上と下の写真は八ヶ岳山麓と甲斐駒岳山麓に広がる山梨県北杜市の山林の中にある小屋の庭の様子です。昨年のある秋の日の落ち葉焚きの光景です。
林間に立ち上る煙の神秘的な光景を見ているうちに、この場所には石器時代や縄文時代には人間が住んでいたのだろうかという疑問が湧いて来ました。
それ以来、いろいろと調べてみました。
結論を書きますと石器時代(4万年前から12000年前まで)や縄文時代(12000年前から西暦前300年まで)には定住はしていなかったが狩猟や食べ物の採集には時々人間は入ってきたようです。
しかし弥生時代(西暦前300年から西暦300年まで)になって田畑農業が始まると人々は山麓を降りて、韮崎から東の甲府盆地へ移住してしまったようです。
弥生時代の遺跡は韮崎から東側の甲府盆地にしか出て来ません。
そして古墳時代(西暦300年から700年頃まで)になると甲府盆地の南東部の笛吹川と釜無川の合流点付近を中心にして古墳が40基も発見されています。
ですから八ヶ岳や甲斐駒岳の山麓の北杜市には弥生時代以後ほとんど人間が定住していなくなったのです。当時の日本は人口が少なく、人口密度も希薄だったのです。
下に縄文土器と古墳時代の写真を示します。
上の2つの縄文土器は3000年から4000年前に八ヶ岳の南麓に住んでいた縄文人によって作られました。江戸尻考古館所蔵です。
上は西暦350年以降に甲府盆地の東南、笛吹川沿いに作られた全長170mの甲斐銚子塚古墳から出て来た埴輪と復元された甲斐銚子塚古墳の航空写真です。現在、山梨県考古博物館の敷地内で公開されています。
このような北杜市の歴史に関連して掲載した記事は以下の通りです。
自分が住んでいる場所の歴史を調べよう!(1)山梨、北杜市の考古学
自分が住んでいる場所の歴史を調べよう(2)八ヶ岳山麓から出土した土器
自分が住んでいる場所の歴史を調べよう(3)八ヶ岳山麓の縄文人の暮らし方
自分が住んでいる場所の歴史を調べよう(4)八ヶ岳山麓の縄文人の衰退と平地部の稲作の発展
自分が住んでいる場所の歴史を調べよう(5)山梨県にある30基の古墳とその分布
関東地方の606基の古墳(3)相模原市の田名向原遺跡公園に復元された古墳のご紹介
さて古墳時代の終わった飛鳥、平城時代の甲府盆地は周辺も含めて「甲斐国」になりました。その様子をWikipedeaの「甲斐国」を読むと以下のようなことが分かります。(出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E6%96%90%E5%9B%BD です。)
甲斐国とう名前は平安時代には出土文字資料にも出現します。
また甲府市横根町の大坪遺跡では「甲斐国山梨郡表門」、南アルプス市百々(旧中巨摩郡白根町)の百々遺跡では「甲斐」の墨書土器が出土しているのです。
考古学的には4世紀後半に静岡から富士川を遡って、甲府盆地南縁に畿内色の影響を受けた文化が導入されました。
上の写真で示した甲斐銚子塚古墳を代表とする大型古墳が出来ています。
中央のヤマト王権の完全な支配下にあったのではゆるい連携関係にあったと理解するのが正しいと思います。
そして甲斐国分寺が出来る頃には国府の場所が更に東北に移動して現在の笛吹市の一宮町国分の地に有ったと言われています。
そして、平安後期には甲斐源氏が盆地各地へ進出するのです。(続く)
下は甲斐国分寺跡に広がる礎石の写真です。
(写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E6%96%90%E5%9B%BD%E5%88%86%E5%AF%BAです。)