後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

真夏の桜はただのつまらない木でした

2014年08月01日 | 写真

毎年、4月になると青梅市の梅岩寺の枝垂れ桜が豪華絢爛たる光景を楽しませてくれます。
先日、奥多摩に行く途中に真夏の桜にご挨拶するために梅岩寺に寄りました。
挨拶を済ませてシゲシゲと見上げましたら、桜樹が暑そうにぐったりしています。
このつまらない真夏の桜樹が毎年春になると素晴らしい花を咲かせるのです。
自然の不可思議さを想いながら暑い境内をしばし散歩してきました。
写真は先日の櫻木と今年の4月8日に撮った写真です。

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200年余、江戸を支えた玉川上水掘削のロマン

2014年08月01日 | 写真

江戸の町の人々の水を200年余にわたって供給した玉川上水の掘削にはロマンが感じられます。

取水口の羽村の堰から四谷まで43Kmもあるのに高低差がわずか100メートルしかないのです。

何度も、通水性の土壌にあたってしまい、水が吸い込まれる困難に遭遇しながら、1年たらずで完成した土木工事の技術の見事さにいつも感心しています。

一昨日、その羽村の堰のそばを通ったのでその写真を撮りました。以下にお送りいたします。

なお現在の玉川上水の両側は緑豊かな遊歩道として東京都の水道局が丁寧に保全しています。散策用遊歩道の地図はhttp://homepage3.nifty.com/kousukekimura/tamagawajousui/にあります。

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上と下の写真が現在の羽村の堰の様子です。現在の堰はコンクリートで出来ていますが、当時は竹籠に石を詰め、それを何個も重ねて木の棒でまとめて、石の間は粘土をつめて漏水を防いだといいます。右の道路が奥多摩街道で前方に多摩川の上流域が見えます。

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下の写真は福生市を流れる現在の玉川上水です。左手の森の中に多摩川の地酒、「嘉泉」と醸造元の田村酒造があります。

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===参考資料:玉川上水掘削の経緯==============

『玉川上水起元』(1803年)によれば、承応元年(1652年)11月、幕府により江戸の飲料水不足を解消するため多摩川からの上水開削が計画された。工事の総奉行に老中で川越藩の松平信綱、水道奉行に伊奈忠治が就き、庄右衛門・清右衛門兄弟(玉川兄弟)が工事を請負った。資金として公儀6000両が拠出された。

幕府から玉川兄弟に工事実施の命が下ったのは1653年の正月で、着工が同年4月、四谷大木戸までの本線開通が11月15日とされる。

羽村から四谷までの標高差が約100メートルしかなかったこともあり、引水工事は困難を極めた。以下、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4 に続く。


イスラム過激派による戦争の原因(2)1991年の湾岸戦争こそが現在のイスラム過激派の直接的原因

2014年08月01日 | 日記・エッセイ・コラム

イスラム教に従った政治を行うべしという考えを持つ人々をイスラム原理主義者と言います。その大部分が武力使用に反対する平和的なイスラム教徒です。

しかしその原理主義者の一部は武器を持って内戦を繰り広げている過激派になったのです。

何故、数多くのイスラム過激派が生まれ、現在、シリア、イラク、アフガニスタンなどの中東で熾烈な内戦を行っているのでしょうか。

その原因は19世紀から始まる欧米による中東地域の支配が遠い原因になっていますが、直接的な原因は1991年の湾岸戦争であるという人々が多いのです。

この湾岸戦争はイラク軍のクウート侵略を巻き返すためにアメリカ軍を中心にした多国籍軍が大規模な反撃をした戦争です。イラクのフセイン大統領が敗北を認めクウートから完全に撤退して終了した戦争です。

それ以前はイスラム過激派によるテロ事件はほとんど起きていないのです。

過激派による初めてのテロ事件は1983年にレバノンで米軍に対する自爆テロでした。これはレバノンに駐留する米軍への反発を端的に表すものだったのです。

湾岸戦争こそは現在のイスラム過激派の跋扈跳梁の直接的原因として明快に説明している人がいます。宮田 律氏というイスラム社会の研究者です。

そこで以下に彼の説明の抜粋を引用します。

詳細は、宮田 律著「現代イスラム過激派とテロリズム」:http://www.ndl.go.jp/jp/diet/publication/legis/228/022815.pdf をご覧下さい。

・・・・湾岸戦争の際に米軍はイスラムの聖地があるサウジアラビアに駐留することになったが、この駐留がウサーマ・ビンラーディンに反米テロを追求させる契機となった。
 反米テロは、米国によるイスラム世界への軍事的進出が最大の理由であるにもかかわらず、米国はテロを武力で封じようという姿勢を終始一貫してとり、アフガニスタンのタリバーン政権を崩壊させ、またイスラム過激派のテロとは関係のないイラクのフセイン政権をも軍事力によって倒した。

フガン戦争、イラク戦争では、女性、子供を含む市民が犠牲になる事態となった。イスラムでは、女性や子供への特別な配慮を説き、その保護を訴えるが、アフガン・イラク戦争で市民が犠牲になったことは、イスラム過激派のテロ活動にいっそうの動機を与えることになったことは否めない。・・・・以下省略

そして1991年の湾岸戦争の国連多国籍軍の傘下軍隊を調べてみると、以下のように多くのイスラム国家が参加しているのです。エジプト、サウジアラビア、シリア、アラブ首長国連邦、モロッコ、オマーン、カタール、パキスタンなどがアメリカ軍とともにイラクのフセイン大統領と戦争をしたのです。

当然、アメリカはこれらのイスラム国家へ強力な武器を援助しました。彼等は武器の使い方を覚え、勝ち戦だったので戦争の面白さを体験したのです。そして戦後になって今度はアメルカの横暴ぶり、イスラム社会の支配へ反発をしたのです。

現在の数多くの武装したイスラム過激派はこのような経緯で生まれたのです。

ですから湾岸戦争こそが現在、跋扈跳梁しているイスラム過激派の直接的原因と断言しても良いと思います。下に1991年の湾岸戦争の写真を示します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

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写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%BE%E5%B2%B8%E6%88%A6%E4%BA%89 です。