後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

終戦の日に毎年思い出す大空襲・・・そして空襲に参加したアメリカ兵の思い出

2011年08月13日 | 日記・エッセイ・コラム

毎年、毎年、8月15日の終戦の日が近づくと大空襲の光景を思い出します。

国民学校3年生だった私の立っていた小高い山の眼下に一面に燃え盛る仙台市が広がっていました。一夜にして焼け野原になりました。B29が123機来襲して一気に焼く尽くしたのです。

現在の若い方々のために全国の都市がB29に焼かれた事をご紹介いたします。 

全国の数多くの都市が、1945年7月に、アメリカ空軍のB29の編隊による焼夷弾攻撃で焼きつくされたのです。

戦後すぐに吉田首相はその中から115市町村を選び復興事業の予算を交付します。1946年10月に次の内閣告示第30号を発布しました。日本全国のほとんど全ての都市がB29の焼夷弾で焼きつくされたのです。

現在の若い方々にもこの苦難の歴史を民族の共通の記憶として子々孫々まで伝承して頂きたいと思います。 

内閣告示第30
特別都市計画方第1条第3項の規定によって次のように市町村を指定する。
昭和21109日 内閣総理大臣 吉田茂  

根室市,釧路市,函館市,本別町、青森市 、釜石市,宮古市,盛岡市,花巻市、仙台市,塩竈市 、郡山市,平市 、東京都の区の存ずる区域,八王子市 、横浜市,川崎市,平塚市,小田原市、千葉市,銚子市 、熊谷市 、水戸市,日立市,高萩町,多賀町,豊浦町 、宇都宮市,鹿沼町、前橋市,高崎市,伊勢崎市、長岡市、甲府市。

名古屋市,豊橋市,岡崎市,一宮市 、静岡市,浜松市,清水市,沼津市、岐阜市,大垣市、津市,四日市市,桑名市,宇治山田市 、富山市、大阪市,堺市,布施市 、神戸市,西宮市,姫路市,明石市,尼崎市,魚崎町,鳴尾村,本山村,住吉村,本庄村、和歌山市,海南市,田辺市,新宮市,勝浦町、福井市,敦賀市 、広島市,呉市,福山市 、岡山市、下関市,宇根氏,徳山市,岩国市、堺町、高松市   

徳島市 、松山市,宇和島市,宇治市 、高知市、福岡市,門司市,八幡市,大牟田市,久留米市、長崎市,佐世保市 、熊本市,荒尾市,水俣町,宇土町 、大分市 、宮崎市,延岡市,都城市,高鍋町,油津町 、鹿児島市,川内市,串木野町,阿久根町,加治木町,枕崎町,山川町,垂水町,東市来町,西ノ表町 (沖縄は当時、アメリカ領) 

1945年7月10日の午前0時から仙台は123機のB29によって焼きつくされました。

9歳であった僕は、向山の高台から市街地が一面の火の海になっているのを立ち尽くして見ていました。翌日は少年の単純な好奇心で、鹿落坂をくだって焼け跡を見に行きました。下の写真のような光景が広がり、まだ彼方此方から煙が立ち昇ってたのを鮮明に思い出します。

Sendai_after_the_1945_air_raid 写真の出典はWikipedeaより。

それから15年後にオハイオ州立大学へ留学したとき、クラスメイトに14歳年上のオートンさんという空軍大佐が居ました。

B291hikoucyuu1_2 

戦争中はこの写真のようなB29に乗り組んでいたそうです。

どういう訳かオートンさんとは親友になり彼が死ぬまで交友が続きました。

オートンさんはB29爆撃機を操縦して日本へ何度も飛んできて焼夷弾を落とした男です。大きな体、坊主頭、赤ら顔のカウボーイのような男でした。面倒見のよい人で、英語のできない私にノートを見せてくれ、何度も家に招待してくれました。当時、彼は空軍大佐でしたが、引退後は大学の先生になろうと博士課程を取っていました。  

なぜ日本人の私の面倒をそんなに本気でみるのか、かなり親しくなってから聞いたことがあります。「俺は東京へB29で何十回も空襲に行ったよ。それでなんとなく日本人に親近感ができてしまったのかも…」。彼はその話を二度としませんでした。  

奥さんのケイが死んだのは二十年も前です。しばらくしてから南部にオートンさんを訪ね、二人でケイの墓参りをしました。いつも大声で陽気に話していた彼は消え入るように沈んでいます。墓地には白い墓石が一面に広がり、秋風が吹き渡っていました。

00881 また何年か過ぎ、アニタという女性と再婚してから元気になったようです。 

1988年、私はオランダの出版社から初めて英語で専門書を出版することになりました。その時、原稿を逐一訂正してくれたのがオハイオ州立大の同級生だったオートンさんです。 

 オートン氏のことを思い出すと、1945年7月、少年であった私の目の前で一面火の海になった仙台の町々、空襲の大火に映しだされるB29の白い機体のゆっくりした動きを思い出します。憎しみも悲しみもない走馬灯のように。 オートン氏は2006年の末に亡くなりました。花輪を送り、遠くから冥福を祈るだけです。

どういう訳か仙台の大空襲を思い出すと、オートンさんの終生変わらなかった友情を一緒に思い出します。大空襲では家族も自宅も被害を受けませんでしたが、叔父の家が焼けました。その叔父も死に、全ては恩讐のかなたになってしまいました。

いくら年をとっても仙台の大空襲の光景とオートンさんの思い出が一緒になって私の目に見えるのです。それにしても凄惨な戦争でした。亡くなった日本の人、アメリカの人のご冥福をお祈り申し上げます。藤山杜人

B29写真の出典:http://www.sun-inet.or.jp/~ja2tko/jap/ok_b29.museum.html

墓地の写真の出典:http://www.remus.dti.ne.jp/~aga/wdc/106.html


和服を小奇麗に着付ける方法とは・・・鍵は帯と襟

2011年08月13日 | 日記・エッセイ・コラム

051010tajima21 妻は嫁入りのとき和服を幾つも持って来た。ところが女の和服は一人で着るのが難しいものです。オハイオ州で初めて着るとき、後ろに回って着付けを手伝いました。

初めて手伝った時に和服の不合理な構造に目の先が真っ暗になったものです。

堅い、分厚い、長い帯で着物を締め付けて、一日、着物が崩れないようにしなければいけません。きつすぎても、ゆるすぎてもいけないのです。余った帯を、帯揚げで太鼓に作ります。このとき帯の綺麗な模様が表面に正しく来るようにします。着物が崩れないように締める目的と、太鼓型の飾りを作る目的という2つの目的を堅い1本の帯で達成するように結びます。「こんな面倒な衣服は世界にあるまい」と思いつつ、太鼓型の仕上げに時間をとっている間、「やはり和服姿は綺麗だね」と言って時間稼ぎをするのも一つのコツです。

最後に、衣紋を程良く抜きます。抜かないと野暮ったくなりますし、抜き過ぎると下品になります。左の写真のように首の後ろの襟を少し引っ張って、美しいうなじを見せるようにします。見せる程度が和服の種類によって微妙に変えます。そして和服を着て行く目的によっても抜く程度を変えます。                                                                                                      中年になってからは家内も独りで着付けをするようになりました。茶会や源氏物語の教室へ行く時は、その月の花や行事に合った柄を選んで楽しそうに着ています。帯揚げ、帯止め、草履、風呂敷などの小物をあれかこれかと迷いながら決めているのは見ていても面白いものです。

それにしても準備に一日、当日、しまうのに一日、とめんどうなものです。手間暇かけるのも日本の文化の特徴のひとつなのか。不合理も意外に良いものか。などと感じている次第です。詰まらぬ話で恐縮です。                                                                                                      

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人