もっと虚心坦懐に、そして冷静に開戦の時の御前会議の議事録など<wbr></wbr>を読み返すべきです。
その議事録にはアジアの解放戦争なんて一切書いてありません。
昨日のFace Bookで、会員の横川 和門さんが侵略戦争だったことを明快に説明して下さいました。
====横川 和門 さんから頂いたコメント===========
客観的に淡々と判断すれば、太平洋戦争は日本による侵略から始ま<wbr></wbr>りアメリカによって敗けた戦争ですね。
あの戦争がアジア解放の為の戦争ではなかった事は既にあらゆる面<wbr></wbr>から証明されています。...
天皇の名前で出した開戦の詔勅にもアジア解放のアの字も出てきま<wbr></wbr>せん。
当時の日本の国策は、アジアから西欧列強を追い出して日本が新し<wbr></wbr>い支配者になる事でした。
当時の政府の文書にはっきりと書いてあります。
昭和15年7月の四相(首相、外相、陸相、海相)会議で決めた政<wbr></wbr>策大綱に「英、仏、オランダ、ポルトガル植民地を東亜新秩序の内<wbr></wbr>容に包含せしむる為の積極的処理」とあります。
東亜新秩序とは日本を支配者としたアジア、積極的処理とは武力に<wbr></wbr>よる侵略です。
そして更に「八紘一宇の皇道に基づき、帝国補導のもとに」「軍事<wbr></wbr>、外交、経済等の全般にわたり、帝国の強力なる把握下に置かるべ<wbr></wbr>き」などと、アジア諸国を日本の植民地、傀儡国にして、それまで<wbr></wbr>貿易で手に入れていた石油などの重要資源を武力で奪うとあります<wbr></wbr>ね。
アジア諸国は戦後独立を果たしましたが、日本が勝っていたら日本<wbr></wbr>の植民地、属国になっていた可能性は否定できません。
日本が負けたお陰で独立出来たのです。
日本のアジア支配の為に邪魔になる米英を叩いておこう、と始めた<wbr></wbr>のが太平洋戦争でした。
天皇を中心とする御前会議の決定が文書として残っています。
そして日本が南方を侵略している時にアメリカ太平洋艦隊が横から<wbr></wbr>出てきて邪魔しないようにとあります。それゆえに、こちらから出<wbr></wbr>掛けていって米太平洋艦隊を叩きつぶしたのがあの真珠湾攻撃でし<wbr></wbr>た。
もしアジア解放が目的だったら、先ず日本自身が台湾、満州、海南<wbr></wbr>島を中国に返し、朝鮮を再独立させ、中国・仏印から撤兵しないと<wbr></wbr>いけません。
開戦後、日本軍が占領したところでは初めは解放者として迎えられ<wbr></wbr>たケースもありましたが、日本軍は拙劣で暴力的な支配を行い、現<wbr></wbr>地経済を崩壊させ、物資を収奪し、反抗するものは拷問、虐殺、、<wbr></wbr>、フィリピンやインドネシアでは日本の兵隊に会ったらお辞儀しろ<wbr></wbr>という命令まで出しています。
フィリピンでは日本占領3年の間に物価が100倍に高騰、元々貧<wbr></wbr>しかった住民は益々困窮しました。
比較的うまくいったと言われるビルマですら、日本の利権漁りの余<wbr></wbr>りのひどさにビルマ方面担当の第十五軍司令官・鈴木祥二郎中将は<wbr></wbr>「これでは大東亜共栄圏も聖戦もあったものではない」と書いてい<wbr></wbr>ます。
また、シンガポールを占領した山下奉文司令官は天皇誕生日に現地<wbr></wbr>住民に訓示した、「このたび新たに大日本帝国の臣民となったマレ<wbr></wbr>ー住民と共に聖寿をことほぎ奉り得る事は本職の衷心より欣快とす<wbr></wbr>るところである。マレー、スマトラの民衆はよろしく光輝ある帝国<wbr></wbr>の新しい民である光栄に感激し、帝国の尊厳なる国体を意識してそ<wbr></wbr>れぞれその生業に励むべし」まぁ、征服者意識丸出しですね。
そして「独立」と言っても実情は日本の武力を背景にした傀儡政権<wbr></wbr>でした。それが証拠に、昭和18年11月に東條が東京で行った大<wbr></wbr>東亜会議に参加した政権はすべて日本の敗戦と同時にあっと言うま<wbr></wbr>に消えてしまった。元々民衆の支持のない薄っぺらいものでした。<wbr></wbr>大東亜会議に招請された「国」は以下の通り。
中華民国(南京)国民政府:汪兆銘行政院長
日本軍がでっち上げた傀儡政権。日本敗戦の翌日に消滅。日本はこ<wbr></wbr>んな事をやって蒋介石の国民政府を弱体化し、結果的に毛沢東の共<wbr></wbr>産軍を助けて中国の共産化に寄与してしまった。
満州国:張景恵国務総理大臣
言わずと知れた関東軍の傀儡政権。日本敗戦と同時に消滅。張景恵<wbr></wbr>は戦後中国で国賊として獄中で死亡。皇帝の溥儀は投獄。
フィリピン共和国:ホセ・ラウレル大統領
日本が作ったフィリピン第二共和国の大統領。日本敗戦の二日後解<wbr></wbr>散。日本へ逃げていたラウレルは帰国後、国賊として逮捕。
ビルマ国:バー・モウ内閣総理大臣
日本軍がでっち上げたビルマ国は日本降伏とともに消滅。バー・モ<wbr></wbr>ウは日本に逃げていたが帰国後国賊として逮捕。
タイ王国:ワンワイタヤーコーン親王
大東亜会議には元首を送らずにこの王子を送ってごまかした。
タイ政府は日本軍に脅かされて日タイ攻守同盟を結び連合国に宣戦<wbr></wbr>布告。同時に裏で連合国と手を結んだ。この二重外交のお陰で戦後<wbr></wbr>の訴追を免れた。
自由インド仮政府首班のチャンドラ・ボース
この政府は戦後たちまち消滅。
シンガポールやインドネシア、マレーは占領して二年近くになるの<wbr></wbr>に形だけすら独立させていませんでした。
という事で、戦後アジア諸国が独立を果たしたのは「日本のお陰」<wbr></wbr>ではなくて「日本が負けたお陰」でした。
日本が勝っていれば日本の属国、傀儡国、植民地になっていました<wbr></wbr>。それが当時の日本の国策だったのです
フィリピンについては元々、アメリカが独立させる予定でしたし、<wbr></wbr>日本の独立承認ってのは意味が薄いです。
米軍が迫るとマニラ蜂起で日本に犯行してる程です。
日本が形の上でインドネシアを独立させる方向になったのは戦争が<wbr></wbr>敗戦方向で米軍の飛び石戦術もあり、インドネシア住民のご機嫌取<wbr></wbr>りをせざるを得なかったからです。
以上、長文失礼しました^w^
マネ、モネ、セザンヌ、ピサロ、ミレー、ドガ、ルノワール、ホイッスラー、カイユボット、バジールなどなどの印象派の油彩画がゆったりと展示されていました。
それぞれの画家の出来の良い作品を選んで持って来たオルセー美術館の学芸員の見識に頭が下がりました。失敗作が混じっていないのです。
特にマネの笛を吹く少年の画は何度見ても何故か感動します。
それにモネのサン・ラザール駅の風景画の前にはつい立ち尽くしてしまいました。40年以上前にパリで初めて見たときの感動を思い出します。
それにマネの「ロシュフォールの逃亡」は感動です。沖の波の上の船に、逃亡者が数人乗っているだけの絵です。波の色合いが柔らかで美しいのです。そして美しいだけでなく、立ち騒ぐ波が船を揺らし、逃亡者の不安な気持ちが私にも伝って来るのです。
この展覧会は10月20日(月)まで開催されています。絵画のお好きな方々にとっては必見の展覧会です。但し、かなり混みますから週末や祝日は避けた方が良いと思います。
なお美術館の専用駐車場はありません。100m位離れた「ミッドタウン」の広い有料駐車場場が便利です。10分100円でした。
下にオルセー美術館展のポスターと国立新美術館の写真を示します。
私は自分の個人的な経験から韓国人を尊敬しています。
韓国人を尊敬していると書けば国賊と非難されそうな昨今の社会の空気ですが、まあ怒らずに静かにお読みください。
日韓友好のための一助になれば幸いです。
それは韓国浦項製鉄所の技術研究所の所長をしていた金鉄佑さんのことです。
私を韓国へ招待してくれた人でした。昨年亡くなってしまった忘れ得ぬ人です。
話の発端は1962年から1966年の昔のことです。
当時、東京大学工学部付属研究所に「生産技術研究所」がありました。
その研究所の雀部高雄教授の研究室に金鉄佑さんが所属していました。
金さんは、その時代の韓国の政府の政策に反対する政治運動もしていたらしく、日本の警察に逮捕され拘置所に長く拘留されていたのです。
人徳豊かな雀部高雄教授はその弟子の金さんの釈放を求める署名運動をしていました。弱きを助ける雀部教授を尊敬していた私は進んで署名しました。
署名はしましたが長く釈放されなかったので、私は金鉄佑さんと一度も会ったことがなく20年近い月日が流れました。
そして1984年頃、突然、金さんから封書が届きました。知らなかったのですが彼はその後韓国に帰り、浦項製鉄所の技術研究所の所長になっていたのです。
そして私を韓国の金属学会の大会で講演するようにと準備万端整えて招待してくれたのです。
我々夫婦を招待して慶州のお寺や古墳群や、そして釜山や大丘やソウルの観光案内もしてくれました。案内してくれたのは韓さんという技師さんでした。
浦項製鉄所では立派なゲストハウスに泊めてくれたのです。
私は始めて韓国を訪問したのでしたが、人々の親切さに感銘を受けたのです。
金鉄佑さんとは初めて会いましたが、旧知の仲のように雀部高雄教授の思い出話をしました。雀部教授はその当時には既に亡くなっていたのです。
そして雀部教授から受けた恩を縷々話していたのです。
韓国は儒教の国で、人々は恩義を絶対に忘れないのです。
それ以来、私は韓国人を尊敬しています。
「金鉄佑」のことは、(http://www.47news.jp/CN/201312/CN2013120701002333.html)に出ています。
上のような体験をし、帰国後、私は安重根に関して日本語で出版された本を買って、読みました。
彼はトマスという洗礼名を持ったカトリック教徒だったのに、初代朝鮮総督の伊藤博文を暗殺した男です。
伊藤博文を満州のハルビン駅頭で射殺したのです。
それは朝鮮併合が起きる前年の1909年10月26日のことでした。
トマス安重根はロシア蔵相ウラジミール・ココツエフと伊藤博文の会談を警護していたロシア兵に捕まり、2日後に日本側へ引き渡され、満州の旅順の刑務所で1910年、3月26日に処刑されたのです。
それから5カ月後の1910年8月22日に朝鮮併合が完成し、大韓帝国が消滅したのです。
カトリックにとって暗殺は大罪です。
当時の大韓帝国のカトリック司教団から神父たちがトマス安重根との接見を禁じたのです。
しかし安重根に洗礼を授けたフランス人司祭のジョゼフ・ウイレム神父は刑務所にいる安重根を訪ね、処刑の前にイエス様の肉体の象徴としてのパンを与えたのです。
旅順刑務所で看守をしていた日本人の千葉十七は、トマス安重根と何度か話をしているうちに安重根の考えに共感を覚えます。そして安重根は処刑前に墨で書いた見事な文章を千葉看守へ贈っています。その時、彼が千葉へ、「東洋に平和が訪れ、日韓の友好がよみがえったとき、生まれ変わってまたお会いしたいものです」と語ったそうです。
千葉は終生、安重根の供養を欠かさなかったのです。千葉十七とその妻の墓は宮城県栗原市(旧若柳町)の大林寺にあり、そこには1981年に安重根の顕彰碑が建てられたそうです。
また旅順刑務所長、栗原貞吉も安重根へ好意を示しました。煙草などを差し入れ、裁判長に直接会って安重根の助命嘆願をしました。
しかし処刑は目前になります。栗原貞吉所長は安重根へ処刑の時着る絹の白装束を与えたのです。死刑執行後、栗原は安重根の死を悔やんで郷里の広島へ帰ってしまったのです。
現在の韓国ではトマス安重根は抗日闘争の英雄とされ、国民的英雄として非常に有名です。ソウル市には「安重根義士記念館」が1970年に建設されています。
心ある日本人がもし日韓友好を考えるなら、現在の韓国人がトマス安重根をどのように評価しているいかを理解することも重要と信じています。
これだけの話です。日韓友好の一助になるようにと祈っています。
下に韓国の国花のムクゲの花の写真をお送り致します。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平穏をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
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