後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

おいしいもの(1)高尾山の冬そば

2014年01月22日 | 日記・エッセイ・コラム

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上はケーブルカー乗車駅手前から見上げた高尾山の尾根です。

下は表参道の上の方から甲州街道との交差点方向を見下ろした風景です。

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現在の甲州街道(国道20号線)を高尾橋交差点で直角に曲がり」、ケーブルカー乗車駅へ続く表参道付近には18軒ものソバ屋があります。

その18軒のソバ屋が「高尾山冬そばキャンペーン」をしていて、冬ソバの味を競いあっています。

今朝、何故かソバ食べたくなって車を駆ってザルソバのソバの味をゆっくり楽しんできました。店はいつも行く栄茶屋本店です。ソバの香を大切にしながら店先で打っています。大変美味しいソバでした。

上の写真の右手の古い和風の店の向こうに縦の看板が出ている店です。下に写真でご説明いたします。

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左の写真が店の入口で、店の前に3台ぶんの駐車場があります。この入口の右側にソバ打ち場があり右の写真のように2人の職人さんがソバを打っていました。

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左が今日食べた「せいろソバ」です。右は表参道の地図です。詳しくは、http://www.takaosan.jp/map.html をご覧下さい。

交通は新宿から京王線が表参道のすぐそばまで来ていますので気楽に来れます。そして有料駐車場もありますので車でも便利です。

ソバには通の人が多くてよくうんちくを披露しています。

しかしソバはソバです。決して松坂牛や国産ウナギの蒲焼にはかないません。

ですからソバを美味しく食べるコツは空腹にしてから食べることです。

そして天麩羅ソバや鴨南蛮を選ぶと、ソバの味が分からなくなります。出来たら冷たいザルソバだけを注文すると、ソバの味をしみじみ楽しむ事ができます。香の高いソバ湯も頼みます。

ソバの産地は北海道でも中国大陸でも殻のついたまま運送し、直前に脱穀し、ゆっくり挽いたものなら産地に関係無く美味しいものです。

私は十割ソバより精製した小麦粉を適度に混ぜてあるほうが美味しいと思っています

通ぶって十割ソバは食べない方が良いとも思っています。

以前、山梨県の清春にある有名なソバ屋の翁(おきな)から出てきた若いカップルとすれ違ったことがありました。

男性が大きな声で、「近くのレストランでハンバーグを食べよう!」と女性に言っているのです。その気持ち分かります。

「翁」では天麩羅は勿論一切のタネを出さないのです。ザルかカケだけです。そして十割ソバを注文しないと店主の機嫌が悪いのです。

しかしソバは確かに美味で、現在でも繁盛しているのです。本当に味の分かる人と怖いもの見たさの人の両方のお客で繁盛しいるようです。

話が高尾山の冬ソバからそれてしまい失礼しました。終わりに致します。


昭和とともに消えてしまった暖かい人間関係(2)師弟の愛、その思い出

2014年01月22日 | 日記・エッセイ・コラム

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上の写真は昔の武蔵野に亭々とはえていたケヤキの大木の風景です。木の下には江戸時代の倉が見えています。変わらぬ日本の風景です。

何故、このような写真を出すのでしょうか。それは以下に書く思い出話がつまらないからです。

せめて気持ちの良くなるような写真でも出して勘弁してもらおうと考えたのです。本当にお暇な方だけがお読みください。

昔の小学校や中学校、そして全ての学校の先生は本当に生徒や学生を愛していたのです。情熱的でした。

それは聖職というにふさわしい姿勢でした。溺れる生徒を助けようとして自分が死んでしまった先生が幾人もいました。貧乏な家の子供に親切にし、いつもかばっていました。自分の家に子供たちを招んでくれました。

戦中、戦後に通った国民学校の担任の先生がその通りだったのです。今でもその優しかった顔を忘れられません。

そして昭和23年から26年まで通った新制中学校の先生方も情熱を傾けて生徒の面倒を見ました。特に忘れられないのが高橋貞明先生です。仙台の愛宕中学で担任をしていた先生です。

この高橋先生は熱心に数学の授業をしていました。でも何を習ったかすっかり忘れてしまいました。忘れられないのは部活で一緒に泉岳に登ったときの励ましの声です。喉がカラカラになったとき頒けてくれた生ぬるい水の美味しかったことです。

この先生は踏査部やテニス部やバレー部や演劇部や科学部などの数多くの部活を作り、毎日放課後に生徒の指導に汗まみれになっていました。

私は踏査部と科学部と演劇部に入って高橋先生にお世話になりました。

とにかく新しい日本を作るのは君たちなのだと言いながら生徒達に心血を注いでいたのです。私達悪童連を自宅に招んでくれたこともあります。

そして科学部のとき、「君は科学者になってノーベル賞を取りなさい」と言うのです。私は科学者になりました。残念ながらノーベル賞は高嶺のまた遥かその上にあったのです。

あれから60余年後、仙台で愛宕中学校の同期会があった時、話題になったのはその高橋貞明先生のことでした。みんながいろいろな部活で熱心に指導してもらった思い出を話しています。年賀状からお元気の様子が伺えます。

当時の新制中学校には他にも生徒達を愛してくれた先生が沢山いました。

終戦後の新制中学校には確かな師弟愛があったのです。情熱があふれていたのです。

その後、共産党系の日教組が勢力を張りだして学校の雰囲気が変わりました。

先生を聖職と言い、富国強兵に協力させた明治、大正、昭和の教育政策が間違っていると主張するのです。

そして先生は聖職ではなく労働者だと言い張るのです。そして「万国の労働者よ団結せよ」という思想を振り回すのです。

こうして師弟愛は歴史の彼方に消えてしまいました。

そして暫くして、日教組の力も消えて行きました。

現在の学校はアメリカ流に個人の個性を伸ばす教育に変わりました。

それも自然な変化です。自然現象です。輪廻という言葉を連想します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)