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後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

河口湖自動車博物館へ行ってきました

2014年08月28日 | 日記・エッセイ・コラム

河口湖自動車博物館の隣には河口湖飛行機館も並んであります。こ両方の博物館の展示物は原田信雄氏の個人的なコレクションなのです。

この自動車博物館の方は数十年前に開設され、以前は通年開館していました。私も何度も見に行きました。
それが随分前に閉館となり暫く公開されていませんでした。...

ところがいつのまにか夏の8月だけ公開されるようになったのです。
今日は朝から家を出て、久しぶりにゆっくり見て来ました。
自動車の展示は以前と変わらずイギリス、ドイツ、イタリア、フランスなど各国。数多くのクラシックカーが展示してありました。

1886年から1950年までの車はHALL-Aに展示してあり、1950年から2000年までの車はHALL-Bに展示してあります。
自働車には作られた国々のいろいろな時代の文化を積んであります。乗り回した家族の喜びと悲しみが沁みこんでいます。戦前生まれの私にとって、いろいろな時代の車を見ると当時の社会の雰囲気がよみがえって来ます。
自動車はまさしく文化遺産です。展示してある自動車の一台、一台を見ながら過ぎ去りし日々の思い出を楽しんで来ました。

一番目の写真は1933年のイギリスのライレー/ケストレルで6気筒1083cc・26馬力のスポーティ・セダンです。イギリスの落着いた伝統的なスタイルをしています。当時のイギリスの中流階級に人気があったそうです。

二番目の写真は1934年のシトロエン7CVで4気筒1303cc・32馬力です。
前輪駆動、フラット床、独立懸架など現在の前輪駆動の乗用車の構造の基礎を作った車です。
1934年から1957年までの23年間で75万台が作られたそうです。

尚、河口湖自動車博物館の別館には河口湖飛行機博物館もありゼロ戦や戦後のジェット戦闘機が展示してあります。
詳しくは、
http://www.car-airmuseum.com/  をご覧下さい。
なお、
http://www.interq.or.jp/sun/mm-kas/hakubutu/hakubutu.htm や、http://waypower.blog.so-net.ne.jp/2012-09-02 にもいろいろ情報があります。
なお三番目の写真は、河口湖自動車博物館と河口湖飛行機館のオーナーの原田信雄氏の写真です。この写真では、原田氏は旧日本陸軍の戦闘機「隼」の尾翼とともに立っています。
この写真は2013年の8月31日に撮影しました。
この写真の出典は、http://www.worldtimes.co.jp/today/kokunai/130922-5.html です。
 
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日本一古い学校、足利学校とタイ式のお寺を訪問した小さな旅の思い出

2014年08月28日 | 日記・エッセイ・コラム

関東平野は広いものです。その一隅の小金井市に50年以上住んでいますが栃木県、群馬県、茨城県などははるか遠方で行ったことがほとんどありません。

しかし2009年7月に思い立って、栃木県、足利市へ小さな旅をしました。それには特別な目的があったのです。

日本へキリスト教を伝えたザビエルが日本にも大学があると称賛した足利学校を見に行こうと計画したのでした。何年も行きたいと思っていたところです。

自分で車を運転して行った1泊2日の小さな旅でした。

一日目は東北自動車道路を経由して足利市に入りました。

その学校は平安末期の足利氏の堀に囲まれた館の跡地にありました。

お堀にかかった橋を渡り正門から入ると足利学校の復元された校舎、施設などがあります。下に堀に面した正門の写真を示します。

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そして下の写真は堀の向こうに見える校舎を示します。

堀に囲まれている範囲の右半分に足利学校が復元されています。そして左半分が現在の鑁阿寺(ばんなじ)の境内になっています。

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足利学校は一説には平安時代の小野篁の創建、鎌倉時代の足利義兼、そして室町時代の1487年、時の関東管領、上杉憲実による創建など3説があります。

いずれにしても、堀に囲まれた広い敷地に、平安時代末期から学校があったらしいのです。日本古来の広い校舎を持った学校を見るのは初めてなので非常に感動しました。

この足利学校と室町幕府を開いた足利尊氏とはほとんど関係が無かったと言えば正確な表現です。足利尊氏の祖先が足利の出身だったに過ぎないのです。

足利尊氏は京都で育ち、関東へは鎌倉までしか来なかったそうです。

それはそれとして、足利学校では何を教え、学生たちは何人くらいいたのでしょうか。

正確な記録は残っていないようですが、教育内容の主なものは儒学でした。孔子の教えとその弟子たちに関する講義が主でした。そして唐時代の漢詩や漢文学も教えました。儒学も漢文学も、漢文の文法と無数の単語の意味を勉強しなければなりません。勉強はかなり厳しかったようです。

学生は全国から集まった裕福なお寺の子弟、そして有力な武士階級の子弟でした。学生の総数は時代によって変わりましたが、おおよそ数百人と言わています。

学生の一部は学校内の宿舎に泊まり、他は近所の家々に下宿していたそうです。修業年限は2年から4年で学生の実力や個人的理由で自由だったようです。

鎌倉時代、室町時代、江戸時代の我が国の儒学の総本山的な学校だったのです。

足利学校の見学を終えてから宿泊地の前橋市に車を走らせました。

予約してあったホテルに着いたら傍に不思議なお寺があります。屋根の構造がタイのお寺の特徴を持っているのです。

直ぐに境内に歩いて入って行きました。そのお寺は東福寺(真言宗)と書いてありました。下にそのお寺の写真を示します。

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そうしたら本堂の正面にいきなり仏足石があるのです。下がその写真です。

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お釈迦様は、亡くなるとき仏像などの偶像を厳しく禁じたのです。弟子たちは困って足跡なら良いだろう考えてつくったものです。それが仏足石です。

下の写真はこの仏足石の説明です。

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上の説明板によると、このタイ式の屋根を持ったお寺の住職さんが、インドのブッタガヤまで行って、そこの佛足石の拓本をとってきて再現したものです。

その真摯な姿勢に感動しました。

そこで翌朝、もう一度訪ねました。出て来た住職様のお話によると、先代の住職だった父がブッタガヤへ行って写してきたそうです。

その帰りに、タイを巡礼し、何故か感動してタイ式のお寺を作ったそうです。

作る時に日本の屋根屋さんが苦労して作ったことも話してくれました。

私が「お釈迦さまを身近に感じられることに感動しました」と申しますと、若い住職様は「そうです。それが一番です」と答えます。

まあ、それだけのことですが、祖父がお寺の住職をしていたのでいろいろ昔のことを思い出して大変楽しい旅になりました。

そんな5年前の家内と一緒のささやかな旅でした

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)