弥生時代(西暦前300年から西暦300年まで)になって田畑農業が始まると人々は八ヶ岳や甲斐駒岳の山麓を降りて、韮崎から東の甲府盆地へ移住してしまったようです。
弥生時代の遺跡は韮崎から東側の甲府盆地にしか出て来ません。
そして古墳時代(西暦300年から700年頃まで)になると甲府盆地の南東部の笛吹川と釜無川の合流点付近から東側を中心にして古墳が40基も発見されています。
現在の勝沼、一宮、八代、曽根などの甲府盆地の南東部が栄えたのです。
従って律令国家の甲斐国の国府や国分寺や国分尼寺は現在の一宮町の地域に作られたのです。
飛鳥、天平の時代になって次第に大和朝廷の力が大きくなりすが、近畿地方から離れた甲斐国ではそれ以前からの豪族たちが支配していたと思われます。
勿論、表面上は大和朝廷に従い、租庸調は収めていましたが、実質的には幾つかの豪族がそれぞれ領地を有し、を私有して、独立して農民を支配していました。下に、7世紀末までに大和朝廷に表面的には服従していた地域を示す図を掲載します。
(図面の出典は、http://web.thu.edu.tw/mike/www/class/insoci/insoci08record/04-08-09.htmlです。)
上の図の赤い部分が大和朝廷にあからさまに反逆しなくなった地域を示しています。しかし実際の統治は地方の豪族が行い、その豪族たちが租庸調を贈って大和政権と友好関係を保持していたのです。
そのような豪族の一人が甲斐の国の三枝氏でした。下にその紋を示します。
三枝氏は、もともと大和朝廷から甲斐へ派遣された国守クラスの官僚でした。しかし甲斐国に土着して豪族になったのです。この三枝氏は日本書記の姓氏録にも名前があり、続日本書紀の844年の項にも名前が出てくる有力者でした。
律令時代には甲斐国の郡司を務め、甲斐の産物を大和朝廷に送っていたのです。
それからしばらくして、「甲斐源氏」が興ります。三枝氏はこの甲斐源氏の一族の軍門に下り、その配下になります。
しかし三枝氏の家系は戦後時代末期まで続き、武田信玄の配下として活躍するのです。(以上の出典は、http://www2.harimaya.com/sengoku/html/k_saegsa.htmlです。)
甲斐源氏とは1029年に源頼信が甲斐守に任じられ、翌年の1030年に平忠常の乱に際して追討使に任命されたことに由来しています。これは前九年の役や後三年の役などで源氏一族が東国へ出征したことの一環であると考えられています。
一方、河内源氏3代目の源義家の弟の源義光は甲斐守として甲州に入り土着したのが甲斐源氏の祖であるとも考えられています。
(以上の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E6%96%90%E6%BA%90%E6%B0%8Fです。)
そのような経緯もあり、その後、勢力を得た甲斐の豪族や武装集団は皆源氏にあやかって「甲斐源氏」の家系を自分のものにしたのです。
ですから「甲斐源氏」は一つの家系でもなく、血族的にも繋がっていない甲斐の豪族たちや武装集団の総称なのです。
その頃になると甲斐源氏でなければ「人にあらず」という風潮だったようです。
この甲斐国の豪族たちは後に「国衆」と呼ばれ、武田信玄の軍隊の主体になるのです。
武田信玄と数十の国衆と交わした起請文(誓約書)が長野県の上田市にある生島足島神社に沢山残っています。「私は信玄さまの悪口は言いません」「ご命令には必ず従います」などという文章を見て、内容の素朴さに吃驚したことがあります。左はその神社の写真です。(出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E5%B3%B6%E8%B6%B3%E5%B3%B6%E7%A5%9E%E7%A4%BEです。)
以上のように、甲斐の国は弥生時代から古墳時代、そして奈良・平安時代、鎌倉、室町時代と割拠する豪族達や武装集団が統治していたのです。
勿論、何時の時代にも中央政権とは対立したり、戦争をしたりはしませんでした。しかし東北地方の平泉には藤原三代の地方政権も存在していたように遠方では大和朝廷の統治に従わない地方もあったのです。
日本の歴史を見ると、明治時代以降のように徹底した中央集権国家ではなかったのです。
日本の学校の歴史教育では、大和朝廷の権力を過大に教える傾向があり、間違った歴史を教えているようです。まだまだ日本は真の民主国家ではないのです。(続く)