後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

爽快な海洋ヨットレースの写真おを送りいたします

2014年08月29日 | 写真

私は以前、趣味のヨットを霞ヶ浦で25年間していました。ヨットは時々葉山沖の相模湾や清水沖の駿河湾、そして東京湾でも楽しんだこともあります。

2011年に後期高齢者になったのを機会にそのヨットの趣味をきれいに止めてしまいました。

しかしヨットは懐かしくその後もあちこちのマリーナへ行って、ヨットの姿を眺めて楽しんでいます。

そんな方々のために今日はHiroshi Ogawa さんの今年の5月19日の葉山沖でのヨットレースの記事と写真を以下お送り致します。

写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。
====Hiroshi Ogawa さんの5月19日の記事============
「最高のヨット日和」
  昨日はクラブ恒例のレース、年一度の運営でした、コースはいつもと少し違う葉山御用邸前にブイを打ち回航マークとした約11マイル。参加艇16艇。南の順風に恵まれスピンランの長いコースでした。
  本部船はスタートさせた後、ブイで待機、1艇ずつ富士山バックに写真撮影。防水カメラも古くなり、写りが悪くなって来た、又は気温のせいかピンとがぼける。
それでも全艇快適なセーリングを楽しんだ様だ。
パーティー後は大島レースの準備、2次会はいつもの川端亭で楽しい気持ち の良い1日でした。
 
https://www.facebook.com/hiroshi.ogawa.357?hc_location=timeline より転載致しました。

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戦前のイタリアとドイツの乗用車の写真をお送りします

2014年08月29日 | インポート

昨日、河口湖自動車博物館で撮ってきた戦前のイタリアとドイツの乗用車の写真をお送りします。昨日、掲載したイギリスとフランスの戦前の車の写真も含めて、ヨーロッパの4ケ国の文化の違いを暗示しているようです。自動車には作られた国と時代の雰囲気を反映しているのです。
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上の写真はよく分かりませんが、色彩が綺麗なのでお送りします。自動車が作られ始めた頃のプジョー・ベベらしいです。この当時はまだ走れば良いという時代ですから、現代の基準を当てはめるならエンジンは非力。ようやく冷却のためのラジエーターグリルが誕生したという時代です。
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上の写真は1938年のイタリアのランチアアプリリア、1352CC,Ⅴ型4気筒、4輪独立懸架。120Kmの巡航速度でした。実用車らしい頑丈な作りになっています。
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上の写真はアルファロメオ、6気筒、2500CCです。いかにもイタリアらしい華麗なデザインです。
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上の写真はヒットラーがよく乗っていたベンツと同じ型のメルセデス・ベンツ/540Kです。3500CCのエンジンで2.7トンと重い車体でも時速170Kmで走れました。やがて第二次世界大戦を始めるドイツの武力を連想させるような重厚な作りになっています。
その他の車は,http://auto.ultimative.org/2012/car-airmuseum/ にも掲載されています。


愛と文化は国境を越える(4)日本文化の基礎を作った玄奘三蔵法師のインドへの旅

2014年08月29日 | 日記・エッセイ・コラム

日本人の考え方の基底には仏教の無常(つねならず)の思想が流れています。それは「もののあわれ」ともなり、私たちの心の基調となっています。

この仏教の教えをはるばるインドへ旅をして持って帰って来たのが唐時代の玄奘三蔵法師でした。現在、日本で読まれているお経のほとんど全ては彼がインドから持ち帰り、漢文に翻訳したものです。そして一部はインドのパーリ語の発音をそのまま漢字で表したものです。

ですから私は玄奘三蔵法師こそ日本文化の産みの親と信じています。彼は602年に生まれ、664年に62歳で亡くなりました。629年に陸路でインドに向かい、巡礼や仏教の研究を行って、16年後の645年に経典657部や仏像などを持って帰還しました。以後、翻訳作業で従来の誤りを正しながら、インドへの旅を地誌『大唐西域記』として著し、これが後に伝奇小説『西遊記』の基ともなったのです。それでは下に彼の旅の道程を示しましょう。

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(この図面の出典は、http://todaibussei.or.jp/asahi_buddhism/12.html です。)

インドへ入った玄奘は、ガンダーラやカシミールを経由し、ブッダゆかりの地を訪れた後に、有名なナーランダー僧院(現在のビハール州)へと赴いています。

当時のナーランダー僧院では、仏教以外にも様々な学問が行われており、数千人もの俊才たちが勉強していました。玄奘は、彼らのなかでも誉れの高い戒賢(シーラバドラ)について『瑜伽師地論』を中心に学び、この地で五年間、勉学に励んだのです。

さてそれはさておき、何故、私は玄奘三蔵法師のことを親しみをこめて「彼」と書くのでしょうか?それには私が彼の遺骨が埼玉県の慈恩寺にあることを知り、2009年の9月に訪ねて行ったことがあるからです。

遺骨は偽物かもしれません。しかし遺骨と称するモノが日本へ渡って来て、埼玉県の慈恩寺に埋葬されたいきさつを調べて行くと人々の願いや祈りが私の胸を打ったのです。

詳しくは、http://yamanasi-satoyama.blog.ocn.ne.jp  の2009年9月14日の掲載記事、日本の全仏教徒のために海を渡ってきた玄奘三蔵法師の遺骨にお参りして来ました に書いてあります。

その経緯は省略して以下に慈恩寺の先代の住職の大嶋見道師が建てた玄奘塔の門と玄奘三蔵法師の像の写真を示します。

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027_21 この写真の玄奘三蔵さまが背中にうず高く背負っている物がインドから持って来た経典の詰まった入れ物なのです。その入れ物の上に傘がさしてあるのを見逃さないで下さい、自分の身より経典を大切にして、はるばるインドから運んできたのです。

現在、日本の多くのお寺にこの 玄奘さまの像があります。そんなお寺を散歩していると何故かホットします。蛇足に下にこの埼玉県の玄奘さまの像の周囲の風景写真を示します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

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