明治維新で始めて日本は近代的な統一国家になったのです。
明治以後は地方独自の武力集団がなくなり、国家の軍隊が各地に駐在したのです。これこそが「統一国家」の証明なのです。
明治政府は国民の愛国心を強化するために、大和朝廷が全国を統一して、万世一系の天皇陛下が全国を支配して来たという歴史教育を学校で強制的に教えてきました。
従って国民の多くは日本は聖徳太子の大化の改新以来、連綿と天皇が治める統一国家だったと信じていました。
しかしそれは全く間違った歴史認識です。地方、地方に武力集団とその首領が居たのです。飛鳥、天平、奈良、平安時代の天皇も、そして鎌倉幕府や室町幕府も、これら地方、地方の国衆領主を通して年貢米を集め、税金を集めていたのです。
全国の武力集団が中央の権力に従うという意味では統一国家的ではありましたが、明治政府以後の日本とは本質的に異なる統治だったのです。武力集団がお互いに小規模な戦争を続けていたのです。この領土拡大の国内戦争は中央の権力に楯つかない限り、中央は知らぬ顔をして居たのです。
この国内戦争は江戸時代になって完全に禁じられるようになったのです。
しかし、260年の平和の後の幕末に、「戊辰戦争」として爆発したのです。
日本が万世一系の天皇によって連綿として統治されて来た統一国家だったというのは明治政府が作り上げた神話に過ぎません。
こういう事実は学校教育では教えません。
ある時、私は武田信玄が地方、地方の小さな領主達237人に無理やり書かせた忠誠を誓う文書(起請文)の中の83通の実物を見たことがありました。
その時の驚きが忘れられません。それは私の歴史認識をすっかり変えてしまいました。
数年前に上田から別所温泉へ向かう途中にある生島足島神社で展示、公開している83通の起請文を見てしまったのです。起請文とは武田信玄と地方、地方の武将集団の首領達との間の契約書なのです。戦争に協力しますという約束文です。これを作った上で戦いに参加し、手柄を上げると武田信玄から領土を貰えるのです。
起請文の文章は稚拙です。[信玄の悪口を言いません。][命令通り戦に参加します。]などなど余りにも具体的なことが細々と下手な字で書いてあります。
書いた人は群馬県、長野県、山梨県の小さな在地領主達です。国人とか国衆と呼ばれる地元の支配階級で平安末期から鎌倉時代にかけて全国に雨後の竹の子のように増え、農民を支配した武将です。小規模ながら武力集団を持っていて、大きな戦国大名へ適当に服従し、合戦で手柄を上げ、褒美の領地を少し貰うのです。
負けた戦国大名に従うと悲劇に見舞われます。ですから信玄へ賭けるのも必死です。起請文のせつせつとした文章が痛々しく感じました。
こうして武田信玄は国衆領主とその部下達を引き連れて、川中島で数度にわたって上杉謙信と戦ったのです。雌雄が決まらないのも国衆の逃げ腰の戦いぶりによるようです。起請文を無理に書かせた武田信玄の弱味が伺えて興味深いものでした。
下に関連の写真と参考資料を示します。
生島足島神社:http://www.ikushimatarushima.jp/
今から400年以前の古文書が、風化されることなく当神社に保存されてきたことは、不思議でなりません。川中島での決戦を前に武田信玄が必勝を祈った「願文」や家臣団に忠誠を誓わせた「起請文」、また、真田昌幸、信幸父子の「朱印状」など数多くの文書が残っています。
天文22年(1553年)、東信濃を攻略した武田信玄はまず当神社に社領安堵状を捧げ、さらに永禄2年(1559年)再び当神社に願文を捧げ、越後の雄・上杉謙信との戦いに勝利するよう祈願しました。この2年後に川中島の大合戦が行なわれています。
信玄は信濃の大半を勢力下に置いた永禄9年・10年(1566年~1567年)に信濃はもちろん、甲斐や上野の武将達を当神社に集め、神前で忠誠を誓わせました。そのときの誓いの文書(起請文)が当神社に83通残されており、国の重要文化財に指定されています。境内の歌舞伎舞台(県宝)で展示公開しています。
武田信豊起請文 :
武田信玄が支配下の諸将を当神社に集め、改めて忠誠を誓わせた起請文を差し出させた背景には、長子義信との不和が生じたことにより統制の強化を計る必要があったためと思われます。文書は熊野神社の牛王宝印(ごおうほういん、からすの図柄)の護符に書かれ、文書はいずれも忠誠を誓っている前書きと誓いを破った場合には神仏の罰を被るべき神文とからなっており、各署名下に花押と血判を押したものが多くみられます。起請文差し出しの武将は東・中・南信濃、甲斐上野(現在の群馬県)の237名にもおよんでいます。
日本人には「私は無宗教です」と言う人が多いようです。
1960年代のアメリカでは、「あなたの宗教は?」と聞かれたことがしばしばありました。私はこの質問を深刻に考え込み、「無宗教です」と答えていました。
聞いたアメリカ人が暗い顔になります。「仏教徒です」、という答えを期待している場合が多かったのでした。
ところが、この質問はそんな深刻なものではないのです。日本で近所の人に会ったら、「どちらまで?」、「ちょっとそこまで」というやりとりと同じように軽い挨拶のようなものでした。
ベトナム戦争で負けたアメリカ。アメリカ人は無邪気でなくなりました。「貴方の宗教は?」などと気楽に聞かなくなりました。ベトナム戦争後、アメリカ社会の雰囲気が大きく変わりました。
1960年代までのアメリカ社会は陽気で、無邪気で、エチケットを良く守る楽しい社会の一面を持っていました。
当時、「何故、無宗教はいけないのですか?」と聞き返し、気まずい雰囲気になったことを思い出しました。どうもハッキリしませんが、「無宗教は悪魔」と思い込んでいるようでした。それ以来、無宗教ということを考えるようになりました。
ところが、カトリックの洗礼を1972年に受けてから、目から鱗で宗教の意味が理解出来るようになったのです。
周りを見回してみると無宗教の人々が多いものです。しかし善良で立派な人々です。昔のアメリカ人は「無宗教は悪魔と同じだ」と思い込んでいたのは完全に間違っています。
洗礼を受けて、宗教のことが深く理解できるようになりました。
日本人が自分で無宗教と言う場合は、「そうですか。それも良いですね」と答えるようにします。それ以上の議論はしません。
しかし私にとって無宗教の方々の多くは立派な仏教徒に見えます。色即是空、空即是色ですね。
お釈迦様は教えました。偶像を拝んではいけない。死ぬことは無に帰ることです。ですからこの世の事に執着してはいけません。全ては無常です。
この教えを日本人は1500年の間、信じてきたのです。それは無意識のうちに心の中に深くしみ込んでいます。丁度、空気のように意識する必要もなくなりました。
ですから日本人の多くは「無宗教です」と自分で信じています。自分でそうおっしゃるのですから反対しては礼儀上いけません。
私は、無宗教の方々を尊敬しています。それだけの話です。失礼しました。
今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。 藤山杜人