後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

それにしても美しいサクラソウなのでもう一度お送りいたします

2014年01月06日 | 写真

東久留米市の滝山にある石塚園芸は四季折々いつも花々が沢山ある花屋さんです。

そのサクラソウの花が可憐で、美しいので昨年の一月に撮影した写真をもう一度お送り致します。去年の写真で恐縮ですが、お楽しみ頂ければ嬉しく存じます。

園芸店の主の石塚さんは35年間サクラソウの栽培をして、交配を繰り返し新種のサクラソウを32種も作ったそうです。

新しい種類のサクラソウが出来ると農林水産省へ新種の登録をするそうです。そこの専門官が新種と認めたサクラソウが32種あるのです。それぞれ名前がついているそうです。

「その新種の種の袋がこれらです。」と言いつつ袋を幾つか見せてくられました。

サクラソウは種を買って、自分で育てると楽しいらしいです。

なかでも水色の花は珍しく、オランダで2012年の4月5日から開かれる「花博」に招待出展しました。

その水色のサクラソウは世界初で「湖畔の夢」と言う名前だそうです。(写真は一番下に示します。出典は、http://www.faj.co.jp/blog/?p=40です。)

楽しい花園です。

下に2012年の1月14日に撮ったサクラソウの写真をお送りいたします。

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この石塚園芸はサクラソウだけでなくシクラメンやシンビジュームやいろいろな蘭も栽培している楽しい花屋さんです。下にシクラメンの写真を示します。

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下の水色のサクラソウは世界初で「湖畔の夢」と言う名前です。(写真の出典は、http://www.faj.co.jp/blog/?p=40です。)

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武蔵国分寺、国分尼寺と鎌倉街道の位置関係・・・明治維新による古い史跡の破壊

2014年01月06日 | 日記・エッセイ・コラム

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東京都の西の方の郊外の稲城市、府中市、国分寺市、などを車で走っていると彼方此方に「古鎌倉街道」という表示板を見ます。車を止めてみるとほんの少しだけ古い道があり、回りは新しい住宅に囲まれていて往時の面影が無いのです。

しかし武蔵国分尼寺の西側にある鎌倉街道の跡には、冬枯れの雑木林に囲まれた切り通しの道がさびしく続き、昔の風景が広がっていいます。

上の写真がその風景を示しています。

鎌倉時代は首都が箱根山を越えて東へ来た歴史的な大転換期であったのです。室町時代になっても幕府の関東支配の出先機関が鎌倉公方でした。

鎌倉幕府jは各方面を結ぶ鎌倉街道を整備しました。そしてそれは江戸幕府が出来た後も長い間、関東地方の重要な道であったのです。

ところが、その鎌倉街道の多くの部分は奈良時代の重要な道路をそのまま使っていたのです。

律令国家が出来たとき国々を結ぶ道路も整備されましたが、鎌倉街道もそれを踏襲している部分が多いのです。

この写真の鎌倉街道の一部も奈良時代の東山道武蔵路(とうさんどう むさしのみち)の上に作られた部分です。

このすぐ東に、並行してJR武蔵野線が南北へ走っています。

奈良時代、鎌倉時代、現代と延々と続く交通路と思うと、ゆえもない懐かしさが体の中に溢れて来ます。

人々は何代も生まれては死にかわって行きました。でもこの雑木林の間の道の風景は1000年以上変わらないのです。ここは黒鐘公園といい、よく散歩に来るところです。

それはそれとして、国分寺は聖武天皇の741年の勅令で全国に出来ました。場所を決める時、律令国家の重要な街道のそばに配置することを決めていたのです。

そしてこの現在見る鎌倉街道は武蔵国分寺と尼寺の側を通っているのです。

これこそがこの鎌倉街道が奈良時代の東山道武蔵路(とうさんどう むさしのみち)と同じだったという証拠と考えられています。

下に武蔵国分寺跡の写真と出土品の写真を示します。

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ところで、武蔵のくにの国分寺と国文尼寺の跡の位置関係を丁寧に見るとR武蔵野線が両方の寺を分断し、尼寺の中を通っていることが分かります。

明治維新後は古い日本の文化を無視して急ぎ富国強兵の道をひたすら走ったのです。鉄道が国分寺の遺跡をこわしてしまっても意に介さなかったのです。

このように鉄道が国分寺跡を無残に破壊している様子は信濃国分寺跡を見学に行くと見ることが出来ます。鉄道が信濃国分寺跡の真ん中を通っているのです。

明治維新後、鉄道を作る技師はそこに国分寺があったことなど問題にしなかったのです。水平な土地でレールの敷きやすいところを選んだのです。

当時は欧米の近代文明の輸入が緊急の国家的目的であったので日本の文化遺産の保存など考える人がいなかったです。

人間は生活の便利さのためには何でもするものだと残念に思います。

危険な原子力発電もその便利さ故に存在しているのです。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)