いきなり英語で恐縮ですが、宗教訓練とはReligious training の直訳です。
アメリカで履歴書を作る時この項目があったので不思議に思い、アメリカ人に聞いてみました。簡単な事でした。子供の頃、何年間くらい教会へ行ったかとか日曜学校に行ったかを書くそうです。
佛教国の日本から行った私は困りました。そうしたら、神社やお寺へ何年間くらい行ったかを書けば良いと教えてくれました。勿論、その項目を書かないで、ブランクにしても良いそうです。就職の時、宗教訓練の経験のある方が有利なそうです。採用担当者が経験上、宗教訓練のある者の方が会社になじみ、勤勉に働くと思っているそうです。
それ以来、Religious trainingは人生のキーワードになりました。訓練を受けたか受けなかったが問題にされるのです。信仰心が有るのか、無いのかは問題外なのです。
私の宗教訓練は父の実家の曹洞宗のお寺で幼少の頃からお経を読んでいた事から始まります。そして神社へ行ったらお賽銭を上げて拝むことをします。春秋のお彼岸にはお墓参りもします。お葬式にも出て、退屈なお経も辛抱して静かに聞いて居ます。それは現在でも続けています。
それはそれとして、35歳の頃、カトリックの洗礼を気楽に受けました。
その時、若い頃アメリカで知った宗教訓練(Religious training)の重要性が釈然と理解出来たのです。
洗礼を受ける前にドイツでカトリックの教会に通ったのも宗教訓練です。カトリックとご縁が出来たので洗礼を受けたに過ぎません。しかし、幼少の頃から受けた宗教訓練があったので何も迷わずに自然に洗礼を受けることが出来たのです。
しかし世の中はいろいろ、人それぞれです。宗教を重要と思っている人も居れば、全く宗教に無関心な人も多いのです。それで良いのです。先日、イギリス人のJackさんんが宗教に一切関心が無く、死んで行った話を掲載しました。立派な人生でした。さわやかに人生でした。宗教に無関心でもそのような人生も送れるのです。彼には単に、宗教訓練を受けるチャンスが無かっただけです。
私は一日に三度の食事の前に家内と食前の祈りを唱えます。一日に三回イエス様の事を思い出します。それも宗教訓練です。今日は日曜日なので、これからミサへ出掛けます。それも宗教訓練です。私に信仰心があるのか無いのかお聞きにならないで下さい。それは問題外なのです。少なくともアメリカの履歴書では問題にされないのです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
藤山杜人
上の写真は今朝の10:00時から11:00時までのミサの様子です。
説教台に立っているのがディン主任司祭さまです。南ベトナムで神学生をしていたとき北ベトナムに占領され、共産政権になりました。その後、ボートピープルとして日本へ逃れ、東京大司教区で神父になり、それ以来30年以上にわたって東京地区のカトリック教会の主任司祭として活躍しています。
ベトナム出身の神父様は珍しいので、ご紹介いたしました。