後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

自分が住んでいる場所の歴史を調べよう(7)律令時代の甲斐の豪族三枝氏と、その後の甲斐源氏

2013年09月10日 | 日記・エッセイ・コラム

弥生時代(西暦前300年から西暦300年まで)になって田畑農業が始まると人々は八ヶ岳や甲斐駒岳の山麓を降りて、韮崎から東の甲府盆地へ移住してしまったようです。

弥生時代の遺跡は韮崎から東側の甲府盆地にしか出て来ません。

そして古墳時代(西暦300年から700年頃まで)になると甲府盆地の南東部の笛吹川と釜無川の合流点付近から東側を中心にして古墳が40基も発見されています。

現在の勝沼、一宮、八代、曽根などの甲府盆地の南東部が栄えたのです。

従って律令国家の甲斐国の国府や国分寺や国分尼寺は現在の一宮町の地域に作られたのです。

飛鳥、天平の時代になって次第に大和朝廷の力が大きくなりすが、近畿地方から離れた甲斐国ではそれ以前からの豪族たちが支配していたと思われます。

勿論、表面上は大和朝廷に従い、租庸調は収めていましたが、実質的には幾つかの豪族がそれぞれ領地を有し、を私有して、独立して農民を支配していました。下に、7世紀末までに大和朝廷に表面的には服従していた地域を示す図を掲載します。

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(図面の出典は、http://web.thu.edu.tw/mike/www/class/insoci/insoci08record/04-08-09.htmlです。)

上の図の赤い部分が大和朝廷にあからさまに反逆しなくなった地域を示しています。しかし実際の統治は地方の豪族が行い、その豪族たちが租庸調を贈って大和政権と友好関係を保持していたのです。

そのような豪族の一人が甲斐の国の三枝氏でした。下にその紋を示します。

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三枝氏は、もともと大和朝廷から甲斐へ派遣された国守クラスの官僚でした。しかし甲斐国に土着して豪族になったのです。この三枝氏は日本書記の姓氏録にも名前があり、続日本書紀の844年の項にも名前が出てくる有力者でした。

律令時代には甲斐国の郡司を務め、甲斐の産物を大和朝廷に送っていたのです。

それからしばらくして、「甲斐源氏」が興ります。三枝氏はこの甲斐源氏の一族の軍門に下り、その配下になります。

しかし三枝氏の家系は戦後時代末期まで続き、武田信玄の配下として活躍するのです。(以上の出典は、http://www2.harimaya.com/sengoku/html/k_saegsa.htmlです。)

甲斐源氏とは1029年に源頼信が甲斐守に任じられ、翌年の1030年に平忠常の乱に際して追討使に任命されたことに由来しています。これは前九年の役や後三年の役などで源氏一族が東国へ出征したことの一環であると考えられています。

一方、河内源氏3代目の源義家の弟の源義光は甲斐守として甲州に入り土着したのが甲斐源氏の祖であるとも考えられています。

(以上の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E6%96%90%E6%BA%90%E6%B0%8Fです。)

そのような経緯もあり、その後、勢力を得た甲斐の豪族や武装集団は皆源氏にあやかって「甲斐源氏」の家系を自分のものにしたのです。

ですから「甲斐源氏」は一つの家系でもなく、血族的にも繋がっていない甲斐の豪族たちや武装集団の総称なのです。

その頃になると甲斐源氏でなければ「人にあらず」という風潮だったようです。

この甲斐国の豪族たちは後に「国衆」と呼ばれ、武田信玄の軍隊の主体になるのです。

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武田信玄と数十の国衆と交わした起請文(誓約書)が長野県の上田市にある生島足島神社に沢山残っています。「私は信玄さまの悪口は言いません」「ご命令には必ず従います」などという文章を見て、内容の素朴さに吃驚したことがあります。左はその神社の写真です。(出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E5%B3%B6%E8%B6%B3%E5%B3%B6%E7%A5%9E%E7%A4%BEです。)

以上のように、甲斐の国は弥生時代から古墳時代、そして奈良・平安時代、鎌倉、室町時代と割拠する豪族達や武装集団が統治していたのです。

勿論、何時の時代にも中央政権とは対立したり、戦争をしたりはしませんでした。しかし東北地方の平泉には藤原三代の地方政権も存在していたように遠方では大和朝廷の統治に従わない地方もあったのです。

日本の歴史を見ると、明治時代以降のように徹底した中央集権国家ではなかったのです。

日本の学校の歴史教育では、大和朝廷の権力を過大に教える傾向があり、間違った歴史を教えているようです。まだまだ日本は真の民主国家ではないのです。(続く)


日々が淡々と流れ行く(2)独り山に登りつつドイツの森、シュバルツバルトを想う

2013年09月10日 | 日記・エッセイ・コラム

最近、毎日のように玉川上水沿いの雑木林を2里ほど歩いています。

大きく茂ったクヌギ、カシワ、コナラ、ケヤキ、エゴノキ、シデノキなどの雑木の大木が深い森のように連なっている遊歩道です。江戸時代からの道なので西洋から来たプラタナスの木やマロニエの木はありません。昔の武蔵野の林です。

そんな武蔵野の木々のたたずまいを楽しみながら、脚も鍛えるためです。

しかし平らな道だけ歩いても体の鍛錬にならないと思い、昨日は高尾山の裏にある小仏・城山の頂上まで登って来ました。老人の脚なので往復3時間かかりました。

Img_0028_2城山山頂への道は、はじめに急な斜面をジグザグに登る厳しい道があります。我慢して45分間、頑張ります。

すると小仏峠の頂上にでます。そこから10分くらいで涼しい風が通る尾根道になります。左の写真のように杉木立が静かに続いています。

この尾根の左側が東京都で右側が神奈川県相模原市です。

この尾根道を30分ほど登ると城山頂上にたどり着きます。標高670mの小高い山で、頂上には茶店があって簡単な食事を出しています。

ストイックな爽快感を保持するために昼食は食べません。

頂上から東を見れば黒々とした高尾の山並みが見え、その向こうに八王子市の街が白く輝いています。

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西の方角を見下ろすと相模湖が見えます。いつも車で渡っている橋も見えます。

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あまり人のいない山道を登りながら、しきりにドイツの黒い森を思い出していました。40年も前の森の中の散歩です。

当時はドイツの西南部のシュツットガルト市に住んでいました。その西側一帯には黒々とした深い森が広がっていました。ドイツ語でシュバルツバルト(黒い森)という地名のついた地方で、ドイツ人が何故か自慢にしている地方です。

何故、自慢にしているかは、何度かそのシュバルツバルトを散歩してみて理解出来たのです。

少し大げさに言えば、森の中のシュパツエーレン(散歩)がドイツの伝統文化の一部なのです。

研究所の同僚に、「昨日は家族で黒い森を散歩して来た」と言うと彼らは例外なく「それは良かった」と嬉しそうに笑うのです。彼らと散歩の話をすると喜ぶのです。黒い森の散歩道は中世の馬車道をたどる道が多いのです。

私が家族連でその道を散歩することはドイツの中世の道を偲ぶことにもなるのです。

その黒い森の道を根気良く歩いていきます。下の写真のような道です。道幅は馬車が通れるくらいあります。

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(上の写真の出典は、http://okamisan-eco.seesaa.net/category/4794249-1.htmlです。)

暗い森を抜けると広い牧草地にでます。昔から人々がえいえいと森を切り開き、牧畜で生きてきた村落があるのです。下の写真はその様子を示しています。

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(上の写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%84%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%88です。)

この上の写真の下の方に左右に横切っている道が見えます。中世の馬車道のようです。

丁度、このような道を40年ほど前によく散歩したものです。その道には古い水車小屋が7つありました。それでその道は、「七つの水車小屋(ジーベン・ミューレ)の道」という名前がついていました。

その道は暗い森の向うにあり、古い水車の他に昔のケーキ(昔風のトルテ)とコーヒーを出す店が一軒だけありました。

話は飛びますが、中世の歴史家の堀田善衛の「中世の旅人達」という本を彷彿させる光景が広がっていたのです。

ドイツ文化の特徴の一つは伝統を大切にすることだとよく言われます。

その意味はこのジーベン・ミューレの道を何度か散歩して体験的に理解出来たのです。

ドイツ人同士が時々議論する場面を見ました。

甲乙、決着がつかないと一方の論客が大声で、「これが伝統だ」と叫んで議論が終わります。

伝統のことはドイツ語でトラデツオンと言います。この言葉が出ると皆が笑って、それを叫んだ人が議論の勝になってしまうのです。水戸黄門の印籠と同じようなのです。私はいつも合理的なドイツ人がこの言葉には平伏してしまうのを見て笑わずにはいられませんでした。

私もこれを真似して、トラデツオン!と何度か言ったことがあります。何故か爆笑になります。そんなドイツの文化や黒い森のことを想いながら城山への道を独りで辿っていった昨日の山登りでした。

こうして日々が淡々と流れ行く老境の一日でした。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘(藤山杜人)