後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

いつのまにか消えてしまった物(1)昭和の台所の炊事道具

2014年01月14日 | 日記・エッセイ・コラム

この連載の意図は昔と現在を対比して考えて頂き、現在の幸せを深く味わっていただくことにあります。この時代の日本に生きている幸せを感謝して頂きたいのです。

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ふと気が付くと祖父母、両親だけでなく知人や友人がいつの間にか消えてしまいました。そして人間だけではありません。日頃馴れ親しんだいろいろな物が姿を消してしまったのです。

昭和という時代が随分と大昔になってしまったのです。

消えてしまいましたが今でも懐かしく思い出すものがあります。

(1)釜戸(竈)、七輪、井戸と釣る瓶、炬燵にちゃぶ台、お茶の間と茶箪笥などなど、

(2)鉱石ラジオ、真空管ラジオ、蓄音機、レコードに電蓄などなど、

(3)蒸気機関車、市電に都電、焼玉エンジンの小さな連絡船、青函連絡船、などなど、

もっともっと沢山ありますが、今日は上の(1)について簡略に書いてみたいと思います。

まず昭和の初めごろの台所の写真をご覧ください。

Middle_12524102201

(写真の出典は、http://happy.ap.teacup.com/jumadiary/998.htmlです。)

この台所は井戸が内部にあるので、かなり裕福な家のものです。

この写真には釜戸、七輪、井戸と釣瓶、が写っています。

そして低い流しの上には白い琺瑯びきの洗面器があり、流しの下には白い七輪とぬかづけを作るカメがあります。

釜と釜戸は奥に黒光りしています。その左の棚にはおひつとザルがあります

この窯でご飯を朝一回だけ焚くのです。裕福な家では夕方も焚きます。

燃料は薪です。

照明は写真に写っているように裸電球一個だけです。当時は電燈の数を3個とか5個と限定して、使用するアンペア数に従って電気会社と契約していたのです。

炊きあがったご飯をおひつに入れてお茶の間へ運び、ちゃぶ台を囲んだ家族へ食べさせたのです。

男子厨房に入らずという習慣を守って台所は女性だけの場所だったのです。

茶の間は一家団欒の楽しい場所でした。その団欒の中心が細君と子供達です。細君の人柄で明るい家庭が出来たり、静かな家庭になります。

ちゃぶ台は家庭の幸福の象徴だったので、それが消えてしまった現在でもその言葉は残っています。

戦争中のちゃぶ台の上の電燈には灯火管制のための黒い布が掛けてありみじめでした。そして戦後はローソク送電といって電圧が下げられて暗い電燈になったものです。

夕食が終われば主人は書斎へ引き上げ、細君は台所で食器洗いです。

子供たちはちゃぶ台で宿題をします。その後はラジオを聞いて、ちゃぶ台をたたんで、そこに布団を敷いて寝るのです。

冬はちゃぶ台の代わりに炬燵を使っている家が多かったようです。

多くの家では炬燵と火鉢だけが暖房だったのです。

ですから冬は大変寒く、家の中でもはく息が白くなったものです。

寝ると蒲団の襟に息が凍り付いて、白くなったのです。

そんな生活は戦後も続きました。それが変わってきたのは1964年の東京オリンピックの前後だったような気がします。しかし変化は都会からはじまり農村地方はかなり後まで上の写真にあるような台所を使っていました。それが完全に消えたのは1980年代の経済の高度成長の頃だったのです。

それにしても昭和という時代が終わってから既に26年もたってしまったのです。

昭和という時代も遠くなりいろいろな生活の道具が消えてしまいました。

時代によって変わり過ぎるような気分がします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。  後藤和弘(藤山杜人)