後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

田中一村の絵画世界・・・その圧倒的な衝撃

2011年08月30日 | インポート

田中一村の絵を前にして私は言葉が出ません。ご覧下さい。今までの画家とは違う真の、純粋な芸術と感じたのです。金銭慾、名誉慾など全く求めず、ただ自分の描きたいものに向かい、描きたいように画くという悲壮なまでの情熱に撃たれたのです。               出典は、http://www.ne.jp/asahi/yoshida/gaia/tanaka/frm.htm です。このHPを書いている方の文章もぜひお読みください。そしてこの方のHPの全て:http://www.ne.jp/asahi/yoshida/gaia/index.htm の数々の随筆も是非お読みください。

====註:田中一村、1908年ー1977年、69歳で没========

以下の出典はWikipedeaより。

1955年の西日本へのスケッチ旅行が転機となり、奄美への移住を決意する。1958年、奄美大島に渡り大島紬の染色工で生計を立て絵を描き始める。だが、奄美に渡った後も中央画壇には認められぬまま、無名に近い存在で個展も実現しなかった。

没後に南日本新聞NHKの「日曜美術館」の紹介でその独特の画風が注目を集め、数年前から全国巡回展が開催され、一躍脚光を浴びる。鹿児島県は奄美大島北部・笠利町(現・奄美市)の旧空港跡地にある「奄美パーク」の一角に「田中一村記念美術館」を2001年オープンした(館長宮崎緑)。生誕100年にあたる2008年には、奈良県高市郡明日香村奈良県立万葉文化館[1](館長中西進)で「生誕100年記念特別展 田中一村展―原初へのまなざし―」が開催された。

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日露戦争に勝ったのは英国製戦艦、三笠の数多くの砲の優秀さのお陰です

2011年08月30日 | 日記・エッセイ・コラム

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日露戦争で日本がロシアに勝ったのは英国の支援のお陰です。戦費を貸してくれ、優秀な武器や戦艦を売ってくれたからなのです。

その事を日本の歴史教育ではとかく無視する傾向があります。

そこで今日は日本海会戦で旗艦を務めた戦艦、三笠の戦闘能力をご紹介いたします。

東郷元帥の戦略も独創的で敵の意表をつく見事なものでした。でも、英国のビッカース造船所へこの戦艦を発注した海軍省の官僚も偉かったと思います。砲身の直径30cmの主砲を前後に2門ずつ、両舷側に15cm副砲を7門ずつ、そして8cm砲を両舷側に10門ずつ、合計38門の大砲を持つ三笠の戦闘能力を当時は抜群のものでした。

大砲の戦闘能力は一分間に何発の砲弾を発射出来るか?砲身の方向を変える速度は大きいか?射程距離と命中精度が敵艦より優れているか?などによって決まります。

ビッカース造船所の戦艦製造技術と艦載大砲の優秀性がロシアのバルチック艦隊より優れていたら勝つのが自然だったのです。

その上、七つの海を支配していた当時のイギリスはロシアのバルチック艦隊が大西洋、インド洋、フリッピン沖を廻航する途中の燃料と食料の補給を妨害したのです。イギリス領の港への入港を拒否したのです。バルチック艦隊は疲れ果ててようやく日本海へ入って来たのです。東郷元帥率いる英国製の日本の艦隊に負けるのは当然ななりゆきだったのです。

ロシア艦隊に完全勝利しすぎた結果、大艦巨砲主義がその後の帝国海軍の主流となったのです。しかしその過ちが明白になったのは、巨大戦艦、武蔵や大和を建造し、アメリカの航空攻撃に沈められた後です。

そんな歴史を思い返しながら三笠の甲板を歩いてきました。風の爽やかな晴天で、猿島の緑が美しい3年前のある5月の日の事です。

撮影日時:2008年5月27日午前11時頃、 撮影場所:横須賀市三笠記念公園


アメリカ社会における離婚の実態と悲劇の解消方法

2011年08月30日 | インポート

    ◎アメリカの離婚―光と陰

オハイオ州コロンバス市で結婚式の世話をしてくれた友人夫妻と先生夫妻がしばらくして、ともに離婚した。自由・平等の国アメリカには離婚の自由もある。しかし、離婚で生ずる子供の犠牲、悲劇への友人の巻き込み、経済的損害などを考えると、離婚の自由には代償が大き過ぎる。

われわれの結婚式場の予約をし、式では付添い人をし、結婚祝いのシャワーをしてくれたのは友人のジャックと奥さんの金髪美人ナンシー。料理上手で、服も自分で縫い上げる。数学が得意で、その才能を発揮できる会社で働きながら二人の子供を育てていた。センスのよい自宅へ呼ばれたが、カクテルシェーカーでマテーニを作ってくれた時のナンシーの優雅さは脳裏に焼きついている。

4、5年後、東京にナンシーから突然の航空便。夫が浮気をしたので離婚した。いま子供二人を連れて行商のような仕事をしながらアメリカ中をさすらっている。田舎町の行商旅の悲しさ。夫のいない三人だけのわびしいホテルでの夕食の様子などが細かに書いてある。悲劇的な映画の場面を見ているようである。何度もそのような手紙が来た。そのたびに勇気付ける手紙を家内が出していた。

ナンシーから手紙が来なくなった。再婚したに違いない。子供が二人いてもスレンダーな金髪美人である。再婚できないはずがない。一方、あんなに親切だった夫のジャックからは手紙が来ない。夫にも言い分があったはずだが、ジャックは沈黙でよく耐えた。

     @離婚と職場の関係

離婚は個人的な悲劇にとどめよう―それがアメリカ社会の約束である。しかし、恩師夫妻の離婚のように職場を巻き込むこともある。離婚されそうになった奥さんのメアリーが夫と同僚のスミス教授に相談。恩師夫婦の離婚は成立し、その後スミス教授は離婚の相談に来たメアリーと結婚。恩師は若い婦人と再婚した。スミス教授の前の奥さんははじき出された形になり、消息は伝わってこない。

この騒動の後、オハイオを訪問した。友人が一部始終を話してくれた。「あす大学に行くが、恩師に会った時、何って言えばよいの」「何も言うな。一切知らなかったことにするのがよい」「恩師の前の奥さんには大変お世話になったので、家内からのお土産を持って来たが」「今晩、その奥さんの再婚先の家へ連れて行ってあげる。でも離婚のことは話題にするな」

大学で共同研究の相談をしている時、メアリーと結婚したスミス教授がそっと私を呼び出して、「先日は家内を訪問してくれてありがとう。東洋人は恩を忘れないと家内が喜んでいたよ」

       @離婚後の付き合い

夫婦が別れた後は顔も見たくないというのが洋の東西にかかわらず本音であろう。しかし離婚の多いアメリカでは「離婚の自由」が「離婚後はお互い友人として付き合い、社会生活では離婚による差別はしない」という規範に支えられている。悲しい偽善のように思えるが…。

離婚した恩師はその後、学科主任になった。学科主任は毎年二回ぐらい教授と学生を自宅へ招くのが普通である。離婚した前の奥さんメアリーも招待しなければいけない。招待を受けたら出席するのが義務だ。パーテイーでは友人同士として明るく話し合う場面を見せなくてはいけない。

前の夫が学科主任になり、その部下になった現在の夫スミス教授のためにも晴れやかに談笑するつらさは察するに余りある。それが証拠に、その場面が済むとパーテイー半ばにもかかわらず引き揚げる。親しい教授に「前の奥さんがかわいそうだ。帰る時そば行って慰めてやりたいが」「やめなさい。帰るのに気が付かない振りをするのが親切というもの。それがアメリカのルールさ」

皆ホッとして、これで米国社会は健全だとも思うのか一段と楽しそうになる。その後は日本の「二次会」のような雰囲気になる。パーテイーをする家の前庭には大きな星条旗が風に揺れ、少しずつ遅れて到着する参加者を歓迎している。旗は何も言わないが、「自由と平等の国アメリカを忘れないでね」というメッセージを語りかけている。(終わり)