現在、日本と中国は尖閣諸島の領有権をめぐって対立しています。そして南シナ海での中国の横暴な振る舞いでアジア諸国が緊張しています。
軍事的対決がやがて戦争になる可能性もあり、日本にとって中国は警戒すべき仮想敵国だと言う人も多くなっています。
しかしその一方で、やく20000社(2万社)の日本の企業が中国に支店や工場を持っていて中国との経済交流を行っています。
したがって戦争を避け、中国との友好関係を築くことは日本の将来にとって非常に重要なことです。いたずらに感情的なっては国益を害するのです。
そこで以下に中国人を愛し、中国の土になる決心をした日本人達をご紹介いたします。
少し昔の話ですが、以下の歴史を忘れないようにしましょう!
@日本へ帰らない中国の残留孤児達の育ての親への愛
1980年代末、北京でのこと。日本の新聞には戦争残留孤児が続々と帰って来たというニュースが溢れていました。
当時、筆者を北京へ招待してくれた北京鋼鉄学院の周栄章教授が、ある日、私を庶民向けの北京ダック専門店へ招待してくれました。
その周教授の言葉です:「日本の新聞には残留孤児帰国の記事が多いそうですが、それには中国では別の問題が起きているのです。中国人に大切に育てられた日本人の子供は帰る決心がつかないのです。生みの親より育ての親と言うでしょう。日本に帰れば経済的に助かる。それが分かっていても、名乗らない孤児の方が多いのです。私の知り合いにも名乗らない人がいます。帰らないで中国に骨を埋める決心をしている残留孤児を中国人は尊敬しています」
日本の新聞は名乗り出ない残留孤児も多くいることを一切報道しません。ですから私は大変吃驚しました。 しかし私は中国の土になると決心した残留孤児を誇りに思いました。と同時に、彼等の郷愁を想い、深い同情を禁じ得ませんでした。彼等に幸多かれと祈りました。
@中国に永住している残留技師
自分の残留事情を日本の本屋から出版した人もいます。岩波新書の「北京生活三十年」を書いた市川氏である。満州にいた市川氏が残留技術者として北京市へ移り、三十年間、同市重工業部で機械技術の仕事をしてきた体験記です。
市川氏は東北大学の金属工学科の同じ研究室の先輩であったため、的場教授から中国で消息不明になった市川さんの安否を調べてくれと頼まれたのです。それは1981年のことでした。
そこで次回に北京へ行った折に、中国政府の金属工業省に市川氏の調査を頼みました。
そうしたら、4、5日して人民大会堂で開催された歓迎会の折、市川氏が現れたのです。そして私の隣の席に座ったのです。小生は市川氏へ的場教授が心配していることを伝えました。
「先生のご恩は忘れたことがありません。しかし、中国に骨を埋めることにしたとお伝えください」と言って、並んでご馳走を食べます。あまり話さず、ニコニコして食べるだけです。
彼は日本へ帰ろうと思えばいつでも帰れる立場にあったはずです。そうしなかったのは中国の独立と建国へ日本人として貢献したかったらしいのです。中国人へ対する愛着や愛情がそうさせたに違いありません。
中国の土になると決心した日本人達の動機は「愛」に違いありません。愛は国家や人種を超越するという実例です。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~lycoris/china-hana.html です。
上は善巻洞の近くの張公洞の2次林に自生する中国石蒜(Lycoris chinensis)。
下は焼き物で有名な江蘇省宜興に近い善巻洞の松林の中に咲いているヒガンバナ科の換地錦(Lycoris sprengeri)。