我が国の自衛隊の海外派遣は1992年に法律が出来、それ以来数多くの海外での活動がなされてきました。
国連のPKO派遣参加はすでに8回の活動を終了し、「後方支援・復興支援」は3回の出動をしました。
その他に以下のように「難民救援」が4回と「国際緊急援助隊」が11回も出動しているのです。
海外の難民支援は国連の難民高等弁務官事務所へ日本政府は多額の拠出金を毎年支払っています。
その他に外務省は難民の支援をしている数多くの日本のNGOへ補助金を毎年、支出しています。すべては皆様が収めた税金からです。
それだけではありません。自衛隊が難民の救援の為に海外出動を4回実施しているのです。勿論、これも税金です。この自衛隊の「難民救援活動」と、「国際緊急援助隊」のリストを以下に示します。
====以下の出典:「自衛隊海外派遣」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E8%A1%9B%E9%9A%8A%E6%B5%B7%E5%A4%96%E6%B4%BE%E9%81%A3======
難民救援
- ルワンダ紛争 - 自衛隊ルワンダ難民救援派遣 (200万人以上の難民の発生)
- 1994年(平成6年)9月21日~12月28日。先遣隊23名、ルワンダ難民救援隊260名、空輸派遣隊118名をザイール共和国(現・コンゴ民主共和国)等へ派遣。武装は、拳銃・小銃・機関銃・82式指揮通信車のみ。
- 東ティモール紛争
- 1999年(平成11年)11月~2000年(平成12年)2月。空輸部隊113名をインドネシア共和国等へ派遣。
- アフガニスタン紛争 (2001年-)
- 2001年(平成13年)10月。空輸部隊138名。
- イラク戦争
- 2003年(平成15年)3月~4月。空輸部隊56名。UNHCR のための救援物資の空輸。
- 7月17日~8月12日。空輸部隊98名。C-130Hによるヨルダンのアンマンとイタリアのブリンディシとの間の空輸。
国際緊急援助隊
- 自衛隊ホンジュラス派遣
- ハリケーン
- 1998年(平成10年)11月13日~12月9日。医療部隊80名、空輸部隊105名。
- トルコ国際緊急援助活動に必要な物資輸送
- トルコ北西部地震
- 1999年(平成11年)9月23日~11月22日。輸送艦「おおすみ」、掃海母艦「ぶんご」、補給艦「ときわ」、人員426名をイスタンブルに派遣。
- 自衛隊インド派遣
- インド西部地震
- 2001年(平成13年)2月5日~11日。物資支援部隊16名、空輸部隊78名。
- 自衛隊イラン派遣
- 地震
- 2003年(平成15年)12月30日~2004年(平成16年)1月6日。空輸部隊31名。
- 自衛隊タイ派遣
- スマトラ島沖地震 (2004年)
- 2004年(平成16年)12月28日~2005年(平成17年)1月1日。護衛艦「きりしま」、「たかなみ」、補給艦「はまな」、人員約600名をプーケット県の周辺海域に派遣。同部隊は、自衛隊インド洋派遣を引き継ぎ、帰国途中の部隊であった。
- 自衛隊インドネシア派遣 (2005年)
- スマトラ島沖地震 (2004年)
- 2005年(平成17年)1月12日~3月22日。輸送艦「くにさき」、護衛艦「くらま」、補給艦「ときわ」、人員約640名をナングロ・アチェ・ダルサラーム州の周辺に派遣し、航空端末輸送により物資約1.3t、人員128名、海上輸送により重機等34両を輸送。
- カムチャツカ州国際緊急援助活動
- 海難事故
- 2005年(平成17年)8月5日~8月7日15時。ロシア・カムチャツカ半島周辺海域におけるロシア海軍の潜水艇(AS28型潜水艇、7人乗組)の救難のため、艦艇4隻、人員約370名を派遣。日本隊の到着前にイギリス海軍などによって救助されたことから、帰国。
- 自衛隊パキスタン派遣
- パキスタン地震
- 2005年(平成17年)10月11日長官指示、10月12日(先遣隊20名出発)~12月1日全員帰国。陸上自衛隊北部方面隊第5旅団を基幹に、パキスタン国際緊急航空援助隊(当初UH-1を3機、後にUH-1を3機増援し、合計6機)を編成し、援助活動に関する空輸。航空自衛隊は、パキスタン国際緊急援助空輸隊等を編成し、C-130H4機、日本国政府専用機2機を使い、陸上自衛隊の国際緊急援助隊を空輸。
- 自衛隊インドネシア派遣 (2006年)
- ジャワ島中部地震→ ジャワ島南西沖地震
- 2006年(平成18年)5月31日長官命令、6月1日(先遣隊20名弱出発)~6月13日終結命令、6月21日全員帰国。陸上自衛隊は、医療部隊50名・追加100名でジョグジャカルタ近郊住民の治療。航空自衛隊は、C-130H×2機(予備機としてC-130H×1、U-4×1)による空輸。
- 自衛隊ハイチ国際緊急援助活動
- ハイチ地震 (2010年)
- 2010年(平成22年)1月17日に輸送活動を開始、2月13日に医療活動を終了。
- 自衛隊パキスタン派遣 (2010年)
- 洪水
- 2010年(平成22年)8月19日大臣指示。8月19日に先遣隊21名が出発。8月31日から現地におけるヘリコプターによる輸送任務を開始し、10月10日に輸送任務終了。陸上自衛隊第4師団、中央即応集団隷下の第1ヘリコプター団の部隊から成るパキスタン国際緊急航空援助隊(UH-1を3機、CH-47を3機、合計6機)を編成。任務に使用する小型ヘリコプターと備品を現地まで輸送する為に、航空自衛隊のC-130を使用。また大型ヘリコプターについては、2機は海上自衛隊の輸送艦しもきたで海上輸送、1機はチャーターしたアントノフAn-124により空輸された。10月26日に派遣隊員の全員の帰国が完了した。
=====参考資料:「自衛隊の海外派遣に関する法律」============
1992年(平成4年)6月 - 国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律(国際平和協力法・PKO 協力法)成立。国際緊急援助隊の派遣に関する法律改正。
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そこで、例として、200万人以上の難民が発生した ルワンダ紛争 - 自衛隊ルワンダ難民救援派遣 の様子を示す写真を以下にお送り致します。
・ザイールのゴマ市郊外に広がる難民キャンプ
標高1500m程度の地域にあるため、アフリカといえども寒々としていました。テントの広がる区域は樹木が伐採されています。樹木は、テントの骨組みに使われたり、炊事や暖をとるための燃料として使われるため、森が侵食されていくことが懸念されていました。建設現場などで使われているいわゆる「ブルーシート」が使われており、中には「UNHCR」と記されたものがありました。
・日本の自衛隊による難民救援活動
1994年10月2日、ケニヤのナイロビ空港からゴマ空港へ陸上自衛隊の第一陣に同行しました。ナイロビ空港には、愛知県小牧を基地とする航空自衛隊のC-130H輸送機3機が派遣されていました。ナイロビ空港では雲が低く薄暗い雰囲気で緊張感も高まっていました。
キブ湖畔の浄水基地
1日1200立方メートルの水を難民やゴマ市民に供給していました。「UN」と大書された12トントレーラーはフレキシブルなタンクを荷台に積んでいました。上の写真には自衛隊の給水車も写っています。
200万人以上のルワンダ難民は何故起きたか?
ルワンダ難民というのは、1994年4月頃から大量に発生したフツ族を中心とする難民を指しています。
しかし、ルワンダでは1962年に独立してからというもの、国内で国民が安寧として暮らしていける状態にはなっていないようです。
たとえば、1962年の独立直後から少数派のツチ族が難民として周辺国に流出していました。
独立以前の植民地時代には、宗主国のドイツやベルギーは少数派ツチ族を重用して植民地支配のために利用していたといわれています。
独立以降は、人口で多数を占めるフツ族が中心となり、報復を恐れたツチ族が難民となって周辺国に流出する傾向が続いていました。
1990年9月、ウガンダ共和国で難民生活を送っていたツチ族が中心となって組織したルワンダ愛国戦線がルワンダに進攻しました。
ツチ族(ルワンダ愛国戦線)のこの進攻で、フツ族は国内の少数派ツチ族と融和派フツ族を大量(百万人ともいわれる)に虐殺しました。
そして、フツ族は進攻してきたツチ族の報復を恐れ、難民となって周辺国になだれ込みました。
1994年4月から7月までに200万人を超える難民が周辺国に流出し、特にザイール共和国のゴマ市には100万人を超える難民がいました。
フツ族ツチ族と虐待する側とされる側が度々入れ替わっている。今回の虐殺の悲惨さは、ラジオというメディアを通じて一般人の恐怖心をあおったことで、国中が集団催眠にかかったように一般人による無差別の殺戮が行われたことである。そして、その殺戮を行った側は報復に怯えて、国外に逃げ出していったということである。恐怖が連鎖する無限地獄が現出したとしか言いようがない。
以上の、ルワンダ難民の写真と説明文はpoco(ぽこ)さんの「フォトとメッセージ」より頂きました。URLは、http://hisappi.com/kaigai/rwanda/indexrwanda.html です。
転載をさせて頂いたことに深く感謝します。(続く)