後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

キリスト教の世界での「同行二人」・・・ある有名な詩をお送りします

2011年08月24日 | 日記・エッセイ・コラム

「足あと」   (M.パワーズ)

ある夜 わたしは 夢を見た

神さまと2人並んで

わたしは砂浜を歩いていた

・・・・・・・・・

砂の上に 2組の足あとが見えていた

1つは神さまの

そしてひとつはわたしのだった

・・・・・・・・・

しかし 最後に

わたしが振り返ってみたとき

ところどころで

足あとが 1組だけしか

見えなかった

・・・・・・・・

「わたしの愛する子どもよ

わたしは けっして

お前のそばを

離れたことはない

お前がもっとも苦しんでいたとき

砂の上に1組の足あとしか

なかったのは

わたしが お前を

抱いていたからなんだよ」

足あと   M.パワーズ(プロテスタントの牧師) 原詩  松代恵美 訳 

ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、渚-なぎさ-を歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
一つは、わたしのあしあと、
もう一つは主のあしあとであった。

これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには、一つのあしあとしかなかった。

わたしの人生で一番つらく、悲しい時だった。

このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生の一番つらい時、
ひとりのあしあとしかなかったのです。
一番あなたを必要としたときに、
あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
わたしにはわかりません」

主は、ささやかれた。
「私の大切な子よ。私は、あなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。
ましてや、苦しみや試みの時に。
あしあとが一つだったとき、
私はあなたを背負って歩いていた」


Footprints
One night I dreamed a dream.
I was walking along the beach with my Lord.
Across the dark sky flashed scenes from my life.
For each scene, I noticed two sets of Footprints in the sand.
One belonging to me.
And one to my Lord.

When the last scene of my life shot before me.
I looked back at the footprints in the sand.
There was only one set of footprints.

I realized that this was at the lowest and saddest times of mi life.

This always bothered me
and I questioned the Lord about my dilemma.
“Lord, you told me when I decided to follow you,
You would walk and talk with me all the way.
But I ’m aware that during the most troublesometimes of my life
there is only one set of footprints.
I just don’t
 understand why, when I needed You most,
You leave me.”

He whispered,
“My precious child,
I love you and will never leave you never, ever, during your trials and testings.
When you saw only one set of footprints
it was then that I carried you.”


人生は二人で歩こう!・・・「同行二人」のいろいろな意味

2011年08月24日 | 日記・エッセイ・コラム

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上の写真のような道を人生に例えて向こうへ、向こうへと歩いて行くことを考えてみましょう。

恋人と2人で歩けば左右の稲がキラキラ輝く楽しい道になります。しかし恋人が急病で死んでまえば、恋人の霊魂と二人で歩くことになります。悲しみが心に溢れ、陽射しも暗く感じることでしょう。

若い頃、「「同行二人」という言葉を知ってから私は何時もこの言葉を考えています。特につらい事や悲しい事が起きた時にはこの言葉に勇気を貰って来ました。

四国88ケ所の霊場を歩いて回るとき、四国出身で、そこで修業した弘法大師が一緒に歩いてくれるのです。それが「同行二人」の本来の意味です。

しかしこの言葉がいろいろなことを連想させてくれます。

例えば人生を一緒に歩いてくれる人を連想することも出来ます。夫婦の関係を暗示していると考えることもできます。

最愛の夫や妻をなくした人にとってはその霊魂と一緒に歩いている時もあります。先に亡くなった父母と一緒に歩いていると感じる時もあります。

人間が人生という道をあゆむ時、一緒に歩いてくれる人がいると苦しみも消えてゆきます。

ですからこそ私は「同行二人」という言葉に何度も、何度も勇気づけられて来ました。

「同行二人」として何時も弘法大師さまが一緒に歩いてくれという信仰は美しいものです。日本人の心の宝です。

少し宗教的に考えると一緒に歩いて下さるのは何時も弘法大師さまではないかも知れません。

時々、観音さまと交代してくれます。そしてお釈迦様とも交代してくれます。そのように考えるとお釈迦さまが急に身近に感じられます。

そして、道行きは四国の霊場を回るときに限った話ではありません。

毎日の生活を道行きと考えると、いつも大師さまが一緒に居て下さるのです。観音様もいてくれます。そして時々はお釈迦様もそばに来てくれます。

カトリックの信者の私もこの言葉が大好きです。人生という苦しい道行きをマリア様が見守ってくれているのです。時々はイエス様が降りて来て一緒に歩いてくれます。

「同行二人」という言葉ほど優しい言葉はありません。お釈迦様のお慈悲が大師さまを通して人々に降り注ぐのです。金のしずく、銀の雨のように降り注ぎます。

家族運が無くて孤独な人にも金のしずく、銀の雨がたえまなく降り注ぎます。

この文章はこの下に掲載してある、空海(弘法大師)は温泉なんか発見していない! という文章と対になって居ます。

歴史的事実と人々の信仰の美しさを対比させたつもりです。どちらも真実なのです。

それがそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人