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後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

今日の散歩・・・名残りの蓮の花、ヤブランの花、秋の空

2011年09月06日 | 写真

府中市の郷土の森公園の側の多摩川沿いの遊歩道を歩き、蓮池の回りを歩いて来ました。おおかたハチスになってしまったのに、まだほそぼそと咲いている蓮の花とヤブランの花の写真を撮ってきました。上を見上げると秋の雲が空にかかっていました。今日も何事もなく、流れ行く日々の一日になりました。

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私の歴史観は完全に間違っていました・・・老境にいたって初めて気がつきました!

2011年09月06日 | 日記・エッセイ・コラム

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上の写真は所沢市にある戦国時代の滝の城の跡地から新座市の方向を見降ろした風景です。しばらく見とれていました。すると、その展望台の下に横穴墳墓についての看板を見つけました。

その瞬間、私の日本の歴史に対する考え方が完全に間違っていることに気がつき、急に別の理解が生まれました。2つの理由で大きな間違いを犯していました。

(1)学校で習う日本の歴史は国家意識の高揚を目的としたので、大和朝廷から日本は立派な統一国家だったと教えます。地方の文化や武力集団については一切教えません。

天皇や貴族の華麗な生活ぶりは学校で習いますが、同じ頃の地方では上の写真のように有力者を手厚く埋葬していたのです。学校で習う歴史だけを信じていた自分の愚かさと狭い視野に愕然としました。

(2)もう一つの大きな間違いは日本に文字が普及した後の歴史だけを歴史と信じ、それ以前の日本人の生活の歴史を完全に無視していた事です。記録されている事がらだけを人間の歴史と考える「文献実証主義」のみを金科玉条として居たのです。文字だけを見て人間の実態を見ないようにして来たのです。自分の狭量さと冷血さぶりに落胆してしまいました。

文字が有ろうと無かろうと人間は喜びも悲しみも乗り越えて生きて来たのです。そのように考えると日本人には約10万年以上の長い、長い歴史があるのです。それを連続的に考えるのが正しい歴史観と信じるようになったのです。老人になってから信じるようになったのです。

一つの実例を書きます。

我々の先祖はつい2万年前まで象を殺して食べていたのです。それを調べるために数年前に野尻湖へ一泊の旅をしました。

石器時代の日本人は国中に棲息していたナウマンゾウを集団で襲って、殺して、食べていたのです。日本人がこの列島に移り住んでから、約2万年前までの長い間続けていたのです。

その歴史的な事実はナウマンゾウの解体現場に残った骨とともに、解体に使った石器が多数発掘されたので明らかになったのです。特に野尻湖は毎年春先に水が減少し湖底が現れ、ナウマンゾウの化石が多数出てくることで有名です。

発掘は専門家によってもなされましたが、1962年から一般参加者も交えて18回も発掘作業を行って来ました。発掘の成果は、「野尻湖ナウマンゾウ博物館」に分かり易く展示してあります。展示が良く出来ていて人間がナウマンゾウを食べていたことが確信できました。

「野尻湖ナウマンゾウ博物館」で検索するとこの博物館の詳細が出ています。

石器時代の日本人の作った石器は多数出土します。しかし何を食べて、どのような生活をしていたかという問題を明快に示してくれるこの博物館は貴重な存在です。訪問して見て、その問題の重要性に感動しました。

我々は昔の人々の生活の実態を知らな過ぎると思います。

貴方は奈良時代や平安時代の農民の家や生活の実態をご存知でしょうか?

それは縄文後期、弥生時代の農民の生活とあまり変わらないものでした。

このように歴史は突然変化するのではなく重層的に連続的に進んで行くものなのです。

地方の歴史が重要なのはバランスの取れた客観的な歴史理解の為に大変重要と信じています。これも老人になってから身につけた考え方です。

下に野尻湖ナウマンゾウの棲息していた頃の古い富士山と、山中湖と忍野湖の合体した宇津湖の写真を示します。

このような風景の中をナウマン象が闊歩していたのです。そして石器時代の日本人はその象を捕って食べて居たのです。

このように日本の風景を人々の生活ぶりと合わせて見ると非常に興味深く見ることが出来ます。老境の楽しみの一つになりました。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人

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