この話は何度も書きました。
しかし何度書いても人間の素晴らしさに感動いたします。「愛と文化は国境を越える」と題した連載記事に必ず含めたい話です。
それは昔の日露戦争の陰で咲いた美談です。ロシア人と当時の日本人がお互いを大切にし、人間の限り無い素晴らしさを描き出してくれたのです。
このロシア人は宣教師のニコライ・カサートキンです。日本側は当時の明治政府と軍隊と一般信者です。お互いの人間の尊厳を大切にしあって立派な行動をとったのです。
ニコライ・カサートキンは幕末にロシアからやって来て、東京にニコライ堂を建て、ロシア正教を日本に根づかせた宣教師でした。1837年にロシアに生まれ、1912年に東京で75歳で亡くなりました。
1904年に日露戦争が起ると日本に居たロシア人は蜘蛛の子を散らすように上海やウラジオストックやロシア各地へ一斉に帰ってしまったのです。戦争が始まればロシア人は全て日本の憲兵に逮捕され収容所送りになるのです。
しかし、東京、駿河台のニコライ堂に居るニコライだけは眉一つ動かさず日本を離れなかったのです。そして日本の信者のために自分を捧げたのです。
一方、日本の政府や軍部関係者は日露戦争の間、軍隊の一小隊を常時派遣しニコライ堂とニコライの安全を暴徒から守ったのです。
この時、彼は、「私はロシアに仕えるのでない。キリストに仕える者です」と明言したのです。日本の信者を見捨ない態度を見た明治政府関係者や軍部も武士道精神に従ってニコライを大切にしたのです。
日露戦争は1905年に日本側の勝利で終わります。
日本側の死傷者は20万人、ロシア側は15万人という凄惨な戦争でした。
凄惨な戦争でしたがロシア兵の捕虜に対しては日本側が実に寛大な処置をしたのです。
明治政府と軍部はロシア正教の日本人信者とその家族がロシア兵の捕虜の慰問することを許可したのです。慰問にはロシア正教の礼拝式を捕虜収容所で行うことも含まれていました。
1905年に数万人のロシア兵捕虜が日本の収容所へ送られて来ました。旅順や奉天での捕虜も含めるとその数は7万人以上と言われています。 日本国内では27ケ所の収容所が、弘前から始まって仙台、京都と南の熊本まで各地に散在していました。
ロシア語の出来る日本人の司祭がそれぞれの収容所を担当して死者の埋葬、病者の見舞い、家族からの郵便の配布、ロシアからの慰問袋の仲介、礼拝式や祈りの会の開催、行方不明者の調査などなどに手を尽くして行ったのです。
私はその様子を撮った当時の写真を見たことがあります。
捕虜収容所を訪問したニコライと日本軍幹部との記念写真。イオアン小野帰一司祭の指導による大阪、浜寺捕虜収容所の祈りの会の風景。松山捕虜収容所を担当したセルギイ鈴木九八司祭の上半身肖像写真。その他多数の写真が残っています。
明治時代の日本人のロシア兵に対する寛大な処置は長く外国から称賛されたそうです。
そして日本ではロシア正教が実質的に日本正教会へと独立して行ったのはこの日露戦争以後のことです。
このニコライ・カサートキンは1912年に75歳で亡くなりました。
神田のニコライ堂から上野、谷中の墓地までの葬列の沿道には数万人の東京市民が並び、別れを惜しんだのです。そして明治天皇も恩賜の花輪を送ったのです。
下に私が2009年に撮ったニコライ堂の写真を示します。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)
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