群馬県にある下仁田町は高崎市から西へ行く上信電鉄の終点の町です。
山々に囲まれた静かな町でコンニャクと下仁田ネギが有名な産物です。
そこから西へ山道を入ると神津牧場があり、その先は長野県、佐久へ出ます。県境の町です。
そこに住んでいる横山美知彦さんが写真とお正月にまつわる思い出の記を寄せてくださいましたのでご紹介いたします。下は現在の上信電鉄の写真と文中にある清泉寺の写真をしめします。なお文中の有山はるみは小生の細君のことです。
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「山の中の町、下仁田の正月の寺参りと思い出のことなど」
横山美知彦著
上州の正月は寒い。暮れから何日も経っていないが、全く新しい寒さが肌を刺す。何故だろう。これは人間の気分的なものと私は考えている。
やがて訪れる春を待ちきれない気持ちが、寒さに逆らい何とか早く逃げ出したい、そんな気分にしているからではないだろうか。
昔は、七草が過ぎると小正月、藪入りと云い商店の使用人達は、堰を切る様に両親の待つ自宅に帰って行く。寺との付き合いは、一月のお互いの年始の訪問から始まる。
三が日が過ぎた。翌四日には、住職がその年の寺の行事予定を刷り物にして寺に関する一寸した品物を添えて各檀家を訪れる。だが座敷には上がらず、戸口で平たい新年の挨拶を主人と交わし、何事も無かった様に帰って行く。
藪入りの16日は檀家から寺へ新年の挨拶に参上する。清泉寺へは、毎年自宅から歩いて挨拶に行く事にしており、上信電鉄の踏切を渡りすぐに左の細道に足を向け、しばらくして再び信号機のない踏切を過ぎて山際を寺に向かう。
昭和20年に東京から疎開してきた有山はるみさんはこの辺りに住んでいたと思い出しながら寺の裏門の石段を上がり境内に入る。
年始、施餓鬼会、春秋の彼岸会、盂蘭盆会、に参拝することにしているが、この寺は母方の先祖の墓がある。
その母方の曽祖父は明治の中頃、現在の仲町の裏通りで理髪店を開いており、当時作成された町内双六にも金子理髪所という店が掲載されている。
店主の金子鶴吉は嘉永四年の生まれで、その三女「たね」が私の祖母になる。
下仁田では古くから店を営み知られていたようだが、欲のなかった人の様でその子供達(三男四女)も父親に似て財産等は残していない。
正月の寺参りは昔のことをいろいろ思い出させてくれる。何時までもそんな昔の気分にしたっていたい。そんなことを帰りの道すがら思った正月の寺参りだった。
思い出といえば疎開して来た人の事。
私が野球の本格的な投球を初めて見たのは、はるみさんの父親が小学校の荒れた運動場で見せた投球フォームである。それは私にとってまさに衝撃的だった。
運動場に石灰で四角に線を引き、その中心にあるピッチャーズマウント゛からキャッチャー方面へ軟球を投げたのを見たのが、小学四年生の時である。
その人の投球フォームは76才になった私は今でも鮮明に脳裏に残っている。何故なら、地元の青年達の投球フォームとまるで違っていたからである。
左足を高く上げ、右手を大きく後ろに引くや捕手へ凄く速い球を投げた。
その上、ボールがホームベースの近くへ来ると右や左に曲がるのだ。またボールが沈んだり、浮いたりするのもあって皆びっくりした。捕手はつかむことが出来ず困っている。「あれはカーブというのだ」「ドロップだ」とかいう人もいた。まだシュート、ナックルなど誰も知らない頃だった。
当時はルール等も知るわけもなく、ただ校舎側のグランドより一段上がった石垣に腰を下ろし学友と、珍しげに見ていたと記憶している。
今年のお正月も静かに過ぎて行った。山の中の町、下仁田の正月は毎年静かである。今年も良い年になるようにお寺参りをした。
道々、終戦前後のこと思い出しながら一人で歩いて来た。(終わり)
平成26年1月16日記