの徳富蘆花の記事からの転載です。

2枚目の写真は三島由紀夫記念館で、3枚目のは徳富蘇峰の記念館です。2010年8月25日に自分で撮ってきたものです。

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蘆花旧宅に入場するとその質素さに言葉を失います。随筆集「みみずのたはごと」そのままの素朴な雰囲気に満たされています。

奥の書斎にはロシアの文豪のトルストイ夫妻をはるばる訪問した時の写真が展示してあります。トルストイ夫妻と蘆花が楽しそうに一緒に馬車に乗っている写真です。

その下にはロシアへの長旅で傷だらけになった皮のトランクや持参した文房具類も展示してあります。

写真に写っているトルストイの顔を注意深く見ると、遠くから来た蘆花を心から歓迎している気持ちがあふれているのです。トルストの作品を翻訳し、日本へ紹介した蘆花に感謝もしているのでしょう。初対面の2人ですが深い友情が覗える写真なのです。

三島由紀夫の文学作品の素晴らしさに異をとなえる人は居ません。私個人は、「午後の曳航」に魅せられた記憶があります。

ノーベル文学賞を貰っても不思議のない文豪でした。それが晩年に狂ったように右翼になります。楯の会という私兵を従えて市ヶ谷の自衛隊へ押し入り、切腹自殺しました。彼の文学作品の価値とは一切の関係の無い愚かな行為でした。残念でした。その右翼の三島由紀夫の記念館の3倍も、4倍も大きな徳富蘇峰記念館が隣に建っています。

徳富蘇峰は巨大な国粋主義者でした。貴族院議員を1911年から1945年まで34年間務め、精力的な文筆活動で国粋主義を鼓舞し続けたのです。終戦の時は戦争継続を昭和天皇へ進言し、聞き入れらませんでした。進駐軍にA級戦犯の容疑をかけられましたが老齢の為起訴されず追放されました。

マッカーサーの言うことに素直に従う昭和天皇を、「天皇としての修養が足りない」と批判しました。戦後も一貫して右翼思想を捨てなかったのです。三島由紀夫記念館が徳富蘇峰の記念館の傍にあるのは決して偶然ではありません。

ここまで書けばお分かりですね。私は徳富蘆花が好きです。尊敬しています。三島由紀夫の作品は好きです。しかし彼のもう一つの側面の右翼的思想は尊敬出来ません。残念です。徳富蘇峰については批判をひかえます。しかし日本を破滅へ導いた彼の言論活動へ歴史はどのような審判をするのでしょうか?それを審判するのは人々の考えにゆだねます。

それにしても明治、大正、昭和は激しい時代でた。激動の時代でした。平成になって平穏な時代になったと、つくずく感謝しながら老境の日々を送っています。

この拙文を読んで下さって有難う御座います。

尚、関連記事の、山中湖、三島由紀夫文学館 もご覧頂ければ嬉しく思います。(終り)

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人