(上の写真は帆船・日本丸です。2008年4月に撮影しました)
この前の記事で日露戦争の日本海会戦で大勝利を収めた戦艦、三笠のことを書きました。今回のこの文章はそれに続く船舶というものに関する一つの感想です。
1900年英国、ビッカース造船所製の三笠と、1930年英国、ラメージ&ファーガソン社製の帆船日本丸と同じく1930年三菱造船、横浜ドック製の氷川丸の構造と装備を比較するとその当時の欧米の船建造の思想が実に明快に理解できます。
建造されえた時代のその国の文化を反映しているのです。そのところが私にとっては大変興味深く感じられるのです。
欧米では船、特に大型船を建造する場合にその船の使用目的をまず明確に決定します。その後で使用目的を達成するために一番合理的な構造と装備を考えて建造するのです。船の構造は使用目的によって大きな違いがあるのです。
欧米の設計思想の根幹にはこの合目的性が一番重要になっています。日本の伝馬船のように使用目的があいまいなものは少ないようです。
三笠の目的は敵艦より優れた大砲を多数装備し、高速で海上を自由に動けなければならなりません。その断面構造図を見ると、戦闘目的に関係ない装備は一切無いのです。士官室は後部、水兵室は前甲板の下と画然と分離され、規律保持が徹底しています。砲弾庫は船底の一番安全なところにあり、大量の食料は長期作戦のために冷凍庫に保存されているのです。当時、すでに冷凍庫があったのです。
その上、撃沈した敵の戦艦の乗員を救助し、捕虜にする予定で「捕虜収容室」も装備してあるのです。
動力は蒸気機関で直立3気筒レシプロ蒸気機関で2基で合計15000馬力、2軸スクリューで15140トンの船体を18ノットで推進させる力を備えていました。燃料は石炭で、甲板の左右に多くのマンホール状の穴を作り船底に石炭を人力で落とし込みます。出動の前には1500トンの石炭を積んだそうです。積み込むときは乗組員総員で迅速に積み込む訓練を重ねたといいます。
三笠の建造後30年たって1930年に日本丸と氷川丸が出来ました。
日本丸は三笠と同じ英国製で、排水量2279トンです。日本の池貝鉄工所製のジーゼルエンジン600馬力2基を装備しています。この船の使用目的は帆走と大洋航海術の教育でした。したがって大洋航行用の4本マストで、おもに横型帆と少しの縦型帆の合計、29枚の全てを、意図的に人力で操作するように出来ています。甲板から上の全ての装置は、舵も含めて電気モーターや油圧動力は一切使わないのです。
小さなジーゼル発電機は艇内の灯火と航海灯と無線電信機のみの為に使われたのです。航海の90%は帆走し、ジーゼル燃料を節約したのです。
この船は航海術の教育目的なので、武器は一切積んでいません。食料と清水だけを乗員数と航海日数に従って積載していたのです。
この船の断面構造図を見ると平和的な構造になっています。それは戦艦「三笠」が戦争目的の殺伐とした構造になっていることと比較すると歴然とします。
戦艦・三笠の構造は、現在の日本人から見ると、非常に残酷な構造になっています。捕虜収容室など本気で作ってあるのは敵艦を沈めて、生存者を拾い上げようとしているのです。敵艦の情報を取るためです。
さらに1930年製で排水量11622トンの氷川丸は客船であり、客室とダイニングルーム、社交室などが主な部分を占めています。
5500馬力の大型ジーゼルエンジンを2基装備して、太平洋を時速18.2ノットで駆け抜けのです。
ただ当時の文化風習に従って一等客室と三等客室の差が非常に大きいものでした。1等は個室で三等は上下2段ベットの狭い8人部屋で船底近くにあるのです。三等客の食堂は粗末です。三等船客は一等客室部分へは立ち入り禁止です。三等船客にとって、航海中は暗い毎日であったに違いありません。
最近の豪華客船のニッポン丸や飛鳥の船内とは雲泥の違いです。
三笠と帆船日本丸と氷川丸の構造・装備の違いを比較して欧米の船の建造の思想を考えてみました。
そしてそれを敷衍すれば飛行機や自動車の設計思想にも同じようなことが見られるのです。
ヨーロッパ文化と日本の文化を比較して深く理解するためには、船や飛行機や車のような乗り物の設計の仕方や装備を考えるのが良いと私は思っています。
皆さまのご意見を頂ければ嬉しく思います。(終わり)