後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

世界の難民を考える(3)あなたの税金は難民支援の自衛隊出動にも使われています

2013年09月06日 | 日記・エッセイ・コラム

我が国の自衛隊の海外派遣は1992年に法律が出来、それ以来数多くの海外での活動がなされてきました。

国連のPKO派遣参加はすでに8回の活動を終了し、「後方支援・復興支援」は3回の出動をしました。

その他に以下のように「難民救援」が4回と「国際緊急援助隊」が11回も出動しているのです。

海外の難民支援は国連の難民高等弁務官事務所へ日本政府は多額の拠出金を毎年支払っています。

その他に外務省は難民の支援をしている数多くの日本のNGOへ補助金を毎年、支出しています。すべては皆様が収めた税金からです。

それだけではありません。自衛隊が難民の救援の為に海外出動を4回実施しているのです。勿論、これも税金です。この自衛隊の「難民救援活動」と、「国際緊急援助隊」のリストを以下に示します。

====以下の出典:「自衛隊海外派遣」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E8%A1%9B%E9%9A%8A%E6%B5%B7%E5%A4%96%E6%B4%BE%E9%81%A3======

難民救援

  1. ルワンダ紛争 - 自衛隊ルワンダ難民救援派遣  (200万人以上の難民の発生)
    1994年(平成6年)9月21日~12月28日。先遣隊23名、ルワンダ難民救援隊260名、空輸派遣隊118名をザイール共和国(現・コンゴ民主共和国)等へ派遣。武装は、拳銃・小銃・機関銃・82式指揮通信車のみ。
  2. 東ティモール紛争
    1999年(平成11年)11月~2000年(平成12年)2月。空輸部隊113名をインドネシア共和国等へ派遣。
  3. アフガニスタン紛争 (2001年-)
    2001年(平成13年)10月。空輸部隊138名。
  4. イラク戦争
    2003年(平成15年)3月~4月。空輸部隊56名。UNHCR のための救援物資の空輸。
    7月17日~8月12日。空輸部隊98名。C-130Hによるヨルダンのアンマンとイタリアのブリンディシとの間の空輸。

国際緊急援助隊

  1. 自衛隊ホンジュラス派遣
    ハリケーン
    1998年(平成10年)11月13日~12月9日。医療部隊80名、空輸部隊105名。
  2. トルコ国際緊急援助活動に必要な物資輸送
    トルコ北西部地震
    1999年(平成11年)9月23日~11月22日。輸送艦「おおすみ」、掃海母艦「ぶんご」、補給艦「ときわ」、人員426名をイスタンブルに派遣。
  3. 自衛隊インド派遣
    インド西部地震
    2001年(平成13年)2月5日~11日。物資支援部隊16名、空輸部隊78名。
  4. 自衛隊イラン派遣
    地震
    2003年(平成15年)12月30日~2004年(平成16年)1月6日。空輸部隊31名。
  5. 自衛隊タイ派遣
    スマトラ島沖地震 (2004年)
    2004年(平成16年)12月28日~2005年(平成17年)1月1日。護衛艦「きりしま」、「たかなみ」、補給艦「はまな」、人員約600名をプーケット県の周辺海域に派遣。同部隊は、自衛隊インド洋派遣を引き継ぎ、帰国途中の部隊であった。
  6. 自衛隊インドネシア派遣 (2005年)
    スマトラ島沖地震 (2004年)
    2005年(平成17年)1月12日~3月22日。輸送艦「くにさき」、護衛艦「くらま」、補給艦「ときわ」、人員約640名をナングロ・アチェ・ダルサラーム州の周辺に派遣し、航空端末輸送により物資約1.3t、人員128名、海上輸送により重機等34両を輸送。
  7. カムチャツカ州国際緊急援助活動
    海難事故
    2005年(平成17年)8月5日~8月7日15時。ロシア・カムチャツカ半島周辺海域におけるロシア海軍の潜水艇(AS28型潜水艇、7人乗組)の救難のため、艦艇4隻、人員約370名を派遣。日本隊の到着前にイギリス海軍などによって救助されたことから、帰国。
  8. 自衛隊パキスタン派遣
    パキスタン地震
    2005年(平成17年)10月11日長官指示、10月12日(先遣隊20名出発)~12月1日全員帰国。陸上自衛隊北部方面隊第5旅団を基幹に、パキスタン国際緊急航空援助隊(当初UH-1を3機、後にUH-1を3機増援し、合計6機)を編成し、援助活動に関する空輸。航空自衛隊は、パキスタン国際緊急援助空輸隊等を編成し、C-130H4機、日本国政府専用機2機を使い、陸上自衛隊の国際緊急援助隊を空輸。
  9. 自衛隊インドネシア派遣 (2006年)
    ジャワ島中部地震→ ジャワ島南西沖地震
    2006年(平成18年)5月31日長官命令、6月1日(先遣隊20名弱出発)~6月13日終結命令、6月21日全員帰国。陸上自衛隊は、医療部隊50名・追加100名でジョグジャカルタ近郊住民の治療。航空自衛隊は、C-130H×2機(予備機としてC-130H×1、U-4×1)による空輸。
  10. 自衛隊ハイチ国際緊急援助活動
    ハイチ地震 (2010年)
    2010年(平成22年)1月17日に輸送活動を開始、2月13日に医療活動を終了。
  11. 自衛隊パキスタン派遣 (2010年)
    洪水
    2010年(平成22年)8月19日大臣指示。8月19日に先遣隊21名が出発。8月31日から現地におけるヘリコプターによる輸送任務を開始し、10月10日に輸送任務終了。陸上自衛隊第4師団、中央即応集団隷下の第1ヘリコプター団の部隊から成るパキスタン国際緊急航空援助隊(UH-1を3機、CH-47を3機、合計6機)を編成。任務に使用する小型ヘリコプターと備品を現地まで輸送する為に、航空自衛隊のC-130を使用。また大型ヘリコプターについては、2機は海上自衛隊の輸送艦しもきたで海上輸送、1機はチャーターしたアントノフAn-124により空輸された。10月26日に派遣隊員の全員の帰国が完了した。

=====参考資料:「自衛隊の海外派遣に関する法律」============

1992年(平成4年)6月 - 国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律(国際平和協力法・PKO 協力法)成立。国際緊急援助隊の派遣に関する法律改正。

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そこで、例として、200万人以上の難民が発生した ルワンダ紛争 - 自衛隊ルワンダ難民救援派遣 の様子を示す写真を以下にお送り致します。

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・ザイールのゴマ市郊外に広がる難民キャンプ
標高1500m程度の地域にあるため、アフリカといえども寒々としていました。テントの広がる区域は樹木が伐採されています。樹木は、テントの骨組みに使われたり、炊事や暖をとるための燃料として使われるため、森が侵食されていくことが懸念されていました。建設現場などで使われているいわゆる「ブルーシート」が使われており、中には「UNHCR」と記されたものがありました。

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・日本の自衛隊による難民救援活動
1994年10月2日、ケニヤのナイロビ空港からゴマ空港へ陸上自衛隊の第一陣に同行しました。ナイロビ空港には、愛知県小牧を基地とする航空自衛隊のC-130H輸送機3機が派遣されていました。ナイロビ空港では雲が低く薄暗い雰囲気で緊張感も高まっていました。

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キブ湖畔の浄水基地
      1日1200立方メートルの水を難民やゴマ市民に供給していました。「UN」と大書された12トントレーラーはフレキシブルなタンクを荷台に積んでいました。上の写真には自衛隊の給水車も写っています。

200万人以上のルワンダ難民は何故起きたか?

ルワンダ難民というのは、1994年4月頃から大量に発生したフツ族を中心とする難民を指しています。
しかし、ルワンダでは1962年に独立してからというもの、国内で国民が安寧として暮らしていける状態にはなっていないようです。
たとえば、1962年の独立直後から少数派のツチ族が難民として周辺国に流出していました。
      独立以前の植民地時代には、宗主国のドイツやベルギーは少数派ツチ族を重用して植民地支配のために利用していたといわれています。
      独立以降は、人口で多数を占めるフツ族が中心となり、報復を恐れたツチ族が難民となって周辺国に流出する傾向が続いていました。
1990年9月、ウガンダ共和国で難民生活を送っていたツチ族が中心となって組織したルワンダ愛国戦線がルワンダに進攻しました。
ツチ族(ルワンダ愛国戦線)のこの進攻で、フツ族は国内の少数派ツチ族と融和派フツ族を大量(百万人ともいわれる)に虐殺しました。
そして、フツ族は進攻してきたツチ族の報復を恐れ、難民となって周辺国になだれ込みました。
1994年4月から7月までに200万人を超える難民が周辺国に流出し、特にザイール共和国のゴマ市には100万人を超える難民がいました。
フツ族ツチ族と虐待する側とされる側が度々入れ替わっている。今回の虐殺の悲惨さは、ラジオというメディアを通じて一般人の恐怖心をあおったことで、国中が集団催眠にかかったように一般人による無差別の殺戮が行われたことである。そして、その殺戮を行った側は報復に怯えて、国外に逃げ出していったということである。恐怖が連鎖する無限地獄が現出したとしか言いようがない。

以上の、ルワンダ難民の写真と説明文はpoco(ぽこ)さんの「フォトとメッセージ」より頂きました。URLは、http://hisappi.com/kaigai/rwanda/indexrwanda.html です。

転載をさせて頂いたことに深く感謝します。(続く)


映画、「少年H」・・・戦争の恐ろしさを市井の人々の日常から描いた名作

2013年09月06日 | 日記・エッセイ・コラム

この映画の中で誰も戦争反対などと大声で言いません。誰も、戦争はいやですねなどと言いません。なぜ大東亜戦争が起きたか説明もありません。

戦争が突然、神戸で平穏に暮らしていた妹尾一家を深い悲しみの淵へ落とし込んだのです。

洋服の仕立てで暮らしていた主人と妻と少年Hと妹の4人家族に起きた悲しいエピソードを水彩画を描くように静かにつづった作品です。

エピソード1:

少年H(肇)の父は神戸の外人住宅地へ出入りし、洋服の仕立てをしていました。少年Hはよく父と一緒に行って、フランス人やドイツ人が父を大切にしている様子を見ていました。戦争が始まるとフランス人は繁盛していたレストランをたたんで帰国します。父と別れを惜しみながら、記念に洋服の仕立てを注文します。悲しげな別離です。

エピソード2:

近所のうどん屋の青年が少年Hを可愛がります。夜にうどん屋の2階の自分の小部屋に少年Hを招き、コーヒーを淹れ、レコードを聞かせてくれます。レコードは藤原義江のオペラ、「女心の歌」です。手回しのレコードが”風の中の女心・・・”と悲しげに唄っています。

ある夜、多数の警官が、このうどん屋を襲い、何時も、風の中の女心・・・と唄っていたお兄ちゃんを逮捕してしまうのです。お兄ちゃんの部屋にいた友人も、そして、うどん屋の親父さんも逮捕されました。アカ(共産主義者)だったと言うのです。

H少年は彼らと2度と会えませんでした。

エピソード3:

少年Hの家に洋服の仕立てを頼みに来ていた青年がいました。

少年Hは「男ねえちゃん」と呼び慕っていたお兄ちゃんです。昔、女形の役者をしていましたが当時は町の映画館の映写技師をしていました。少年Hに映画をタダで見せてあげると約束をしていました。

しかし赤紙が来て、その約束を果たすこともなく老いた母を独り残して出征して行きます。

しばらくしたある日の夜に憲兵が2人、少年Hの家を荒々しく訪ねます。出征した筈の「男ねえちゃん」が出征していないと大声で怒ります。

その何日も後に少年Hが変わり果てた「男ねえちゃん」の遺体を偶然発見するのです。古い工場の廃墟の梁にぶら下がっている姿です。

妹尾河童の原作ではこのぶら下がっている状況をもっと凄惨に書いていますが、映画ではボンヤリした姿だけで助かりました。

エピソード4:

妹尾一家はアメリカから来た女性の宣教師の勧めでクリスチャンになっていました。毎週、日曜日の礼拝に一家で出席して祈っていたのです。

その宣教師のおばさんが戦争が起きたのでニューヨークに帰ります。そして

ニューヨークの摩天楼の絵葉書を少年Hへ送ってくれました。

アメリカ人と手紙のやり取りをしている。父は外人居留地の外人と仲良くしている。クリスチャン一家です。こんなことが重なって妹尾一家はスパイ一家だという噂が広まります。

ある日突然、特高が来て、父を連行してしまいます。ものすごい拷問です。仕立て屋と知っている特高が父の手の指を拷問にかけ仕立て仕事が出来ないように痛めつけます。しかし父は耐え抜きます。私は洋服の仕立てをしているだけです。スパイではありませんと、耐え抜きます。少年Hだけが父が特高の拷問に耐え抜いたことを知っています。しかし母や妹には一言も言いませんでした。

エピソード5:

そして終戦の直前に神戸の大空襲です。父は消防隊の一員として出かけます。

妹はすでに疎開していたので、母と少年Hが2人だけで降り注ぐ焼夷弾の火に水をかけ消火につとめます。しかしもうだめです。火の勢いが凄すぎます。

そこで少年Hと母が渾身の力を振り絞って、父の大切に使っていたミシンを路上に運び出したのです。

戦争が終わりました。父が焼け焦げたミシンを丁寧に修理しました。やがて仕立て屋をまた始めたのです。少年Hも家から離れ、独立して、ペンキ屋に就職します。元来、絵画の上手だった少年Hの楽しげな仕事ぶりの光景で映画がおわります。

実は悲しいエピソードはもっとあります。県立の神戸第二中学校に進学した少年Hと2人の配属将校との確執や、終戦後の彼らのひどい変身ぶりも描かれています。

第二次大戦では300万人の日本人が死にました。妹尾一家は皆生き延びたのです。幸運な一家です。

しかしこの映画は、この幸運な一家の戦争中の悲しいエピソードを描いて、戦争の恐ろしさを表現したのです。監督をはじめキャストの映画人としての集中力が結集している傑作です。

昔、「二十四の瞳」という映画もありました。なにか共通している点もありますが、違うのです。是非、一度映画館へ足を運んで下さい。

戦前生まれの私にとっては、再現された昔の神戸の町を走る自動車や市街電車の風景が流れるだけで心が切なくなります。当時の私の悲しみの数々が胸にせまり、さびしげな映画音楽を聞いただけでジーンとなります。

それはそれとして、

 今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

写真の出典は全て、http://eiga.com/movie/57981/です。

「少年H」の画像9

「少年H」の画像3

「少年H」の画像10

「少年H」の画像2

「少年H」の画像1

====あらすじ======================

作家・妹尾河童の自伝的小説で、上下巻あわせて340万部を突破する

ベストセラーを、「ホタル」「鉄道員(ぽっぽや)」の降旗康男監督が映画化。

太平洋戦争下という時代に翻弄されながらも、勇気や信念を貫いて生きた

家族の激動の20年間を描き、実生活でも夫婦の水谷豊と伊藤蘭が夫婦役で

映画初共演を果たした。昭和初期の神戸。名前のイニシャルから「H(エッチ)」と

呼ばれる少年・肇は、好奇心と正義感が強く、厳しい軍事統制下で誰もが

口をつぐむ中でも、おかしなことには疑問を呈していく。Hはリベラルな父と

博愛精神に溢れる母に見守られ成長し、やがて戦争が終わり15歳になると

独り立ちを決意する。

監督;

キャスト:   降旗康男

  • 水谷豊     妹尾盛夫
  • 伊藤蘭     妹尾敏子
  • 吉岡竜輝   妹尾薫(H)
  • 花田優里音  妹尾好子
  • 小栗旬    どん屋の兄ちゃん
  • 早乙女太一  オトコ姉ちゃん
  • 原田泰造    田森教官
  • 佐々木蔵之介 久門教官
  • 國村隼     吉村さん
  • 岸部一徳    柴田さん