後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

真夏日なので蓮根畑をはるばる分け入って、ウナギを食べて来ました

2011年08月18日 | 写真

兎に角、あまりにも暑いので、昼過ぎにはヨット遊びを終えてしまいました。霞ヶ浦の北岸に、えんえんと広がる蓮根畑の中の迷路のような農道を写真を撮りながらたどって行きました。

観賞用の蓮ではなく、蓮根を収穫する為のハスです。それでも純白の大輪の花が夏風に揺れている光景は壮観でした。写真をお送りいたします。

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迷路のような農道をわけ入って行くと、「山中のうなぎ」の看板がありました。

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この山中のうなぎは「天然仕立のうなぎ」として他のものとは味が違います。

天然ウナギの味に近くなるように特別に養殖した、「天然仕立の山中のウナギ」です。天然ウナギではなく養殖ですが、味に野趣があって川ウナギのような感じがします。何故か懐かしい味です。20年以上かよっていますが、時々タレの味が変わるのが可笑しいです。

まあ分かり易く言えば、泥臭く、小骨があります。その泥臭さを消すためか焦げるくらいに焼きます。小骨もパリパリして香ばしい風味になります。泥臭さが心地よい田舎味になっています。その田舎味が郷愁を誘うのでしょう。

下に3人分のカバヤキ重の写真を示します。もう1人分あったのですが写真の視野に入らなかったのです。双子の孫も美味しいと言って完全に食べてしまいました。つまらない話でご免なさい。(終わり)

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1965年頃までの日本の農村生活の貧しさ・・・あなたは忘れていませんか?

2011年08月18日 | インポート

1965年頃までの日本の農村は本当に貧しかったのです。当時の農家の様子や生活を偲ぶには大変良い所があります。

川崎市の日本古民家園、小金井公園内の江戸東京建物園、小平市の小平ふるさと村などに展示されている農家などです。

見学して、展示してある農家の全てが、1965年、すなはち昭和40年代まで実際使用されていたのを知って愕然としました。しかも展示されている農家は裕福な大型農家ばかりです。小作人や貧農の農家は小平市以外では展示されていないのです。

裕福な農家とその台所の様子を注意深く見ます。すると、1970年頃までは電灯とラジオがある以外江戸時代と変わらぬ生活水準であったことが明快に分かります。いや、もう少し正確に言えば、雨戸の内側にガラス戸が付いたこと、脱穀機などに電気モーターなどが使用されたなど部分的には随分便利になってはいましたが。

明治維新以後農村でも、義務教育が普及し多くの人々は小学校を卒業するようになりました。しかし、小作人の子供は小学校を終ると直ぐに農作業を始めました。地主の子供だけは都会にある中学校や商業学校へ行けたのです。このような地主と小作人の関係はマッカーサーによる農地解放まで、江戸時代とあまり変わらなかったのです。地主だった老人のところへ、昔の小作人が野菜を持って来て、庭の地面にじかに座って話していたのです。そんな光景を、私は何回も見ました。元小作人は地主の家の玄関からは入らない。縁側には座らない。住んでいる家は藁ぶき屋根の粗末な小屋です。それが終戦までの多くの小作農民の実態だったのです。筆者の疎開先の農家ではご飯を毎日一回だけ炊く竈は別にありましたが、味噌汁を煮るのは一つの囲炉裏だけで行っていました。囲炉裏の回りは土間でなく高い板敷きになっていて、奥には畳敷の部屋が2つありました。水道は無く、井戸水でしたが電灯とラジオだけは有りました。

下に小平市の小平ふるさと村に展示してある、「裕福な農家」と「貧しい小作人の家」写真をしめします。どちらも江戸時代の農家です。

3枚目の写真は貧しい小作人の家の内部です。囲炉裏のある土間の奥にこのような竹や藁を敷いた寝室があります。

その下の2枚は裕福な農家の台所の様子です。井戸水を流しのしたの甕に汲み置き使っていました。囲炉裏の後の戸棚には箱膳や食器をしまう貧しげな戸棚があるだけです。囲炉裏の煙ですすけています。

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隠れキリシタン・260年の歴史は日本の誇り・・・多くの外国人がそれを尊敬する

2011年08月18日 | 日記・エッセイ・コラム

キリストの教えを書いたのもが福音書です。それは仏教のエッセンスを書いた般若心経のようなものです。福音書は明快です。神が人間を愛するのでイエスを地上に送りました。イエスは地上で人々へ、「神を信じるとパライソ(天国)へ行ける」と教えます。そして人々の罪を全て背負って十字架にかけられ処刑されるのです。3日後に生き返って、愛する弟子たちにもう一度会いに来るのです。そして互いに愛しなさい、敵をも愛しなさい、と言って天に登り、神の右の座に着くのです。世界の最終日の最後の審判の時に信者に永遠の命を与えるのです。信者は自分の肉体が永遠に復活することを信じています。

この教えは1549年にフランシスコ・ザビエルによって日本へ伝えられました。下の絵はザビエルの死後、日本で描かれ、大阪府の茨木市で、「隠れキリシタン」の家系の家で1919年に発見されました。ザビエルの来日以後、実に370年目に大阪府で現れた肖像画です。現在は神戸市立博物館にあります。

Franciscus_de_xabier1 この一枚の絵はキリスト教が日本へ完全に根付いていた証拠としてここで紹介いたします。

ご承知の通り豊臣秀康が始めたキリシタンの禁教政策は徳川家康に引き継がれ、三代将軍の家光の時に徹底的に実行されるのです。キリシタンとして捕縛された信者が日本全国で多数処刑されたのです。

秀吉以来の処刑者は一説によると30万人に及ぶとも言われています。

信者を処刑しただけでなくあらゆる教会や集会所を破壊し尽くしたのです。

残ったのは隠れキリシタンの家の納戸(押し入れや戸棚)の奥に隠くした福音書の断片や祈祷書だけになったのです。信者だけが隠れて集まり、聖母像(マリア観音)の絵や彫像を持ちだし、農家の奥の部屋で一緒にミサを立てたのです。

この事実はキリスト教が背負って来たヨーロッパ文化が消し去られた状態を意味します。美しい異国的な教会も、聖歌も、伴奏の楽器も、絢爛豪華な法衣も全て無くなったのです。福音書や祈祷書だけが残ったのです。もしキリスト教が日本人の心の中に根付いていなければ、これで終りになる筈でした。しかしキリストの教えが根付いていたのです。260年も代々と人々の心の中に信じられてきたのです。そしてもう一つの伝承と共に。「神父様が必ず帰って来て教会を建ててくれる」という伝承です。明治維新でフランスから長崎へ来たプチジャン神父の所へ隠れキリシタンがやってきます。「神父様が帰ってきて教会堂を建ててくれると260年間信じてきました」と言いだすのです。

貴方は日本人は凄い民族だとお思いになりませんか?キリスト教の背負ってきた華やかな西洋文化が完全に無くなっても、弾圧に耐え、教義だけを260年も代々信じて来たのです。踏み絵を踏んで表向きは仏教徒になりすまして居ました。その一方で、隠れて集まりミサを立て、祈り続けて来たのです。

この隠れキリシタンの歴史は私たちへ一つの強いメッセージを送り続けています。「どんな宗教でもその伝来の時背負って来た文化や習俗が無くなっても、人々の心に永遠に根付くものです」というメッセージです。勿論もっと正確に言えば、その宗教が真理を教えて居るのならという条件が付きます。

「私はキリスト教は日本に根付かないと思う」という言葉はキリスト教が背負って来る文化や習俗は日本人が好きではないと言う意味なのです。そういう意味で言っているなら、議論する必要がないのです。人の好き嫌いは勝手で良いのです。

私はカトリックの信者です。本当はキリスト教のことはあまり深く理解していません。信仰も弱いと思っています。しかし何故カトリックか?と問われれば「隠れキリシタン」を尊敬しているからです。それだけの話ですが、皆様はどのようにお考えでしょうか?

この記事をお読み頂けた方々へ深く感謝いたします。そしてお読み頂いた方々の上に神様の慈しみが豊かにありますように心からお祈り申し上げます。

藤山杜人

下の写真は長崎にある26聖人の像です。出典は、http://www.asahi-net.or.jp/~yj9m-nkmr/seijin.htm です。二十六人のうち、日本人は二十名、スペイン人が四名、メキシコ人、ポルトガル人がそれぞれ一名であり、すべて男性でした。舟越保武氏の作です。

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欧米人へ日本の佛教文化を説明する方法

2011年08月18日 | 日記・エッセイ・コラム

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現役の間はしばしば外国へ行きました。その土地の人々と一緒に食事をしたり、お酒を飲んだりします。すると日本の文化とはどういうものですかと聞かれます。貴方は即座に答えられますか?長い間困っていましたが、ある時簡単な答えを発見しました。「佛教文化です。国宝には7世紀以来の古いお寺や仏像が沢山あります。」と簡単に答えます。すると今度日本へ行ったら何処のお寺を見たほうが良いですかと聞かれます。この質問も困った質問です。そんなに考え込む必要はありません。

自分の好きなお寺をあげれば良いのです。奈良の法隆寺と唐招提寺。京都では清水寺、南禅寺、高台寺、鎌倉では建長寺と円覚寺と答えます。この時、ウンチクを傾けて余り沢山のお寺の名前を言わない事です。相手が目を回さないようにゆっくり発音します。

さて次の質問はは大抵、「日本の仏教文化とインドやタイの仏教文化とどのように違いますか?」というものが多いのです。貴方は答えられますか?これも困った質問ですね。私は簡単に言います。「キリスト教でも戒律の厳しい宗派と自由な宗派があるでしょう。インドやタイの南方系の仏教は戒律が厳しく、日本の仏教は穏やかな佛教です。和を持って尊しとなす。ですね」と答えます。

その次の質問は、「キリスト教では福音書がありますが、仏教にはありますか?」です。答えは簡単にします。「勿論あります。お経と言います。福音書は4種だけですが仏教のお経は1000年ぐらいに渡っていろいろな弟子によって書かれたので数が非常に多いのです」と答えます。食事をしながらの話なので、大体このぐらいで質問は終りです。面倒くさくなったら楽しい話題へ変えてしまえば良いのです。

そんな事を思い出しました。写真は唐招提寺のWikipedeaとHPからお借りしました。私の好きなお寺です。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人

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参考までに:釈迦は紀元前5世紀頃、シャーキャ族王・シュッドーダナ(漢訳名:浄飯王 じょうぼんのう)の男子として現在のネパールルンビニで誕生。ゴータマ・シッダールタ は王子として裕福な生活を送っていたが、29歳で出家した。35歳で正覚(覚り)を開き、仏陀(覚者)となったことを成道という。まもなく釈迦のもとへやってきた梵天の勧めに応じて、釈迦は自らの覚りを人々に説いて伝道して廻った。80歳で入滅(死去)したと言われている。