昨日も何事も起りませんでした。昼食後、何時ものように玉川上水沿いの雑木林の中を独りで歩きました。
しきりに考えていたことは中島飛行機という会社の栄枯盛衰のことでした。
先日、妻と一緒に歩いていたとき、玉川上水の「中島橋」という橋を渡って、南側に出てみました。
急に空が広くなり、荒々しい雰囲気の畑が広がっています。なぜか異様な感じです。妻がここは立川飛行場が近いから、「中島飛行機」の工場があったのではないかと言いだします。方向オンチの彼女がまた変なことを思いついたものだと、即座に否定しました。しかし考えてみますと、彼女の直観力の鋭さに何度も驚いたことがあるので、帰宅後、調べてみました。
中島飛行機は1917年に彗星のように現れ、燃えるように成長し、通算25、804機の軍用機を大量生産し、1945年の終戦とともに煙の如く消えてしまった会社です。
その発展と各工場での生産活動の様子はぼんやりとした走馬灯の絵のように多くの日本人の記憶から消えてしまいました。
そこで、「中島飛行機物語」というホームページを丁寧に読んでみました。このHPは実に克明に中島飛行機の全ての歴史と生産された各種の軍用機の詳細が掲載されています。(http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/nakajima/)
それを見ると全国に工場があり、東京では三鷹市に武蔵野製作所と三鷹研究所、そして杉並区に東京制作所という3つの大きな工場がありました。
しかし、立川には大きな工場はありません。きっと立川軍用飛行場に納入した飛行機の整備工場があったのでしょう。それが玉川上水にかかっている「中島橋」の傍にあったと考えられます。
昨日はその中島橋へ続く雑木林の中の道を独り歩きながら、日本の飛行機生産の儚さをしきりに想っていました。
そして下のイラストのような軍用機に乗って蒼い虚空に散っていった若者たちの命を惜しみ、その冥福を自然に祈っていました。
見上げると雑木林の梢の間に白い雲が立ち登っていました。
上は隼です。
この5枚の写真の飛行機にはそれぞれ名前がついていました。
しかしその名前も日本人は忘れています。それで良いのでしょう。この世にあるものは全て無常なのです。空なのです。
中島飛行機は占領軍によって徹底的に解体されました。しかしその技術は富士重工に残り、名車「スバル360」を生んだのです。
武蔵野工場跡地は占領軍のグリーンハイツになりその後は三鷹市の運動場と市役所になりました。NTTの大きな研究所もそこに作られました。
三鷹研究所の跡地は占領軍がゴルフ場にしました。その後、返還され都立野川公園と国際キリスト教大学と富士重工の自動用エンジン工場になっています。
杉並区の荻窪にあった東京製作所は現在、日産自動車の事業所になっています。
昨日は独りで散歩しながら中島飛行機の有為変転ぶりを考え、どんな会社にも栄枯盛衰があり、運命にはどうしようもないことを想っていました。
そうしてまた一日が何事も無く過ぎゆきました。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
=====中島飛行機物語の序文です==========
1917年、中島知久平を中心に栗原甚悟、佐久間一郎らのたった7名から始まった中島飛行機は、燃え上がるように成長し、そして1945年終戦とともに波乱に満ちた運命を閉じ、走馬燈の様に消え去ったが、その志は確実に後世の多方面に受け継がれている。
中島飛行機を代表する技師長であった小山悌氏は終戦後「われわれ中島の技術者は国家の存亡ということで必死に飛行機を設計し生産してきた。しかし、その飛行機により尊い若者の命が奪われたことは間違いのない事実である。過去の飛行機を美化するようなことは決してするまい」と述べられ、それが各技師達の心にあって、中島飛行機の記録や回顧録は極端に少ないものとなっている。
飛行機に夢を賭けた技術者達のエネルギーは、戦争という異常な歴史に翻弄されはしたが、その行動を振り返ると「純粋に物事を探求し開拓してゆくパイオニアの姿」が浮かび上がってくる。武器としての飛行機には、多くの異論もあろうが、そこには研ぎ澄まされた美しさがあり、旅客機には新世界へ誘うロマンが漂っている。とくにプロペラで気流をかき分け、自分の翼で大気をとらえるレシプロエンジン機に、一途な技術者の顔が見えるような気がする。
そんな気持ちから、先輩達の足跡を広く知っていただきたく、稚拙ながらホームページにまとめてみました。以下の資料の他に、中島名作機を含む小池繁夫氏の航空機イラストと合わせお楽しみ下さい。 また、ご覧になった後、簡単なアンケートにご協力ください。
====(http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/nakajima/)===========