後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「正論かも」さんからの正論をご紹介致します

2011年09月26日 | 日記・エッセイ・コラム

藤山先生。今晩は。

 何故、日本人はアメリカやヨーロッパの真似ばっかりするんでしょう。

GDPが最良の事項だとは思わないのですが、世界2位を40年間保ってこれたことは、一つの成果だと思います。

アメリカは別格だとして、ある意味世界一なんですよね。

私の考えですと、顔の彫りの深さと、体格の比較にあると思われます。 これはなかなか超えることは出来ません。

だから日本人は容姿に必死になる。

そんな哀しい人が増えているのでしょうね。

結婚は、二人が一緒に居るのが当たり前、色んなことを共感できて二人で行動するのが一番楽しい。というのが最良だと思います。

顔の好みなど一部分にしかすぎないと思います。

司馬遼太郎氏は書かれています。
<アメリカには、抜きがたい悪癖がある。
他の何一つアメリカ的条件をもたない国々に、「アメリカのようになれ」と、本気で勧めてまわることである。イラク戦争もそうでした。>と。

 少々、長くなりましたのでこのあたりで失礼致します。

・・・・・投稿 正論かも | 2011/09/26 20:06 ・・・・・・

以上は、離婚が増える原因・・・お互いを選ぶ能力が無いことに気がついていない! へ対するコメントです。強く同感しましたのでブログの本文でご紹介いたしました。


秋です、俳句を楽しんで見ませんか?・・・入門会のご案内

2011年09月26日 | インポート

BYOOL という社会人倶楽部のマネージャーのhanaさんから以下のような俳句の入門会のご案内がありました。優雅なご婦人のhanaさんが世話人ですので会の雰囲気も良いことと思います。

この秋に俳句の作り方を身につけたいとお思いの方々のご参加を期待しているそうです。どうぞ奮ってお出掛けになさるようにお願い申し上げます。

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俳句にチャレンジ! ~3ヶ月で俳句がわかる~
移りゆく季節の中で、日々の生活の中で、ふと俳句を口ずさめたら、
自分をなぐさめることにも通じます。
仲間同士で和気あいあいと句を発表し合い、共有できる時間を大切に
していきます。

俳句を作るのは初めての方でも、わかりやすくご指導致しますので、
ぜひチャレンジなさってください!

●第1回(10月25日) 17音のリズムになじむ
●第2回(11月22日) 季語に思いを託す
●第3回(12月20日) 身のまわりのものを詠む、そして旅を詠む

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日 時: 毎月第4火曜日(12月第3) 10:30-12:00
      (10/25, 11/22, 12/20)

場 所: Cafe & Gallery 『Roomer ルーマー』(世田谷区祖師谷、詳しくはhttp://roomer.jp/Aboutus/index.html に御座います)

受講料: 3,500円/回

講 師: 津高里永子
     NHK学園俳句講座専任講師。俳句結社「小熊座」同人。
     俳人協会、現代俳句協会会員。都留文化大学で兼任講師として
     ピアノも教えている。句集に『地球の日』、共著に『観賞・女流俳句の世界』
     (角川書店)、『はじめての俳句』(NHK学園の教材)など。

備 考: 途中の月からの参加も可能です。(終り)

離婚が増える原因・・・お互いを選ぶ能力が無いことに気がついていない!

2011年09月26日 | 日記・エッセイ・コラム

離婚は当たり前の事になる傾向が蔓延しています。子供へ悲しい思いを与える事まで考えると出来る事なら離婚を回避するのが最善です。

離婚の増える原因は女性の経済力の向上が大きな理由と言われています。離婚を罪悪視する風潮が無くなった事も大きな原因の一つです。少し上手く行かないと簡単に別れるという考え方が広がっているのも原因です。

しかし、大きな原因は結婚を恋愛の延長と考えてしまう事です。

恋愛中とは相手のいろいろな側面が見えなくなっている状態なのです。そんな混乱状態で、お互いに自分に適切な相手を選ぼうとします。

しかし若い男女には一緒になった後の40年、50年の間に2人の生活がどのように変わるのか考えもしません。適切な相手としての条件が想像もつないのです。

話は飛びますが、1962年に初めてアメリカの大学へ留学したとき自分には選ぶ能力が無いことが分かって愕然とした経験がありました。難しい話ではありません。あちらのレストランに入った時、ウェイトレスがメニューを持って来て、「料理を選んで注文すれば、すぐに持って来ます」と微笑んでくれました。大版のメニューを見たら料理のリストが沢山印刷してあります。文字ばかりです。料理の写真なんか付いていません。これでは注文出来ません。面倒なのでハンバーグと言います、するとすかさず10種類以上のハンバーグのリストを指さしてどれにしますか?と聞きます。実は分からいからどれでも良いよと言ってしまいました。途端に彼女の顔が険悪になります。怖くなって一番上のハンバーグにします。すると少し機嫌が良くなって、それではソースの味はどれにするかと聞き返します。ソースの種類は5種類で味が違うので選べと言うのです。面倒になり2番目にします。するとハンjンバーグの焼き具合はどうするかと聞きます。任せるよと言ったらまた険悪な表情になります。こんなやりとりですっかり疲れ果て料理の味なんかすっかり忘れました。

しかしアメリカという社会は恐ろしい社会です。全ての物事は自分の判断で決定し、決定の失敗は自分で責任を取らされる社会なのです。それを拒否すると間扱いをされます。私はそれ以来全ての物事に直面しそうになる度に、まず考えます。「その事に関する多くの選択肢の中から一つだけ自分にとって最適のものを選ぶ能力を私は持っているか、否か」を。選び出す訓練を受けているか否かを考えます。自分にその能力が無ければその選択問題を回避します。つまり逃げるのです。アメリカ文化の始末の悪い事には選択肢が多ければ幸せと思う傾向がある事実です。険呑にも日本も最近はそうなっています。

レストランでの料理の選ぶ能力は簡単に身につきました。数回訓練すれば大体身につきます。

ところが結婚相手を選ぶ能力は若い者にはあまりありません。分かり易く言えば殆どありません。それは50年、同じ家内と一緒に暮らした実体験からの結論です。一緒に長い間暮らしてみて初めて発見する良い性格、悪い性格、家庭をマネージする能力、家事を手際よく済ませる技術、子供達を優しく、しかし厳しく育てる能力、近所付き合いや他人との円満な関係を維持する能力、そして知的な側面も輝いていることなどなど沢山の要素が複雑に関係しているのです。

そのような数多くの要素を、「恋愛中で動転している若者」に冷静に判定し、結婚相手を選ぶ能力などある筈が無いと私は思っています。

年齢のいった大人たちの見合い話をいくつか同時に進めるほうが比較出来るので無難なのです。それが厭なら、「結婚は神の奇蹟」と信じて、相手を選ばず承諾する人と結婚してまうのも良いと思います。

戦争中、写真結婚をして外地にいる男の所へ単身でお嫁に行った人々を思い返しています。案外それが良い結果を生むのかも知れないのです。

クダクダ書いたので、お疲れのことと存じます。そこで彩の国の入間公園の写真をご覧になってお休みください。

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離婚を禁止しているカトリックの古さと現代的意義について

2011年09月26日 | 日記・エッセイ・コラム

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中近東や欧米に広がっているイスラム教、ユダヤ教、キリスト教などの一神教では人々の生活を具体的に教える「戒律」が厳しく存在したいます。イスラム教の女性は全身を服やベールで覆い、顔は夫や家族以外に絶対に見せません。家の外にも出ないので日常の買い物は男性の仕事です。それほど厳しく戒律を守っている国々もあります。それに比べ日本は男女平等で女性も何でも出来ます。外で活躍する女性も多いのです。

しかし時々、イスラム圏の女性の方が幸多い人生を送っているのではないかと考え込むことが時々あります。時々そんな考えをしながら佛教やキリスト教のことを考えています。

例えばカトリックでは離婚や同性婚は禁止しています。しかし欧米のカトリック諸国でさえ離婚や同性婚が流行し、それは逆らえない現代の潮流になっています。

国家の法律で離婚や同性婚を認め、その仕方まで法律で決めている国が多くなってきました。

それなのに何故、ローマ法王は離婚や同性婚を禁止するのでしょうか?進歩的な人物がローマ法王になればこの戒律は削除されるのでしょうか?

答えは明快に、「否」です。離婚や同性婚はキリスト教の創造の原理に反するのです。もし進歩的な人がローマ法王になってそれを許すとしたならば、その前に彼自身の手で旧約聖書の創世記の1-2章と新約聖書のマタイ福音書の19章の1-12節とマルコ福音書の10章1-12節をキリスト教聖書から削除しなければいけません。

人間であるローマ法王が神に遣わされたイエス様の教えを勝手に変える事は許されない事です。そのように考えるのがカトリックの流儀なのです。カトリックは古い教えをそのまま信じているので旧教と呼ばれます。それに対してプロテスタン教会は聖書を一切変更しないで重要視する部分と軽く考える部分に分け、世の中の潮流に合わせて強調する考えを変化させてゆきます。ですから新教と呼ばれています。

時代の流れで世の中も変わり、人々の考え方も変わります。宗教は人それぞれです。どちらかが好きになれば信じれば良いのです。どちらもバカバカしいから信じないというのも個人の自由です。ですから私がカトリック信者だからといって離婚はすべきでないと主張したくはありません。

人生の複雑さや悲しみを知れば知る程、完全な結婚の難しさを毎日体験的に理解しています。欧米で離婚率が増大しているのも分かるような気もします。しかし離婚の禁止という教義は正しいような気分にもなります。

それが正しいとか厳守すべきだと強弁するつもりは全然ありません。ただ時々この教義を思い出して一人つぶやいています。

「離婚するくらいなら結婚をもっと慎重にした方が良いのでは?」「夫婦喧嘩をしても離婚だけは避けよう!」とか。

このように古い、古い教えでも現代的な意味があります。その建設的な効果は永遠にあると私は信じています。しかしその一方で離婚した方が幸せになれるケースもあることも理解しています。信仰と現実の間に揺れる儚い自分の一生もそろそろ終わりに近づいているのです。困ったものですね。

それはそれとして、今日も皆様の安寧をお祈り申し上げます。藤山杜人

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