夏になると宮沢賢治を思い出す。・・・サムサノナツハオロオロアルキ・・・という言葉が子供心に何故か焼き付いてしまったから。人それぞれ思い出す文章が違うと思うが。
風の又三郎を思い出す人も居る・・・さわやかな九月一日の朝でした。青ぞらで風がどうと鳴り日光は運動場いっぱいでした。・・・・
昨日、賢治への連想に関して記事を掲載したあとで、奇しくも2つの展示会の案内が手元へ来たのでご紹介します。
その一、「絵で読む宮沢賢治展」ー賢治と絵本原画の世界ー日本橋三越本店 別館8月12日(火)から21日(木)まで、入場料、一般700円、高校・中学生500円、ギャラリートーク8月12日(火)11:00時かた13:00時迄。宮澤和樹氏(賢治の弟、清六氏の孫)、問い合わせ電話番号:03-3274-8702
その二、児玉房子がガラス絵で描く「宮沢賢治の世界」、8月1日(金)から31日(日)迄。11:30時から19:00時迄。JR御岳駅前の河鹿園(大広間、月の間、渡り廊下)にて。入場料は無いが、会席料理を食すのが入場の条件。(メニュー、料金などはこのブログの6月29日の記事、「中年夫婦へお勧めする河鹿園」に掲載。詳しくは、http://www.kajikaen.co.jp をご参照下さい。最後に河鹿園から多摩川の向こうにある玉堂美術館の写真をご紹介します。ガラス絵の展示を見たあとで是非、玉堂の絵もお楽しみ下さい。(終わり)
(スイス観光局ホームページより)
暑い日々が続くので暑気払いに怖い話をもう一つお送りします。
1970年、夏、チューリッヒのそばの田舎の民宿に泊まった。上の写真のように晴天のチューリヒは素晴らしい。少し遊びすぎて夕方に出発し、レマン湖へと車を走らせた。やがてトップリと日が暮れる。田舎道には街灯も無く漆黒の闇。遠方の農家の明かりがかすかに見えるだけ。行けども、行けども民家が無い。やがて貧しげなに差し掛かる。古風な一軒の民宿がある。案内を乞うと、ドアが開いて中年の大男が無言で現れる。顔がフランケンシュタインに似ている。ドイツ語で一泊したいが、と言う。無言で頷き、入れという身振りをする。
2階の部屋へ泊まれという。薄暗い部屋には高さ3mもあるような古い洋服ダンスと堅いベットがある。何か出て来そうな気がしてタンスの方に眼が行ってしまう。フランケンシュタイン一族の子孫は、現在でもスイスに住んでいるという。それを思い出しながら廊下を見ると、そこに古風な扉付きの大きな本箱がある。そっと扉を開けてみると分厚い本が積んである。表紙を開いてみると人体解剖の図が、色彩鮮やかに多数印刷してある。髑髏や骨格の解説図もある。
怖くて眠れない。ウトウトしていたら真夜中になってしまった。は寝静まり物音一つしない。と、廊下の方でギ、ギーと扉が開く音がするではないか。家内も聞いたらしく、起きて見てきてという。意を決して見に行くと重い木の戸が半分開いている。誰も居ない。うず高く積んだ解剖書があるだけである。力いっぱい戸を閉めてくる。
朝、目が覚め窓から見下ろすと、民宿の娘がのパン焼き釜から棒状のパンを抱えて帰ってくる。
朝食は、パン、バター、ジャム、に大きなポットの熱い牛乳とコーヒーだけ。
怖い顔の主人が座り、やはり怖い雰囲気の妻と娘が無言で給仕してくれる。
ところが給仕の所作が実に丁寧で親切である。いかにも遠方から来た客人をもてなそうとしている気持ちがあふれている。暖かい雰囲気に包まれて質素な食事を楽しみながら、ゆっくりと食べる。朝食後、美味しかった。有難う。と主人へ言うとニャっとして「何処からですか?」、「シュツットガルトから来ました。日本人です。週末にはチューリッヒやボーデンゼーによく来ます」、「また是非ここに泊まって下さい」
本当にまた泊まってくださいと心から言ってくれる。何故、昨夜、彼らと話もせず部屋に上がったのが悔やまれる。フランケンシュタインの亡霊を怖がったのがウソのように思う。尚、フランケンシュタインの凄い画像を見たい方は下記のURLに12枚あります。怖がり症の方は見ないで下さい。(終わり) http://www5d.biglobe.ne.jp/~gogomaru/sunanofre/sample2.html
宮沢賢治が1933年、37歳で亡くなってから75年。「注文の多い料理店」を連想しながら昼食を食べたので、ご報告します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
イギリス風の身なりで猟銃を持った2人の青年紳士が山奥に狩猟に行った。山の異様な雰囲気には気付いて、宿へ戻ろうとするが、山には一層強い風が吹き、木々がざわめいて、帰り道を見つけることができない。途方に暮れたとき、青年たちは西洋風の一軒家を発見する。そこには「西洋料理店 山猫軒」と記されている。 入ってみると、「当軒は注文の多い料理店ですからどうかそこはごしょうちください。」という注意書きがあるのに気付く。
注意書きの多さに、2人がいぶかしんだ頃、、、、、
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
甲斐駒の麓の山林の中の小屋に泊っているとプロのシェフの作った料理が恋しくなる。でも近辺は山林ばかり。少し下がると水田が広がり、青々とした稲の匂いが夏風に漂うばかり。見渡す限り何も無い。
車を駆ってあちこち遠方までレストランを探しまわる。と、水田が尽き山林が始まるところに忽然と瀟洒なレストランがあるではないか。その時、フッと「注文の多い料理店」の中で、途方に暮れた青年たちが林の中で西洋風の一軒家を発見した様子を連想した。今は夏の真昼。どういう訳か幼少のころから、人気のない真昼に異様な恐怖感にとらわれる。
「テラス」という店名の看板があるだけで森閑としている。不気味な気もしたが空腹には耐えられない。入ると誰もいないダイニングがあり、その向こうに広いテラスがある。営業中のようだ。
しばらくすると老紳士然とした主人が急に現れる。昔風の言葉で挨拶をして、席へ招き、冷水のグラスとメニューを差し出す。ハヤシライスとスパゲティを注文すると、「かしこまりました」と足音も無く消えて行く。それからは静寂の時間が長く続く。裏の林で鳴く蝉の声だけ。
待っている間、「注文の多い料理店」のストーリーを思い出している。まさか自分が食べられるとは思わないが、どんな料理が出て来るか不安である。一緒に行った家人が怖がり症なので宮沢賢治の童話の話はしないで待つ。
しばらくして主人が料理を持って来る。私、「ブログで紹介したいので写真を撮って良いですか?」、主人、「写真は良いですが、場所や電話番号を出さないでください。お客が多すぎると困りますので」
料理の味は?良く冷えたコーンポタージュスープが秀逸である。地元のトウモロコシと北蓼科のある牧場の牛乳と熊本の天然塩だけのスープだと主人が静かに説明する。
続く料理の味は年配の穏やかな夫妻の人柄が表れているようだ。料理の好みは人それぞれですね。
とにかく、レストランの窓からの眺めが良い。稲の香りが涼しい風に乗って吹いて来る。蝉の声がする。そして宮沢賢治を連想させてくれた。ありがたい気持ちで帰路につく。場所は主人との約束があるので一切ご説明しない。皆様も旅先でこんな経験をなさったことがあるでしょうか? (終わり)
最近は多くの日本人が家族連れで外国に在住している。子供の教育は各地の日本人学校か現地の学校か迷うと思う。以下はささやかな経験である。ご参考になればと思いご紹介します。
◆幼稚園発祥の地?
1969年―1970年、スツットガルトで七歳の娘と五歳の息子をドイツの小学校、幼稚園へ入れたときの顛末記。まず息子を近所の幼稚園へ連れて行き園長に会う。
「園長先生、ぜひ息子を入園させてください」「この近所は移住して来たギリシャ人やトルコ人が多くて順番待ちが三十人ほどいて、とてもとても」
「以前アメリカにいたが幼稚園のことは英語でもキンダーガーデンと言ってドイツが発祥の地と信じていました。その本物の幼稚園へ息子を一年だけでも入れてくださいませんか?」
「ウーン、困った」「そこをなんとか」「仕方ない、一年だけという条件なら何とかしましょう」
ドイツが幼稚園発祥の地と信じていますという話で園長先生の顔が誇らしげな笑顔になった。園長が言う。
「貴方はさっきから英語ですが、うちではドイツ語だけですよ。教育方針は学習よりも小学校へ上がったときに集団生活ができるような訓練を『遊び』を通して行います。個性を殺さないで集団生活をするようにするのが幼稚園のモットーです。学力はつけません。貴方は科学者のようですが秀才教育は幼稚園ではしません。それを希望でしたなら家庭でしてください」「個性を殺さないで集団生活をさせるとは素晴らしいですね」
園長は家内の方を向き「息子さんが来るときは必ず幼稚園の門まで送ってください。帰る時は必ず門の外で待っていてください。迎えに来るまで子供は帰しません。それから参観日以外は絶対に門の中に入らないでください。それがルールです」
ドイツ語のできない息子は幼稚園の若い女のシュール先生にすっかりなついてしまい毎日が楽しそう。家ではよく先生の話をする。子供同士の遊びに必要なドイツ語はすぐ身につく。
◆小学校は職業学校のために
続いて娘を小学校へ連れていく。今度は女の校長先生。
「英語で失礼します。日本では2年生でしたので2年生に編入してくれませんか?」「良いですよ。ただし勉強について行けなかったら1年生にさがりますよ。明日から来てください」
すんなり転校が決まる。
「勉強は難しいのでしょうか?」「この小学校の卒業生の80%は職業学校に上がります。ドイツの大学進学率は6%ぐらいですから大部分は二、三年で卒業できる種々の職業学校に上がります」
「大学へやるにはどうするのですか?」「この小学校を出て六年制のギムナジュームへ進みます。学力が必要と思ったら家庭でつけてください。この小学校の教育は大学進学のためではありません」「承知しました。それでは明日から宜しく御願いします」
娘もドイツ語の書き取りには苦労したが、すぐに学校になじんだ。日本では小学一、二年のレベルの読み書き算術を重点にしたやさしい勉強なので苦労なしについていく。近所のパン工場を見学したり市役所を見に行ったりして地域の仕組みを丁寧に勉強する。理科もレベルの低い簡単な自然現象をその原因と結果の因果関係を何度も何度も丁寧に教える。
一番感動したのは参観日に聞いた娘のクラスの合唱である。当時日本ではウイーン少年合唱団が有名でテレビで何度か聞いた。
参観日の合唱はそれと差が無い。綺麗な声で唄う発声法がよく訓練されている。ハーモニーが美しい。日本の学校の音楽の授業では「大きな声を出して元気に唄いましょう!」
当然大声でどなるような発声法になる。校庭での校歌斉唱でも声を枯らす。とにかく、芸術的でない。さすが、音楽の街、シュツットガルトの小学校だけのことはある。
娘はすぐにドイツ語に慣れる。同級生の金髪のアントレアという小娘がよく家へ遊びに来るようになる。ドイツの地方都市にはお祭りが多い。アントレアの父親に連れられて娘があちこちの縁日見物へ出かける。大いに楽しいらしい。この様子をマックス・プランク研究所の同僚に話す。
「転校なんて問題ないね」「でも大学まで進学させるなら良く考えた方が良いよ。大学への入学にはアビテウーアという大学受験資格試験に合格しなければならないよ」「随分と面倒なんですね」「そうさ。大学の卒業生は6%ぐらいしかいないエリートなんだから仕方ないよ」
当時のドイツの教育内容・制度は職業教育かエリート教育かを峻別していた。現在は大学進学率も15%以上になり、大学卒業生も年々増えつつある。
娘や息子の流暢なドイツ語は帰国後三カ月ぐらいで消えて無くなった。子供は覚えるのも早いが忘れるのも早い。その後ドイツの思い出を家族で良く話すが、ドイツ語は親の方が覚えている。
写真はスツッツガルト市公式ホームページ(http://www.stuttgart.de/sde/menu/frame/top_11021.htm)より転載しました。上は市中心街の風景、下は郊外の緑地とブドウ畑の風景です。
鬼家さんの山荘のことは昨年、12月31日の記事でご紹介しました。その夏の様子を撮って来ました。冬の様子との大きな違いをお見せしたいと思い、下に、冬と夏の写真を対比しました。尚、上の大きな写真は夏の池面です。一枚の抽象画のように見えました。
母屋と夏用の寝室や屋上庭園をつなぐ天空の橋も樹木で見え難くなりました。
左は天空の橋から夏用の遊び部屋を見た写真。右は反対方向を見たものでコンピューター部屋とアマチュア無線のアンテナの写真。
左は冬の屋上庭園。右は夏の写真。
左は薄氷の張った池で、周りには落ち葉が散り敷いている。右は夏の樹木の緑に染まった池面で、産卵で興奮した金魚が波立てて泳いでいた。
左は完全に落葉の終わった周囲の林の写真。右は夏の林に囲まれた山荘の写真です。
7月20日にぶらりとお邪魔しましたが、何時もの様にニコニコして、お元気そうでした。庭には山野草の花々を丁寧に育て、雑木の丸太に種々のキノコを栽培しています。URLはこのブログのトップページのサイドバーの左下に「鬼家雅雄」とご紹介してあります。またこのブログの2007年12月31日の「山林に小屋を作る方法(4)」の中で鬼家山荘の構造も説明して御座います。合わせて是非ご覧下さい。(終わり)
撮影日時:7月20日、午前11時頃、撮影場所:山梨県北杜市武川町柳沢
夏の「山林の中の小屋」は緑濃い樹木に覆われ、ひぐらし蝉の合唱の中で夕暮れを迎えます。小屋の前の清流のそばで焚き火をし、ビールを夜遅くまで飲んでいました。今年は岩魚が見えません。イノシシが川岸を掘りかえした後を埋めなおし、砂をかけ、見て綺麗な流れにしました。そんな夏の「山林の中の小屋」の様子の写真を10枚追加しました。このフォトアルバムの冬の小屋の写真と見比べて下さい。季節のうつろいの激しさに驚かれると存知ます。(終わり)
東京都日野市にある高幡不動は平安初期、慈覚大師円仁によって造られました。近隣の信仰あつい人々がいつも参詣する、親しみやすいお寺です。今回は裏山の高幡城本丸跡と、山中にある88ケ所の弘法大師像をご案内したいと思います。
上の大きな写真は、高幡城の本丸跡からの風景です。そこから弘法大師の石像へお参りしながら下りましょう。お遍路さんになった気分で。
88ケ所全てでなく、お気の向くままに。中腹の樹間から、五重塔の眺めも楽しめます。麓にある88番目の側には大師堂があり、弘法大師の慈悲深そうなお顔をゆっくり拝めます。
道順としては、広い無料駐車場へ車を止め、まず本堂にお参りします。横のおみくじ売り場入り口に、「般若心経」を印刷した紙があり、「ご自由にどうぞ」と書いてあります。
それから左手の五重塔の裏から、ゆっくり高幡城跡の頂上まで登ります。ミンミン蝉が鳴き、鶯が上手に唄っています。もちろん、登りながら大師さまの石像をお参りしても良いです。般若心経を小さく口ずさみながら。
観自在菩薩 行深 般若波羅蜜多 時照見五 うん皆空度 一切苦厄 舎利子、
色不異空 空不異色 色即是空 空即是色、 受想行識 亦復如是 シャーリーシー。、、、、、、、、後は紙の般若心経を読みましょう。
「般若心経」はお釈迦様が弟子の舎利子へ語りかけながら、仏教のエッセンスを説明したものです。漢文で書いてありますので、意味が少し理解出来ます。
解説本がいろいろ出版されています。仏教の全て宗派で読まれるお釈迦様の言葉です。高幡不動の裏山で読むと、なにか心にしみます。(終わり)
撮影場所:東京都日野市、高幡不動にて、撮影日時:7月18日午後1時頃
ちびたさんのブログ、 http://chibita.blog.tsuge.jp/ を開けて、ヒマワリの花が風で倒れた記事(7月15日)、それに対する16人からのコメントの日本語を再度、丁寧に読みなおして見ました。さらに、16人の人々のブログも開けて、使われている日本語を精読して見ました。
成る程、敬語も丁寧語も、一切使われて居ません。(小生のブログでは敬語・丁寧語をたくさん使います。) しかし、ちびた さんも、それにコメントする人々も全員が実に礼儀正しい会話をしています。
相手の気持を傷つけないように、そして、さりげなく勇気づけ合っています。ブログの上での会話には友情すら感じられます。その友情はこの世の利害とは一切関係のない、清明な水の交わりです。上の掲げた写真の風景のような心境で会話を楽しんでいます。
使われている言葉は、親しい人と話しているように「くだけて」います。が、下品ではありません。16人のプロフィールを調べると年齢は20歳から50位で、色々なようです。
主婦専門の人も居れば、毎日通勤している人々もいるようです。忙しい人々もブログをしているのかも知れません。何故、ブログをするのでしょう?理由は人それぞれで、分析しないのが良いでしょう。それこそ個人の自由です。
今回、言いたいことは、敬語・丁寧語の一切使わない日本語も、礼儀正しさがあれば、「不愉快な感じ」がしない。と、いう事です。
実は、この続編として敬語のない英語だけのアメリカでの会話の特徴を書くつもりです。その導入でもあります。(続く) 写真は以前4月24日の記事で使った月ヶ瀬公園の写真です。
東京駅は新幹線への乗り換え駅。 仕事の旅では、よく30分くらい時間をつぶした。1階通路内のBook Expressで、必ず立ち読みをする。列車の中で読む本を1冊買う。広い店。立ち読みも歓迎しているように思えて、心豊かになる。
次に弁当をこの店で買う。無難なのは幕の内。粋なのは深川あさり弁当。東北新幹線改札口そばの店には三陸弁当や仙台の弁当も売っていた。
次は訪問先へちょっとした東京名物のお土産を買う。昔は浅草の雷おこしや人形焼。東京バナナも買った。最近は気の利いたクッキー類。
それでも時間が余ると、この回転寿司の中を遠くから見やる。朝食のおかずが色々回って来て面白い。それでも時間が余ればコーヒーを飲みながら通る人々を観察する。家族連が見ていて楽しい。それから新幹線のホームへ上がって行く。
最後の写真は特別な思い出の場所。昔は此処に「けやき」というちょっと洒落たレストランがあった。
1976年、オハイオの恩師、P教授夫妻と一緒に新潟へ旅行した。帰途、東京駅の「けやき」で一休みした。P教授が日本の天皇の質素な暮らしに感心したとしきりに話していた。新潟で、「昭和天皇、皇后の宿泊した部屋」を見ての感想である。狭い部屋の隣には小さな風呂場があり、ヒノキの風呂桶のタガが外れて崩れていた。
そんな、こんなを思い出していると、東京駅での1時間くらの待ち時間はアッという間に過ぎてしまう。皆様は駅での待ち時間をどのようにつぶしていらっしゃいますでしょうか?(終わり)
高山さんが、コメントでお教え下さいました。
・・・・・・注文の多い料理店のモデルは、アメ横上野駅よりの今はない洋食屋さんのお店の造作だとか、花巻のレストラン精養軒だとか、中村屋だとか諸説あるようです。
昔の写真です→http://www.i-hatov.com/
そこで、もう一度、賢治の文章をみてみました:・・・・・・・「あるきたくないよ。ああ困ったなあ、何かたべたいなあ。」「喰べたいもんだなあ。」
二人の紳士は、ざわざわ鳴るすすきの中で、こんなことを云いました。
その時ふとうしろを見ますと、立派な一軒の西洋造りの家がありました。そして玄関には「西洋料理店」山猫軒という札がでていました。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そこで色々検索してみて、岩手県の花巻市に近い、山中の峠を越えた山村に中村家の西洋館が現存していて、それの探訪記事と写真が、http://www.i-hatov.com/nakamurake.html に紹介してあるのを見つけました。
この西洋館がモデルになったという確証は有りません。
でも原文では、山の中に忽然と現れた西洋館と描いてありますので、どうもこの中村家の西洋館のように思われるのですが。皆様はいかがお考えでしょうか?
高山さん、いつも貴重なコメントを下さいまして有難う御座います。
(終わり)