後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

自分が住んでいる場所の歴史を調べよう(6)山梨県、甲斐の国風土記の時代

2013年09月08日 | 日記・エッセイ・コラム

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上と下の写真は八ヶ岳山麓と甲斐駒岳山麓に広がる山梨県北杜市の山林の中にある小屋の庭の様子です。昨年のある秋の日の落ち葉焚きの光景です。

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林間に立ち上る煙の神秘的な光景を見ているうちに、この場所には石器時代や縄文時代には人間が住んでいたのだろうかという疑問が湧いて来ました。

それ以来、いろいろと調べてみました。

結論を書きますと石器時代(4万年前から12000年前まで)や縄文時代(12000年前から西暦前300年まで)には定住はしていなかったが狩猟や食べ物の採集には時々人間は入ってきたようです。

しかし弥生時代(西暦前300年から西暦300年まで)になって田畑農業が始まると人々は山麓を降りて、韮崎から東の甲府盆地へ移住してしまったようです。

弥生時代の遺跡は韮崎から東側の甲府盆地にしか出て来ません。

そして古墳時代(西暦300年から700年頃まで)になると甲府盆地の南東部の笛吹川と釜無川の合流点付近を中心にして古墳が40基も発見されています。

ですから八ヶ岳や甲斐駒岳の山麓の北杜市には弥生時代以後ほとんど人間が定住していなくなったのです。当時の日本は人口が少なく、人口密度も希薄だったのです。

下に縄文土器と古墳時代の写真を示します。 

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 上の2つの縄文土器は3000年から4000年前に八ヶ岳の南麓に住んでいた縄文人によって作られました。江戸尻考古館所蔵です。 

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上は西暦350年以降に甲府盆地の東南、笛吹川沿いに作られた全長170mの甲斐銚子塚古墳から出て来た埴輪と復元された甲斐銚子塚古墳の航空写真です。現在、山梨県考古博物館の敷地内で公開されています。

このような北杜市の歴史に関連して掲載した記事は以下の通りです。

自分が住んでいる場所の歴史を調べよう!(1)山梨、北杜市の考古学

自分が住んでいる場所の歴史を調べよう(2)八ヶ岳山麓から出土した土器

驚異の三内丸山遺跡と縄文時代に繁栄した青森県

自分が住んでいる場所の歴史を調べよう(3)八ヶ岳山麓の縄文人の暮らし方

自分が住んでいる場所の歴史を調べよう(4)八ヶ岳山麓の縄文人の衰退と平地部の稲作の発展

弥生時代の代表的な遺跡、「吉野ケ里遺跡」の概略

自分が住んでいる場所の歴史を調べよう(5)山梨県にある30基の古墳とその分布

北海道には弥生時代も古墳時代も無かったのです

関東地方の606基の古墳(1)埼玉県行田市の古墳群

関東地方の606基の古墳(2)府中市の熊野神社古墳のご紹介

関東地方の606基の古墳(3)相模原市の田名向原遺跡公園に復元された古墳のご紹介

さて古墳時代の終わった飛鳥、平城時代の甲府盆地は周辺も含めて「甲斐国」になりました。その様子をWikipedeaの「甲斐国」を読むと以下のようなことが分かります。(出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E6%96%90%E5%9B%BD です。)

甲斐国とう名前は平安時代には出土文字資料にも出現します。

また甲府市横根町の大坪遺跡では「甲斐国山梨郡表門」、南アルプス市百々(旧中巨摩郡白根町)の百々遺跡では「甲斐」の墨書土器が出土しているのです。

 考古学的には4世紀後半に静岡から富士川を遡って、甲府盆地南縁に畿内色の影響を受けた文化が導入されました。

上の写真で示した甲斐銚子塚古墳を代表とする大型古墳が出来ています。

中央のヤマト王権の完全な支配下にあったのではゆるい連携関係にあったと理解するのが正しいと思います。

そして甲斐国分寺が出来る頃には国府の場所が更に東北に移動して現在の笛吹市の一宮町国分の地に有ったと言われています。

そして、平安後期には甲斐源氏が盆地各地へ進出するのです。(続く)

下は甲斐国分寺跡に広がる礎石の写真です。

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(写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E6%96%90%E5%9B%BD%E5%88%86%E5%AF%BAです。)


何も考えずに淡々と生きると幸せになれる

2013年09月08日 | 日記・エッセイ・コラム

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(写真の出典は、http://15.pro.tok2.com/~satoubin/index.htmです。)

人間は自分の不幸の原因を考えて、その原因を取り除けば、幸せになれると考えます。しかしこの考えは決定的に間違っています。

自分で発見した原因は多くの場合、いや全ての場合、その原因を取り除くことが出来ないのです。その事実に気がついてますます不幸になるのです。

例えば仲の悪い夫婦がいたとします。夫婦仲の悪くなった原因をあれこれ深く考えます。すると相手の性格が悪いのが原因だと気がつきます。その悪い性格を直してやろうと自分が手を尽くします。土台、人間の性格など簡単には変わりません。自分の努力で相手を傷つけ、ますます夫婦仲が悪くなります。しかし離婚する勇気もありません。このような夫婦が世の中には多いものです。

この地獄のような状態を避ける方法は2つだけあります。

一つは結婚しないで一生独身でいることです。

もう一つは不幸の原因を絶対に考えないことです。自分が幸福なのか不幸なのかも考えてはいけません。

そんな暇があったら上に示した北海道の写真でも見て、淡々と生きて行くほうが良いのです。この写真を撮った方は佐藤敏幸さんといいます。早期退職をして北海道の風景写真を撮りながら、人生の流れる日々を無欲に生きています。

芸術的な写真を撮って人々の賞賛を得ようと努力していません。自分が見て、写真に撮っておきたい風景に会ったら撮るだけです。無欲なのです。ようするに淡々として生きているのです。私は感心して、メールを送りました。暖かい、しかし素朴な返事が来ました。

そう言えば、映画、「少年H」・・・戦争の恐ろしさを市井の人々の日常から描いた名作 という記事で書いた妹尾一家の主人もどんなに戦争が激しくなっても淡々と生きています。決して、何故戦争が起きたかを考えません。その原因を考えません。何故、つぎからつぎへと妹尾一家に不幸が襲いかかってくるのか、その原因を考えません。戦争がいつかは終わることは信じていますが、勝か敗けるかを考えません。

不幸の原因が判っても人間にはどうすることも出来ないことを無意識に察知しているのです。ですからこそ戦争の恐ろしさが映画を見た人々に伝わるのです。そしてこの一家は敗戦後まで生き延びて幸せな第一歩を踏み出せたのです。

流れゆく日々を淡々と生きる。この世に生きることは素晴らしいと感じながら生きるのです。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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