後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

高句麗の王族が治めた日本の土地を流れる高麗川の風景

2011年09月11日 | 写真

西暦715年から武蔵国の高麗郡は、高句麗の王族、若光(じゃっこう)が治め、その善政が現在まで言い伝えられています。

埼玉県の西部の日高市には若光の菩提寺や神社が存在し、若光の子孫が代々神主を務めています。

その土地には秩父山地から流れ下る「高麗川」が当時のままの様子で、ゆうゆうと流れています。悠久の歴史を思い起こさせるような川のたたずまいです。そんな写真をお送りします。

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箱根彫刻の森美術館と美ケ原高原美術館の彫刻作品の比較すると、、、

2011年09月11日 | 日記・エッセイ・コラム

今週の火曜日に箱根彫刻の森美術館を見て回りました。ここの景観と彫刻が好きで何度も来ている場所です。私は彫刻を楽しむ為の自分だけの方法を持っています。まずその彫刻が好きか嫌いかを考えます。次に何故好きになったか?何故嫌いになったかを考えます。そして彫刻を楽しむためにはその作品が展示してある場所の景色を考えます。彫刻が与えてくれる興奮と背景の景観の調和を考えます。

私が彫刻を楽しむた時、作家が有名か無名かは問題ではありません。結論を言えば勝手気儘に見て回ります。彫刻家が何十年も努力して創り上げた作品に対して大変失礼な観賞方法とは思っています。申し訳ないと思います。

しかしこの方法をとって観賞すると彫刻が見て楽しくなるのです。

そんな様な経験から言うと、箱根の彫刻の森と長野県美ケ原高原美術館は実にすばらしい展示方法をとっています。周りの自然の景観を巧みに生かして世界中の力作を集め、展示しています。周囲の新鮮な空気や、高原のさわやかな風が個々の彫刻の造形美を一層引き立てています。野外美術館の素晴らしさです。

今回、箱根の彫刻の森を見て、それを美ケ森高原美術館の展示と比較してみました。その結果、私なりの大きな発見をしました。間違っている発見かも知れませんが書いてみます。

誤解を恐れずに書けば箱根の展示はあまりにも大人しい美しさです。あまりにもオーソドックな作品が多いのです。景観の生かし方も和風の美意識を感じさせます。小堀遠州流の庭といえば言い過ぎですが、あまり日本人の調和の感覚に合わせ過ぎているような印象です。要するにオーソドクな印象が強いのです。

一方、美ケ原の方は彫刻が挑戦的な作品が多いのです。その上周囲の景観との組み合わせの仕方が斬新で、独創的なのです。展示方法の独創性も楽しむことが出来るのです。作品がオーソドックでないだけでなく、展示方法も新鮮な感じを与えています。

両方を比較すると芸術世界でよく出て来るアカデミズムという言葉の意味が少し理解出来たような気分になりました。箱根の方がアカデミズムを重視した展示で、美ケ原の方はアケデミズムへ対して挑戦しているのです。

以上は素人の感想ですから間違っていると思います。しかし彫刻を見て楽しむ私なりの方法を書いて見ました。皆様のご意見を頂ければ嬉しく思います。

下に、今回撮影した箱根彫刻の森美術館の写真を示し、それと比較しやすいように2008年の8月に撮影した美ケ原高原美術館の写真を再録致しました。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。(終り)

=========箱根彫刻の森美術館の写真========

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========美ケ原高原美術館の写真と感想文======

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はるかに遠い 天空の上の美術館です。標高は2004mです。

この彫刻群を楽しむため一番重要なことは天気予報を注意深くしらべ、寒い日、強風の日、猛暑の日は行かないようにします。私達が訪れたのはは霧が流れ、幻想的な日でした。高原の丘一面に遊歩道がひろがり世界中の彫刻家の作品が展示されています。すべて野外で鑑賞するために創られた大きな造形芸術作品です。

箱根の強羅にある彫刻の森の姉妹美術館です。でも感動のスケールの大きさは美ケ原の方が勝っています。

蛇足ながら筆者の体験談を一つ付け加えておきます。彫刻を楽しむためには根気良く数多くの作品を、何度も、何度も観ることと知りました。訓練すると作品の心が、作者の息づかいが感じられます。

そこで今回は小さなサムネイルにして作品群をご紹介しました。でもこれらはほんの一部に過ぎません。お楽しみ頂けたら嬉しく思います。(終わり)

撮影日時:2008年8月5日午後1時から2時、撮影者:Mrs.藤山

撮影場所:長野県上田市美ケ原高原美術館、交通案内、会館時間などは、

http://www.utsukushi-oam.jp に有ります。


日本にある玄奘三蔵法師の遺骨(1)埼玉県の岩槻の慈恩寺の訪問

2011年09月11日 | 日記・エッセイ・コラム

2年前の9月に玄奘三蔵法師の遺骨の一部が埼玉県の慈恩寺にあることを知りました。私は長い間、玄奘三蔵法師を尊敬していましたので、その遺骨については特別の想いがあります。いろいろ考察した結果その遺骨は偽物と思います。しかし玄奘三蔵法師の遺骨についての私の想いから数編の記事をこのブログに掲載いたしまた。それ以来、私はその記事の事を時々、懐かしく思い出しています。そして多くの仏教徒にとっても興味深い記事だったと信じています。ブログの古い記事はなかなか読めないと思いますのでに玄奘三蔵法師の遺骨に関する記事を3つだけ選んで再び掲載することに致しました。ご興味を持って頂ければ嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます、藤山杜人

日本の全仏教徒のために海を渡ってきた玄奘三蔵法師の遺骨にお参りして来ました

この遺骨の科学的考察は次回の記事に掲載しますが、題と以下の記事は宗教的記事としてお読み頂ければ嬉しく思います。

三蔵法師の頂骨が昭和17年に偶然に南京で発見されました。お骨の入っていた石棺に、「宋時代の天聖5年(1027年)に、演化大師が西安から南京へ持って来た」と刻んであったのです。その頂骨の一部が昭和19年に南京政府から日本へ寄贈されたのです。そして日本の仏教界の為に海を渡って来ました。

玄奘三蔵法師が遠くインドへ旅したように死後にも旅をして日本へやって来てくれたのです。その遺骨は現在、埼玉県の岩槻の慈恩寺が守っています。昨日、お参りして来ました。慈恩寺の第50世住職の大嶋見道師と第51世住職の大嶋見順師の2代の住職が心を配り慈恩寺から少し離れた場所に玄奘塔を建て、その根元に遺骨を奉安しました。この遺骨は慈恩寺だけの所有物ではなく、日本の全仏教徒の為に眠っているのです。その為に見順住職は日本仏教連合会と相談をしながら、お寺とは独立した場所に13重の塔を建て玄奘三蔵法師のお墓にしたのです。更にその後、遺骨は日本仏教連合会の決定にしたがって、台湾の玄奘寺と奈良の薬師寺へ分骨されました。

慈恩寺へ行けば第51世住職の大嶋見順師にお会い出来ると楽しみにして参上しましたが、残念にも2年前に亡くなっていました。奥様と第52世住職の方としばしお話をした後に玄奘三蔵法師のお墓へお参りに行きました。午前中は教会のミサへ行き、午後に家内と一緒に行きました。

13重の玄奘塔は広々した田畑の中にありました。参道には店も無く、人気の無い淋しい野原が夏の名残の日差しの中に輝いているだけです。

下の写真が玄奘塔の入口の門です。思わず合掌し、中国の西安から、遠方の埼玉県まではるばる来てくれた三蔵法師の温かい慈悲の心へ深い感謝の言葉をつぶやきました。

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下の写真は13重の塔で東武鉄道の根津社長が昭和22年に寄進した見事な石塔です。この塔の基部に高さ8cm、直径7cmの水晶の壺に入れた玄奘三蔵法師の遺骨が埋めてあります。

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下の写真は長安にある玄奘三蔵法師のインドへの旅姿の絵画を忠実に模した大きなブロンズ像です。

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下の写真は玄奘塔のある周囲の風景です。場所は、http://www.jionji.com/ に御座います。

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お参りして豊かな気持ちになりました。

しかし参詣人が誰も居ないのが淋しいです。多くの日本人は玄奘三蔵法師の遺骨がここに有ることを知らないのです。複雑な思いです。次の記事でその原因を少し考えて見ます。皆様はこの状態をどのようにお考えでしょうか?(続く)