後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

北海道の野山に自然に咲く花々(続き)

2014年08月12日 | 写真

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上は高さ1~2mにもなるアザミで、頭花の枝が長く高くつき上がることら「高薊」と名付けられました。
 本種は北方系のアザミで、東北地方から北方の湿り気のある草原に生育します。
 盛夏を過ぎた頃、枝端に数多くのうつむいた頭花を付けます。背丈も高く、花の数も多く、一本生育しているだけでも存在感のある植物です。
    生育地:湿った草原、原野      背 丈:1~2m    花 期:8~9月

ての写真の出典は、「北の大地図鑑」 http://blogs.yahoo.co.jp/kouyu_kikaku1116 です。

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上はノビルです。 野原や道端などに普通に生育するため、野原に生える蒜と言う意味で、「野蒜」度名付けられました。蒜は、ネギ、ニンニク類の総称です。
直径1.5㎝位の鱗茎を持ち、2~4枚の葉が出ます。葉は線形で、長さ20~30㎝、幅2~3㎜、中空で断面は三日月形をしています。
 初夏の頃、40~60㎝ほどの花茎を伸ばして、その頂に疎らに白い花を付けますが、初めは総苞に被われていてくちばし状をしています。花のうち、一部、または、全部が珠芽(むかご)に変わるものがあります。
 鱗茎や若い葉は食用になります。
 生育地:道端、野原など     背 丈:40~60㎝    花 期:5~6月

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上はリシリオウギ(マメ科):

茎の下部が地表を這い、斜上します。
 葉は奇数羽状複葉で小葉は7~13枚あり、裏には軟毛が密生しています。
 花は葉腋から出る花序に5~10個つき、長さ1.5㎝ほどの蝶形花です。がく歯は狭い三角形で先が尖り、黒褐色の毛が多い。
 果実の莢は少し膨らんだ7袋状でこれにも黒褐色の毛が多い。
 利尻黄耆で、発見地に因んだ命名だと思われるが、利尻山のほか大雪山、本州中部地方にも分布します。
 イワオウギタイツリオウギに酷似しますが、果実の形が全然異なること、タイツリオウギより小葉の数が少なく(タイツリは小葉は13~23枚)、イワオウギよりも花の数が少ない(イワオウギは10~30個)ことなどの違いがあります。
生育地:高山の礫地や砂地など    背 丈:15~30㎝    花 期:7~8月


夜の日本を「戦争」という妖怪が徘徊し始めた・・・昭和の戦争を思い出そう!

2014年08月12日 | 日記・エッセイ・コラム

最近、憲法を改正し、富国強兵の道を歩み出そうという空気を感じています。

危険な空気が流れているのです。

夜な夜な日本に「戦争」という妖怪が徘徊しはじめているのです。

軍備強化して韓国や中国に馬鹿にされないようにしようという空気が流れています。
韓国や中国を憎悪して、戦争も辞さないという空気が流れています。

この空気は非常に危険です。悪魔の誘惑です。
そしてその空気を察した国会議員たちも、選挙で当選するために旗を振って煽り立てています。
国会の過半数の議席を有する自民党は露骨にも憲法を全面的に改正し、再び富国強兵の道を歩もうとしています。
この時期に日本の国民が団結して行なった昭和の戦争をもう一度、思い出しましょう。

日本が再び誤った歴史を繰り返すことの無いように以下の記事をお送りしたいと思います。
特に戦争を知らない若い年代の日本人に是非読んで頂きたいと思います。
第二次大戦にいたる日本は支那事変を起こし、満州事変を始め、満州帝国をつくりあげたのです。満州国を独立させたのでアメリカやイギリスが本気で怒り出したのです。

この一連のことを多くの国民は歓声を上げて喜んだのです。
しかし戦後のになると、すべての戦争は
軍人の勝手な行動だったと言います。
ですから悪いのは軍人です。一般の日本人は戦争に一切責任がありません。
こんな主張が戦後の社会に横行していました。学校教育でも私達はそのように教わりました。

しかしよく考えてみると、それは全く間違った主張です。全く間違った理解です。
昭和の日本社会の空気は戦争推進でした。戦勝に酔いしれていました。ですから国民全員に戦争の責任があったのです。 少年だった私も真珠湾攻撃を喜びました。
真珠湾攻撃で全国民は狂喜したのです。その事を忘れてはいけません。
天才的な画家の藤田嗣治さえ戦意高揚の絵画を沢山描いたのです。アッツ島玉砕の自分の絵の前に軍服姿で立って、その絵を見に来た人々へ会釈をし、浄財を集めたそうです。
軍部の独走以上に戦争を推進した政治家は近衛文磨首相と松岡洋右外相と思います。
戦後、日本人は東條首相だけを悪く言い、自殺した近衛文磨と東京裁判中に病死した松岡洋右のことを許したのでしょうか。松岡洋右は1932年2月に国際連盟から日本だけが脱退する名演説をしたのです。
満州の皇帝に清朝の最後の皇帝だった溥儀を即位させ、満州帝国を独立国にしようとしていたのは近衛文磨です。

そして満州国の成立によって国民も歓喜したのです。 

これで米英が本気で怒りだしたのです。満州帝国の独立こそがあの悲惨な太平洋戦争の出発点だったのです。
それから急速に日米開戦への坂道を転がり始めたのです。社会の空気が戦争への道へ繋がったのです。
そして真珠湾攻撃です。国民が喜びました。
しかしその後は、激戦から玉砕につぐ玉砕、そして特攻隊の犠牲、日本中の戦災と沖縄戦、原爆投下、ソ連軍の満州蹂躙と未曾有の惨劇を体験したのです。

最近、戦争も辞さないという狂気が日本社会に流れ出したのです。それは非常に危険な空気なのです。

「戦争」という妖怪が日本を夜な夜な徘徊し始めたのです。

この時期に日本の行なった昭和の戦争を思い出し、日本が誤った歴史を繰り返すことの無いように祈りたいと思います。

日本が誤った歴史を再び繰り返すことの無いように十分過ぎる用心をするべきです。

下に日独伊三国同盟を喜ぶ童画と近衛文磨と松岡洋右の写真を示します。

1938_naka_yoshi_sangoku1

上の童画の上端の真ん中が近衛首相の写真でヒットッラーとムッソリーニに囲まれています。下の写真の左が近衛首相で右が松岡外務大臣です。

Fumimaro_konoe1 Ysuke_matsuoka1

そして下には満州帝国の首都だった新京(現在の長春)の立派な中央通りです。Manchukuo_hsinking_avenue1

下がハルピンの日本百貨店の写真です。

Tokiwa_department_store_in_harbin1

======参考資料===================

近衛文磨 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E6%96%87%E9%BA%BF

松岡洋右 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B2%A1%E6%B4%8B%E5%8F%B3

満州国 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E5%9B%BD