宗教は本来、人間を幸福にするのが目的です。しかしその使い方を間違うと逆に不幸になってしまいます。とても危険なものです。
日本人の多くが無宗教なのは、さわらぬ神にたたり無しと宗教に近づかないためのようです。
私はカトリック信者になって40年、仏教愛好家になって50年になり、その長い間、宗教と人間の関係を見て来ました。丁度、自然現象を観察するように見てきました。
その結果、宗教によって幸せになる方法と、不幸になる方法の違いが少し明快に理解できたような気がします。以下にその違いを個条書きにします。
(1)まずどんな宗教にも優劣が無いと信じれば幸福になれます。信じられなければ不幸になります。
自分の信じている宗教だけが本物で、他は全て邪教だと思えば不幸になります。全ての宗教は本物だと考えると幸せになれます。
(2)自分の考えが正しいと主張すると不幸になります。
人間には何が正義か判断出来ないと思えば幸せになれます。
神だけが、そしてお釈迦様だけが正義を見分ける能力があると考えれば幸せになります。自分が正義を主張すれば不幸になります。
(3)神様や仏像に「自分を金持ちにして下さい」と祈れば不幸になります。「私は貧乏でも良いですが、毎日の食べ物だけは与えて下さい」と祈れば幸せになります。
「良い人と結婚できますように」と祈れば幸せになれます。「あの人は悪い人だから天罰を下してください」と祈れば不幸になります。
(4)宗教組織へ無理をして多額の献金をすると不幸になります。無理でない金額を少しずつ献金すると幸せになります。
人間は無理して多額の献金をするとどうしても見返りを内心期待するものです。神様は沈黙するだけです。不幸な気分になります。
(5)牧師や神父や僧侶を尊敬し過ぎると不幸になります。道で会ったら自分が道をあける位のエチケットを示せばそれで良いのです。彼らと個人的に付き合わなくても良いと考えると幸せになります。
しかし彼らの信仰の深さを見逃さないようにすると幸せになります。
逆に牧師や神父や僧侶を軽蔑すれば不幸になります。
(6)無宗教の人を軽蔑したりすると不幸になります。人間として尊敬すれば幸せになれます。人間を差別すると不幸になります。逆は幸せへの道です。
(7)宗派の規則や教理に捉われてしまうと不幸になります。教条的になると不幸になるのです。イエス様やお釈迦様の言ったことだけが真理なのです。
つまり規則や教理は後の人々が作ったものなので常に正しいとは限りません。
結論は、上の写真に示しました。
砂浜をゆったり洗う海のように、大らかな気分で宗教と付き合えば幸福になれます。狂信や教条主義は不幸への道です。
正しい宗教も邪教もありません。ましてや正義の戦争なんてある筈も無いのです。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)