年の初めから家人の自慢をして恐縮ですが、世の中にはこんな夫婦も案外多いのではないかと思いこの記事をお送りする次第です。
妻がスポーツが好きで、夫がスポーツに関心が無い夫婦のことです。
私の家では、家人がプロ野球、大相撲はもちろんテレビのフィギュアスケートの番組や箱根駅伝の中継を熱心に見ているいのです。
そしてその側で、私が家人の詳細な解説を聞きながら見ているのです。
そして、スポーツは何でも記録が一番重要で、順位にこだわっててはいけませんと私へ教えます。
箱根駅伝は実力の揃った10人のランナーを持っている大学が勝つのです。
そして10区間の区間を一番早く走った記録が重要なのです。大学の4年間で常に出場する選手が良い選手なのです。10区間にはそれぞれ特徴があり、その特徴に強い選手を選ぶのが監督の責任なのです。そして選手の出身高校まで説明してくれます。私は傍で、ウン、ウンと生返事をして聞いています。
今年の箱根駅伝は例年通り、1月2日に東京から箱根までの5区間を走りました。
東洋大学が一等で箱根のゴールに入りました。
今日は午前8時に昨日の順位に従って箱根をスタートしました。これを書いている傍のテレビが東洋大学の走者が小田原の中継所まで来たと言っています。
東洋大学と言えば、2年前の優勝と柏原君の5区の上り坂の圧倒的な走りを思い出します。下にその夜のニュースの写真を示します。
2012年の1月2日には、4年連続出場の柏原君(上の写真)が箱根の坂を駆けあがり区間新記録を更新したのです。
その2012年1月2日の読売新聞の記事では箱根駅伝の歴史がを書いてありました。
1917年に京都と東京の間の東海道をリレーで走破したのが箱根駅伝の始めと書き、そのイベントを提案したのが読売新聞の社会部長の文学者、土岐善磨氏であり、費用の責任をとったのが読売新聞社であったという記事です。
しかしこの記事を見た家人が別の説が常識だと申します。
1912年のオリンピックのストックホルム大会でマラソンに出場して、中途棄権した金栗四三氏が尽力して創始したというのです。
そこで私は関連資料を調べました。
箱根駅伝は1920年に始まったことになっていました。しかし読売新聞社の事は一切書いてありません。
そこで私は以下のように考えています。
確かに1917年に京都と東京の間のリレー徒競争が開催されたのは事実で、その運営責任者は当時社会部長の土岐善磨氏達が担当したのでしょう。
しかし京都ー東京間の駅伝を毎年開催するには、選手を揃える困難や財政上の困難が大き過ぎ駅伝として定着出来ません。
そのニュースを見たマラソン選手の金栗四三氏は、毎年確実に開催出来、多くの大学生が参加出来る短い箱根コースを考え出したに違いありません。
箱根の坂は日本人のマラソン耐久性を向上します。
箱根駅伝に出た多くの選手が、後にオリンピックやマラソンのいろいろな国際大会へ出場している事実は金栗四三氏の考えが正しかった証拠ではないでしょうか?
しかし財政的なパトロンとして惜しみない支援を続けた読売新聞社も偉かったのです。
詰まらない元祖争いを捨てて公正な、正しい歴史を残すべきではないでしょうか?日本では金を出した人が偉くて、新しい有意義な、そして独創的な提案をした人は無視しがちです。なにか寒々しい文化のような感じがして残念至極です。
ところで話は飛びますが、相模湖へドライブすると、時々寄る蕎麦屋さんがあります。
藤野の名倉グランド入口の、そば処、「喜庵」という店です。
この店の御主人の宮崎慶喜さんはもと陸上長距離走の選手でした。
正月の箱根駅伝では、駒澤大学代表で1年生から4年生まで7区、7区、5区、9区を走りました。(46回1970年~49回73年)。
スポーツ好きの家内が小さな写真に目を止め、帰宅してから調べました。なにしろご主人お一人で蕎麦を出しているので伺うことも出来なかったようです。
そこで次回に行ったとき家内がご主人と第46回1970年~49回73年の箱根駅伝の思い出を話し合っていました。
この蕎麦屋では、北海道産のソバの実を、毎朝石臼で挽いた粉を使った手打蕎麦を提供します。
その蕎麦が美味で、その上、天麩羅の揚げかたも絶妙で、鴨も申し分ありません。水は地下天然水、出しは本鰹、昆布のみ、ワサビは安曇野産ということです。
場所は「藤野、そば処、喜庵」を検索するとあります。下に写真を示します。
そんなこともあり、箱根駅伝といえば喜庵のソバとご主人のことを思い出します。
今日の箱根駅伝の復路の5区間の勝負はどのようになるのでしょうか。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
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