東北人という人種があって、関西人とは違うとぼんやり感じている人々が多いと思います。東北人は愚直で垢抜けしていません。しかし任された仕事は文句も言わず黙々と努力して、終いには完成してしまいます。議論が下手で、話下手です。決して社交的ではありませんが心が温かく、一旦知り合いになると何時までも誠実に付き合ってくれます。これが東北人の特徴ではないでしょうか?
最近、私の大震災関連の記事へコメントを下さった方に星亮一さんという方が居ました。ネットで検索してみると福島県の新聞、福島民報社記者を長く務めた物書きさんでした。その方の公式HPを見たら自己紹介がありました。
彼は仙台の愛宕中学校に居たことがあります。私も仙台の愛宕中学校を卒業したので急に親しみを感じました。
そこで、以下に「星亮一」を検索すると出て来る公式HPhttp://www.mh-c.co.jp/にあるプロフィールの冒頭部分を転載致します。
この方は根っからの東北人のようです。そして福島を愛して数々の郷土の歴史書を出版しています。最近は大津波や原発事故の現場の取材をして生々しい単行本や報告記事を書いています。
彼のHPの中から、大津波を15mの防潮堤で奇蹟的に防いだ岩手県下閉伊郡譜代村の写真を、プロフィール欄の下に示します。是非、星亮一さんのHPを検索して大津波や原発事故の現場の最近の実情をご覧下さい。復興は遅々として進んでいないのです。
東方地方の復興は長い年月がかかります。忘れないで何時までも支援を続行したいと思います。
全国の人々が大震災で壊滅した東北地方を忘れないように祈ります。(終り)
====星亮一さんのプロフィール===========
宮城県仙台市生まれ。戦時中、仙台市立上杉山通小学校から宮城県丸森町小斎小学校に疎開、仙台に戻ったが、父親の転勤で仙台市立愛宕中学校から岩手県一関市千厩中学校に転校、岩手県立一関第一高校に学び→東北大学文学部国史学科→日本大学大学院総合社会情報研究科修士課程修了。
新聞記者を志望し、先祖のルーツである福島県の新聞、福島民報社記者になる。会津若松に転勤し、会津藩と出会う。
その後、福島中央テレビ報道制作局長を経て独立、歴史作家の道を歩む。東北史学会会員、日本文芸家協会会員、現在は福島県郡山市在住。
★『奥羽越列藩同盟』(中央公論社)」で第19回福島民報出版文化賞を受賞
★『新撰組と会津藩』(平凡社新書)『京都守護職』新撰組と会津藩に関するTV出演でNHKとうほくふるさと賞を受賞
===15mの防潮堤で助かった岩手県下閉伊郡譜代村の写真===
2年前の9月に玄奘三蔵法師の遺骨の一部が埼玉県の慈恩寺にあることを知りました。私は長い間、玄奘三蔵法師を尊敬していましたので、その遺骨については特別の想いがあります。いろいろ考察した結果その遺骨は偽物と思います。しかし玄奘三蔵法師の遺骨についての私の想いから数編の記事をこのブログに掲載いたしまた。それ以来、私はその記事の事を時々、懐かしく思い出しています。そして多くの仏教徒にとっても興味深い記事だったと信じています。ブログの古い記事はなかなか読めないと思いますのでに玄奘三蔵法師の遺骨に関する記事を3つだけ選んで再び掲載することに致しました。ご興味を持って頂ければ嬉しく思います。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます、藤山杜人
「学問的真実と宗教的信仰ー埼玉県にある玄奘三蔵法師の遺骨とキリスト教の数々の奇蹟」
左の写真の石塔の基部には高さ9cm直径8cmの水晶の壺が埋めてあり、玄奘三蔵法師の頂骨が入っているという。埼玉県にある慈恩寺が建てた塔である。しかし、遺骨が三蔵法師のものという学問的な証明がされていない。その可能性を完全に否定は出来ないが、本物でない可能性が大きい。まあ、これが常識的な理解です。学問的に証明されないので偽物と思う人々も多いに違いない。ところで分骨を願い出て、受け取った奈良の薬師寺のHPには三蔵法師の遺骨についての紹介が一切ない。学問的に証明されていなので慎重を期して紹介していないものと推察される。
話は変わりますが私はカトリックの信者です。従って新約聖書に書かれているイエス・キリストの行った奇蹟は全て信じています。学問的には不合理な現象ばかりです。この学問的に起きえないと証明される現象でも聖書に書いてある奇蹟は信じています。この体験から埼玉県にある三蔵法師の遺骨を本物と信じている仏教徒も多いに違いないと思います。自分で自分を賢いと思いこんでいる知識人が、「そんな物は偽物だから信じるのは止めなさい」と言いそうです。賢いということは他人へ賢げに忠告することではなく、何故、本物と信じている人々が居るのかを深く考えることです。他人を批難するのではなく理解する努力をすることです。それが人間の賢さの源と信じています。
先日、岩槻の慈恩寺を訪問して少し調べてみました。第50世住職の見道さんと51世の見順さんの2人の仏教徒としての情熱に圧倒されました。仏教連盟の幹部を説き伏せて遺骨を慈恩寺へ迎え、東武鉄道の社長にお願いをして13重の石塔を建てたのです。自分たちだけの所有物では無い、日本の仏教徒の宝としています。寺から1kmも離れた別の土地に建てたのです。この2代の住職様は遺骨を100%本物と信じていたのです。南京から埼玉県へ来る紆余曲折を読んでみると親子2代の三蔵法師へ対する敬慕と信仰の厚さに驚きます。それを知ると、私のカトリックの信仰も一層強くなります。
慈恩寺は824年に長安へ留学した慈覚大師が開山しました。三蔵法師の経典の翻訳事業に使った長安の大慈恩寺にちなんで慈恩寺という名前にしたと伝えられています。
左の写真は824年以来の歴代の住職のお墓です。勿論824年の墓石ではなく江戸時代に改修復した墓石のようです。
この写真の右のお墓が50代目住職の見道さんのお墓で、左のお墓が51代目住職の見順さんのお墓です。
この2人の生涯の大きな仕事は三蔵法師の遺骨を南京から埼玉県へ持ってきて、立派な玄奘塔を建てることでした。仏教徒として幸多い一生と思います。彼らにとっては学問よりも信仰が重要だったのです。そのような人生もあることを皆様へご紹介したいと思います。(完)