後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

土浦市の田中宣之様からのコメントと「75歳で神学校に入学して」というビデオをご紹介します

2013年09月16日 | 日記・エッセイ・コラム

後藤様
お久しぶりです。土浦港の田中です。昨年まではVICTORYに乗っておりましたが、現在は「さくら(YAMAHA24)」になりました。
4月に早期退職し、現在東京バプテスト神学校(夜間)に通っております。講師の教会のホームページに「75歳で神学校に入学して」という証しのビデオが公開されており、大きな励ましを受けました。後藤さんにもお知らせしたいと思いついた次第です。よろしければご覧ください。篠崎キリスト教会のホームページです。(http://shinozaki-baptist.jp/modules/video/movie.php?id=132

それでは、どうぞお元気で。
土浦市 田中宣之

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土浦市の田中宣之様

久ぶりにお便りを頂きまして大変嬉しく思いました。
コメント有難う御座いました。

私のヨットを売ろうとした折りに、いろいろご相談乗って頂き有難う御座いました。ご厚情は忘れません。あれから早いもので、もう2年も経ってしまいましたね。

その時、田中さんがバプテスト派のクリスチャンとお聞きし、バプテスト派のことを少し調べて私のブログで紹介などしました。

それにしても早期退職をなさって勇気ある決断をし、東京バプテスト神学校に入学なさったことに大いなる敬意を表します。

さっそく「75歳で神学校に入学して」という証しのビデオを拝聴しました。(http://shinozaki-baptist.jp/modules/video/movie.php?id=132

私の 感想をこのコメントのコピーと共にブログの本文の記事として掲載いたします。

イエス様のお慈しみが田中宣之様の上に豊かに注がれるように祈っています。
有難う御座いました。 
敬具、後藤和弘

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「75歳で神学校に入学して」というビデオの感想:

最近は早期退職して自分の趣味を楽しむ方々が多くなりました。体がまだ元気なうち世界一周の旅を楽しんだり、ヨーロッパの国々へ美食を求めて旅をする人もいます。

しかしこのビデオの講師の方は全然違う第二の人生を歩んでいるのです。

真面目に会社を勤めあげ60歳で退職します。真面目なクリスチャンであったので教会の牧師さんが神学校へ入学することを薦めてくれたのです。

しかしこの方は小学校しか卒業していないのです。そこで夜間中学校を卒業し、高校も終えました。そして仏教系の大学も卒業したのです。

そして75歳の時、キリスト教の神学校に入学したのです。

それは感動的な第二の人生の選び方です。

キリストの近づくために勇気を持って神学校に入ったのです。その燃えるような信仰にまず圧倒されます。人生には歳を取りすぎたということは絶対に無いと身をもって教えてくれているのです。何事も遅すぎたということは絶対に無いのです。

もう一つの感想は、「学歴なんて無くても良い」などと気楽に言ってはけないという教えです。学歴が無いくても良いと気楽に言う人は大抵立派な大学を出ています。

小学校しか出てない人間が、この日本でどんなに差別され、踏み付けにされ、悲しい思いをしているかを深く考えるべきです。学歴の無い人に向って、「学歴なんて無くても良い」などと絶対に言ってはいけません。言う人は勇気づけるために言っているつもりですが、言われた人は悲しい思い出をもう一度思い出すだけです。

「75歳で神学校に入学して」というビデオの感想でした。

こころある方々は是非このビデオをご覧になって下さい。

田中宣之さん有難う御座いました。

下に田中さんがヨットを係留している土浦港の風景写真を示します。

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701年の大宝律令によって大和地方の豪族達から天皇制が生まれた

2013年09月16日 | 日記・エッセイ・コラム

西暦300年から700年までの古墳時代には全国に有力な豪族が跋扈し、巨大な古墳を作りました。(下の参考文献にあります。)

 豪族達が武力闘争でより広域の支配を目指すのは自然の勢いでした。そのような時代にあって大和地方の豪族は連合して強大なヤマト王権を確立し、次第にその支配を近畿地方の外側まで広げていったのです。

 下の図は古墳時代に大和地方に居た豪族達とその領地の場所を示しています。

下のURLをクリックしてその図面をご覧ください。

http://www.hamajima.co.jp/rekishi/shiryo-katsuyo/12.pdf

この図を見ると、大和の三輪山の周囲に大王氏、物部氏、蘇我氏、大伴氏、平群氏、土器氏、羽田氏、巨勢氏など10人の豪族の名前がそれぞれの領地を持っている様子が判ります。

これらの豪族たちの抗争と連合の過程の結果、一番の有力者になったの者が後の天皇になったのです。その豪族の名前は不明ですが、大王と主張する人もいます。

その後、天皇の権力が確立すると、その権威を神聖なものにするために「天皇は豪族の一人だった」という事実を消して、「万世一系の天皇」と言い出したのです。

当然、神武天皇は架空の存在です。我々戦前生まれの日本人は、その紀元2300年間の歴代の天皇の名前を暗記させられたのですから驚きです。

それでは天皇という尊称が明確に言われ出したのは何時でしょうか?

天武天皇の命で701年に完成した「大宝律令」に天皇の尊称が初めて明記され、その天皇を中心にした政治組織が完成したのです。この701年は藤原京の時代でした。次の天皇は有名な天武天皇の妻であった持統天皇です。持統天皇は傑出した女性の天皇でした。

天武天皇は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%AE%A4%E3%81%AE%E7%B3%BB%E5%9B%B3%E4%B8%80%E8%A6%A7 によると40代目の天皇になっています。

天武天皇の前に39人の天皇が居たということは到底信じられません。

それは天皇を神聖化するために後から付けた架空の「おくり名」だったのです。

ですから私は天武天皇とその妻の持統天皇以後の天皇様は「天皇」と呼びますが、それ以前は有力豪族と呼んでいます。

そしてその有力豪族は出雲にも九州の日向にも居ましたから、誰が天皇というのか特定することが出来ません。

勿論、私は聖徳太子は実在していたと信じています。しかし聖徳太子の時代には天皇という称号が無く、「太子」だったのです。

なお天皇の号は南北朝の頃からあまり強力な政権を暗示することは無くなりましたが、明治維新で復活したのです。

大和地方にいた天武天皇とその妻の持統天皇の全国統一の夢は、741年の聖武天皇の国分寺建立の命令と、律令国家の国衙を全国に設置したころに実現したと考えるのが良いと思います。それは710年に平城京へ遷都した後31年後の事でした。

地方には古墳時代の豪族がそのまま残っていて、表面上だけは大和の天皇に帰順したのです。この頃の甲斐l国の実態は下の参考文献にあります。

しかし大和朝廷はその後も蝦夷、熊襲、隼人などの地方の勢力と根気よく戦い続けなければならなかったのです。

日本の中央集権が名実ともに完成するのは明治維新になってからなのです。それが正しい歴史認だと私は信じています。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

=====参考文献====================

ヤマト王権:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%83%88%E7%8E%8B%E6%A8%A9

大和の十大豪族:http://book.akahoshitakuya.com/b/4569760333

大宝律令:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%9D%E5%BE%8B%E4%BB%A4

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以下には学術的には大山陵古墳と呼ばれている古墳の写真を示します。

この古墳は宮内庁が仁徳陵と呼んでいましたが学術調査の結果、誰の古墳かは不明となっています。現在は学校の教科書では大山陵古墳として教えているのです。

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詳しくは、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BB%99%E9%99%B5%E5%8F%A4%E5%A2%B3をご覧ください。