後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

自然の営みの神秘(3)庭の小川にヤマメが登って来る

2009年11月13日 | 日記・エッセイ・コラム

大昔、地球に大きな恐竜が繁殖して栄えていました。7000万年に突然絶滅します。その頃人間はまだ現れてません。このような大きな自然の営みへ興味を持つ人々は多いと思います。私も若いころから生物の進化や絶滅についての多くの本を読んで楽しんで来ました。

しかし引退して毎日静かな時を過ごすようになると自然の営みを観察して、色々思案を巡らせるが一層楽しくなって来ます。考えて見ると意外に知られていないことが多く、謎に包まれているのです。小さな営みが神秘的に感じられ、その不思議さに魅せられます。何故か興奮して元気になるのです。

山梨県の甲斐駒の麓の山林の小屋の庭には小川が流れています。

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このように夕方になると、小川の向こう岸のガーデン灯をつけて 岸辺でビールを一人で飲みます。独りで行ったときは、静かに小川の流れを眺めなら、ゆっくり飲みます。

すると2匹のヤマメがふざけて遊びだします。飽きずに30分位も続けます。そしてそのうち1匹だけになります。縄張り争いをしていたのです。横腹に縦の楕円形の斑点が並んだ美しい魚です。神経質で敏捷に泳ぎます。

10分以上静かにしていないと岩陰から絶対に出て来ません。写真に撮ろうとしましたが一度も成功していません。そこで隣の山荘の鬼家(オニイエ)さんの撮った2匹のヤマメの写真を示します。私の庭のヤマメの居る場所から400m位下流にいたヤマメの写真です。

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このヤマメは不思議な魚で梅雨前とか秋になると庭の小川に登ってきます。卵はこの庭先の砂地に産むのでしょうから秋は雄雌2匹で登って来るのでしょう。孵化した子魚は小川を下ります。しかしこの下流は全ての水が水田に入ります。日差しの強い水田の水温は暑すぎてヤマメは死にます。死んでは堪りませんから子魚は冷たい水を求めて又遡ります。

ところで水路は複雑です。甲斐駒岳から流れてくる大きな石空川(イシウトロ川)から引き込んだ水田用の用水路があります。それと庭先を流れ下った小川と合流する所があります。そこで子魚はきっと水温の低い石空川の方へ登って行って、餌の多い快適な川で夏を過ごすのでしょう。餌を十分食べて大きくなり産卵出来るようになると生まれて所へ紆余曲折しながら帰って来るのでしょう。こうして秋になると、私の庭先の小川に戻って来て産卵すると想像しています。

これが合理的な想像ですが真実で無いかも知れません。

実は夏でも、庭の小川に魚が棲んでいる時があります。水温がヤマメにとっては高すぎる筈です。よく見るとヤマメより大きく太っています。横腹は見えませんが、どうも養殖したマスが何処からか逃げて来たようです。泳ぎ方がヤマメのように敏捷でなく、神経質でもありません。人間から餌を貰って育ったのでしょう。水の中から私を見上げています。餌でも欲しかったのでしょう。

庭に一年中、水の絶えない小川が流れています。そこへヤマメが登ってきます。マスも迷って登ってきます。このような自然の小さな営みに何故かひどく感動します。

尚、2枚目の写真は、http://ihcuik69.web.fc2.com/memo09_07.html をクリックして8月4日の記事の「沢にいるヤマメ」との記事に動画で出ています。ご覧になると、ヤマメの敏捷さがお分かりになれます。(続く)

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。 藤山杜人


自然の営みの神秘(2)36年間水量が変わらない庭の細い小川

2009年11月12日 | 日記・エッセイ・コラム

1973年と言えば現在より36年前でした。山林の土地を少しだけ買いに行った時、案内の不動産会社の人が、「この小さな流れの水は夏でも絶対に涸れません!」と断言します。山村育ちなので上流の山の形と樹木の様子から断言できると言うのです。買ってから小さな約束違いが色々あり迷惑しましたが、小川の水だけは36年間どんなに暑い夏でも水量が一定です。36年間水量が変わらなかったのですから何百年も不変だったのでしょうか?

何時も静かに流れています。一昨日行ったときも紅葉の落ち葉を浮かべて静かに水音をたてて流れていました。下の写真です。

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しかし台風が来たり、大雨が降れば洪水になるのではと、心配していました。小川から小屋までは8メートル位しか離れて居ません。台風の時は床下浸水になると思い、高めの床を張って貰いました。ところがある一定の高さ以上に水面が上がらないのです。

小川にかけた4つの橋よりは高くならないのです。下の写真は 一昨日から昨日の間、一晩中大雨が激しく降った 次の朝の小川の様子です。小さいながらゴーゴーと音をたてて激流になっています。木の板張りの水汲み場の上まで水が来ています。しかし水面は橋の下です。こんな訳で木製の橋が今まで一度も流されたことが無いのです。森林の保水力の不思議さに感動しています。そして森林の腐葉土にしみ込んだ水が山の斜面の下から夏の間中浸み出して来ます。そこに穴を掘り、樋を掛けると美味しい清水が汲めます。自分で穴を掘り、樋を掛け、清水を汲み、東京に持って帰り抹茶をたてます。コーヒーを淹れます。味が違います。何故か自然の営みの一部に参加したような気分になります。自然の不思議な魅力に魅了されます。皆様にもそんな自然の魅力をご想像してお楽しみ頂ければ嬉しく思います。(続く)

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紅葉の美ししさの色々を思い出して楽しみます

2009年11月12日 | 日記・エッセイ・コラム

紅葉の美しさはいろいろな種類があると思います。

@よく手入れされた里山の雑木林が 刈り取られた田圃に囲まれて紅葉の島のようにあちこちに散在している景観、

@奥山の混合樹林帯の林の中で、落葉樹だけが鮮やかな黄色になって光輝いている景観、

@人手が入らなくなり 少し荒れた雑木林が半分落葉し、残った葉が紅葉している。    地面にも黄色や赤い落葉が一面に散り敷いている様子、

@自然の山の稜線が燃え上がるように紅葉し、青空を背景にして連なっている景観、

@ルリ色の高原の湖を背景にした樹林の何気ない紅葉の景観、

@都会のイチョウ並木の輝く黄色の景観、

@そして良く手入れされたお寺の庭に植えてあるモミジの真っ赤な紅葉の様子、

今年の秋、皆様はどのような紅葉を楽しまれたでしょうか?美しい紅葉の写真が掲載してあるブログやHPをお知らせ頂ければ嬉しく思います。


自然の営みの神秘(1)モリアオガルを飼育している友人

2009年11月12日 | うんちく・小ネタ

自然の営みを注意深く観察し、少し調べたり、考えてみると、人間はほんの少ししか知っていないことに吃驚します。自然の営みが神秘的に思え、畏敬の念さえ湧いてきます。

山梨の山林の中に住んでいる友人の鬼家さんを訪問するたびに、彼の自然との対話に深く感動します。

彼の家の敷地の真ん中に小川が流れています。その傍の樹木の枝に直径10cm位の白い泡の塊があるのを見つけました。春、オタマジャクシが泳ぐ頃です。彼は直ぐにモリアオガエルの卵塊と気が付き、生まれたオタマジャクシを少しだけ分け取って、家の中で飼うことにしました。モリアオガエルは本州と佐渡島にしか棲んで居ない日本固有種で深山にしか居ない珍しいカエルです。

白い泡の塊の中にある数百の卵が オタマジャクシになると下の水溜まりへ落下して小さな可愛いカエルになります。まだ尻尾が付いているのに樹木の枝に這い上がり、一生、樹上生活をします。

飛び跳ねる力が強く一回に3メートル位を飛びます。ですから樹から樹へと、猿のように飛び回って、虫を食べて大きくなります。大きくなるとガマ蛙くらい大きくなります。手足に吸盤がついていて木の葉にしがみ付きます。

ここで鬼家さんのHPページから転載した写真をご覧ください。

昨日、彼の家で長さ20mm位に成長した20匹位のモリアオガエルの不思議な美しさに感動しました。写真からその不思議な美しさをご想像頂ければ大変嬉しく思います。

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このように写真を順に見て行くと簡単に飼育できるように見えます。しかし鬼家さんの苦労は並大抵ではありません。オタマジャクシを容器の水に移し、毎日、ゆで卵と野菜の餌で細心の注意を払って飼育します。手足が出てきたら草の葉を入れ、這い上がらせます。水中生活から一生の間、縁が切れます。

そこからは別の大きな飼育箱へ入れ、ヨーロッパイエコオロギの小さな子どもを餌としてやります。春に孵化したオタマジャクシが11月なってやっと2cmから3cm位に成長したのです。

イエコウロギはインターネットで購入し、数個の飼育箱で子供を産ませます。これが難しくて大変だったと言います。コオロギの飼育箱とモリアオガエルの飼育箱をベットのそばに置いて毎日注意深く飼育しています。冬になったので冬眠させるため暖房の無い寒い部屋へ移そうとしていました。

一方、庭の人工の池で育った数百匹の小さなモリアオガエルは樹木に登って、何処かに飛んで行ってしまいました。森のなかを飛び回って大きくなり、冬眠を始めていることでしょう。

なお、モリアオガエルの飼育を禁止している自治体がありますので、そこでは飼育は出来ません。お調べの上飼育されますように。

詳しくはhttp://ihcuik69.web.fc2.com/kaeru.html をご覧ください。きっと自然の営みの不思議さやモリアオガエルの美しさにお気づきになられることと思います。(続く)

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。  藤山杜人


ニコライも偉かったが、明治の日本人も偉かった!

2009年11月10日 | 日記・エッセイ・コラム

1904年、明治37年に日露戦争が始まりました。翌年日本の勝利で終わりましたが、日本側の死傷者は20万人、ロシア側は15万人という凄惨な戦争でした。

日本人のロシア人へ対する敵愾心は凄まじく、全国に散在するロシア正教関係の教会や集会所は暴徒の襲撃に会います。

しかし東京、駿河台のニコライ堂に居るニコライは顔色一つ変えず動揺しません。

日本の政府や軍部関係者は日露戦争の間、軍隊の一小隊を常時派遣しニコライ堂を暴徒から守ったのです。

特に1905年9月15日の日露講和条約(ポーツマス条約)の日には激しい日比谷公園焼き打ち事件が発生します。神田、駿河台のニコライ堂へ暴徒の群衆が押し寄せます。

しかし日本の軍隊が暴徒を一歩もニコライ堂の構内へ入れなかったのです。

日露戦争になる前にニコライはロシアへ逃げ帰ることも出来たのです。しかし彼は、「私はロシアに仕えるのでない。キリストに仕える者です」と明言して断固日本に残留したのです。日本の信者を見捨てる筈はなかったのですが、それを実際に見た政府関係者や軍部も武士道精神に従ってニコライを大切にしたのです。

これだけではありません。ロシア正教の日本人信者とその家族がロシア兵の捕虜の慰問を日本政府と軍部が許可したのです。慰問にはロシア正教の礼拝式を捕虜収容所で行うことも含まれていました。

1905年にはおびただしい数のロシア兵捕虜が日本の収容所へ送られて来ました。旅順や奉天での捕虜も含めるとその数は7万人以上と言われています。

日本国内には27ケ所の収容所が、弘前から始まって仙台、京都と南の熊本まで各地に散在していました。

ロシア語の出来る日本人の司祭がそれぞれの収容所を担当して死者の埋葬、病者の見舞い、家族からの郵便の配布、ロシアからの慰問袋の仲介、礼拝式や祈りの会の開催、行方不明者の調査などなどを日本人司祭と信者が手を尽くして行ったのです。

私の手元にはそのような当時の写真があり、それを見ながら書いています。

捕虜収容所を訪問したニコライと日本軍幹部との記念写真。イオアン小野帰一司祭の指導による大阪、浜寺捕虜収容所の祈りの会の風景。松山捕虜収容所を担当したセルギイ鈴木九八司祭の上半身肖像写真。ペトル内田 補司祭と信者の家族とロシア兵捕虜との集合写真。京都、伏見捕虜収容所を担当したシメオン三井道郎司祭の上半身肖像写真。習志野捕虜収容所でのイアコフ藤平新太郎司祭とロシア兵との集合写真。神田、駿河台のニコライ堂前でのロシア兵捕虜慰問会の集合写真。

ここで皆様に是非ご想像して頂きたいのです。1905年と言えば、1917年の共産党ソ連の出来る随分前です。ロシア人はロシア正教徒でした。戦いに敗れ、呆然自失の状態で敵国の収容所へ送られたのです。そのような傷心の時、突然ロシア語の話せる日本人の司祭が現れたのです。信者の家族が親類のように子供連れで遊びに来てくれたのです。彼らの心が躍った様子が目に見えるようではありませんか?

それを許した明治時代の日本人は心が広く、本当に偉かったと思います。1912年、聖ニコライは75歳で日本の土になりました。明治天皇が大きな恩賜の花輪を供えました。

第二次大戦のアメリカ兵の捕虜に対して軍部は過酷な扱いをしました。アメリカからのキリスト教牧師が慰めに行くのを許しませんでした。それどころか敵性外国人として監視やスパイの嫌疑で逮捕していたのです。

明治時代の日本人のロシア兵に対する寛大な処置は長く外国から称賛されたのです。我々日本人はこのような明治時代の日本人をもっともっと誇りに思うべきではないでしょうか?

そして日本のロシア正教が実質的に日本正教会への育って行ったのはこの日露戦争の頃からと私は感じています。皆様は如何お考えでしょうか?(終り)

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。   藤山杜人


推薦したいブログの玲さんの美しい木や草の実の写真をご紹介します

2009年11月09日 | 写真

このブログの左サイドバーで推薦したいブログを幾つかご紹介してあります。今日はその中から水戸にお住まいの玲さんの美しい晩秋の木や草の実を4種ご紹介いたします。

写真を本格的に習った方で、いつも女性らしい感性豊かな写真が掲載してあります。

彼女のブログhttp://blog.goo.ne.jp/koiredawaを開いて他の写真もお楽しみ下さい。転載のお許しを下さいました玲さんへ感謝します。藤山杜人

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写真の一番上はウメモドキ、その下はムラサキシキブです。一番下の左はヨウシュヤマゴボウ、その右はヤブミョウガです。


ブログを書くための私の取材方法と写真の組み合わせ方

2009年11月09日 | うんちく・小ネタ

このブログには色々な方からの寄稿や投書をご紹介しています。その上で他のブログに掲載されている感動的な写真や絵画を作者の許可を頂いて転載しています。

ブログの紙面の記事の内容が幅広くなり、色々な読者の方々のご満足が頂けるように努力している心算です。

しかし一番重要に考えている事は、興味ある人々に直接会って考え方を聞くことです。未知の人にいきなり会うことは勇気が要ります。私は生来、人付き合いの悪い人間でした。以前は知らない人に声をかけるなどということは絶対にしませんでした。

ところが最近はブログの取材という使命感が出て来ました。それがあると知らない人へもインタビューが出来るのです。驚きの体験です。

色々な人々に直接会い、本音の話を頂き、それをこのブログでご紹介するのです。その上関連の写真を撮らせて貰い、記事に組み合わせて掲載します。最近の例は、先日の記事で紹介した「アジアの手織り・草木染め布の展示会」の訪問記の中にあります。主催者の ひかるのさんのアジアの伝統技術へ対する強い憧憬の念をご紹介しました。そして彼の人生観の一端を紹介したのです。こういうことは直接お会いしないと書けない記事内容です。

昨日も神林さんという水墨画の女流大家と、そのお弟子さん達の作品の展覧会に行きました。神林さんに直接お会いし、お話を聞きました。彼女の印象も含めて数多くの写真で展示作品の紹介記事を作りました。

最近、感動したインタビューはニコライ堂の事務所に飛び込んで、偶然、聖職者の金田一豊伝教師と話が出来たことです。

私、「カトリックの信者ですが、ロシア正教の事をブログに書きたいので教義書を売っていただけませんか?」

彼、「私も以前はカトリックでした。でも現在は日本正教会の伝教師をしています」

私は一瞬心に迷いが出ます。これを聞いて失礼ではないか?しかしこれが一番肝心な質問です。

私、「何故、宗派を変えられたのですか?」。彼はしばし私に分かりやすい文章を考えていました。そして、

彼、「正教は原始キリスト教を忠実に受け継いでいます。正教に変えるともっとイエス様の近くに居るように思えるからです」。なんと素晴らしいお答えでしょう。私も時々、もっとイエス様の傍にいたいと思うことがあります。一瞬にして分かる明快なお答えです。

そこで自分の住所、メールアドレス、ブログのURLなどを明記した名詞を出しました。

私。「ブログへご紹介したいので、後でメールで質問を送りましから寄稿して頂けませんか?」

彼、「私のアドレス、電話番号を書きますからちょっとお待ち下さい」

昨日メールで私の質問3つへ対して3つの文章を送って下さるというご返事を頂きました。受け取りましたなら、いずれこのブログへ掲載致します。

このような直接的な取材が出来たので、大変嬉しくなり聖ニコライの事などを最近数回の記事にして掲載しています。関連の写真も組み合わせて掲載しています。

私はこのような取材をしながら写真と組み合わせブログの記事を書いています。

(終り)

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人


私の記事は間違っていました!ロシア正教と書いたのは日本正教会です

2009年11月08日 | うんちく・小ネタ

このブログの11月4日と6日に神田、駿河台の通称、ニコライ堂の記事を掲載しました。その中でニコライ堂をロシア正教と書きましたがこれは大変な間違いでした。

皆さまへ心からお詫びの上、訂正させて頂きます。

この間違いをお教え下さったのは11月4日に偶然、ニコライ堂でお会いした聖職者の金田一豊伝教師さまです。以下に、金田師からのメールのコピーを掲載します。

======金田師からのメールのコピー===========

私たちはロシア正教ではないんです。日本正教会です。それは自治独立という立場にあるので、ロシア正教会の傘下ですがロシア正教会という立場ではありません。東京にはロシア正教会の教会が巣鴨(千石)と中目黒にあります。

それから伝道師という言葉は間違いではないんですが、通常正教会では伝教師といいます。まぁ、この辺は言葉の問題なので気にしないでください。

僕の場合はローマカトリックが、正教会が、というよりもハリストスの教えが初代教会のまま残している場に身をおきたかったのです。1000年間は東西(カトリックと正教会)ともに同じ教会だったので、たまたま原典の新約聖書や御み言葉をそのままギリシャ語で理解してるところは?とみたら正教会であったのです。
南から日本へとローマカトリックの教えを伝えたフランシスコザビエルを僕は今も尊敬しています。そして正教会を日本に伝えたニコライのことも同様です。
ただ、ここで問題なのは、聖ニコライがロシア正教を日本に伝えたなら・・・、ということです。
聖ニコライは「私はロシアの正教ではなく、正教を日本に伝えるためにきた」と日記でうたっています。ここが重要なポイントです。
ローマのカトリックというのに対して、ギリシャ(もしくはロシア)の正教という表現になります。これは宗派として後の時代に誕生したものです。しかし原始カトリックと正教はともに初代教会を受け継いでいるのですから、僕はロシア正教会を信じたのではなく、純粋に正教会を受け入れたということになります。
======以下省略=================
最後にもう一度、言いますと、聖ニコライはロシア正教を伝えたのではなく、イエス様の教えた正しいキリスト教ー即ち正教を伝えたのです。この点を私は間違っていたのです。ニコライの事は今後も記事にしますが、この違いを明確に書きます。
間違った記事を掲載しましたことを読者の皆様と日本正教会の方々へ心からお詫び申し上げます。   シルベスター藤山杜人

ネット友人の主宰する水墨画展へ行ってきました

2009年11月08日 | うんちく・小ネタ

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003 004 006 008 009 010 011 012 018 021 水墨画の展覧会へ家内と行ってきました。ネットで友人になったSEIKO(神林采希)さんとそのお弟子さん達の水墨画が沢山並んでいました。独創的な画題と構図なので水墨画を超えた傑作が多くあります。神林先生にお聞きしたところ展示作品は他の公募展で賞を受けたものが多いそうです。この水墨画教室の主宰する神林先生の2作はデッサンも見事で、彩色が無い水墨画なのに油彩画を彷彿させます。上から三番目の絵はお弟子さんのTさんの作品ですが、川崎の製鉄工場を描いたものです。製鉄工場の力強い騒音が聞こえてくるようです。私は昔、仕事でこの川崎の製鉄工場へよく行ったので、懐かしくなりTさんのお話を少し聞きました。

神林采希さんとは始めてお会いしました。まだお若い美しい方です。芸術家らしい繊細なお姿です。私のネットの上の友人は高齢の方々が多いので、とてもお若い方と感じました。展覧会は今日から始まったばかりです。下記にご案内がありますので、皆様お揃いで是非お出かけ下さい。

第17回 新世水墨 ”采の会”展

会期平成21年11月8日(日)から11月12日(木)まで午前11時から午後5時まで(但し、初日8日は午後1時から最終日12日は午後4時まで)

場所:府中グリーンプラザ分館ギャラリー

    郵便番号:183-0056 府中市寿町1-1 電話:042-340-0211

会場へは京王線府中駅下車、北口を出て左方向のケヤキ並木へ歩きます。ケヤキ並木を横断した京王線の線路の下にあるビルの1階です。グリーンプラザ分館という看板が出ています。

神林采希さんは私のネット上の友人で、以前、このブログの今年の7月27日の記事で、新しい水墨画の先生としてご紹介したことがあります。(終り)


ブログを始めて2年、私の人生が明るく広くなりました!

2009年11月08日 | 日記・エッセイ・コラム

誰でも、高齢期を迎え、仕事を辞めます。すると社会から縁が無くなりなんとなく疎外感が漂います。

そんな感じが少しし出したころ偶然にもある方の薦めでブログを始めました。毎日、随筆や写真を掲載しました。他のブログを見て感動的な写真や絵画を見ると、お願いをしてこのブログでご紹介して来ました。2007年の11月5日に始めましたので丁度満2年になります。

ブログをしているお陰で色々な方々と友人になりました。仕事をしていた現役の間には決してお付き合いの出来ないような素晴らしい方々と友人になりました。

自分の人生が明るく、そして広々として来ました。自分でも今まで気が付かなかった社交的な性格を発見して驚いています。

例えば今日行く予定の水墨画の展覧会は新しく出来た友人の、神林采希さんが主宰した水墨画の展覧会です。大規模で独創的な水墨画が展示してあるようです。

第17回 新世水墨 ”采の会”展

会期 平成21年11月8日(日)から11月12日(木)まで午前11時から午後5時まで(但し、初日8日は午後1時から、最終日12日は午後4時まで)

場所:府中グリーンプラザ分館ギャラリー

    郵便番号:183-0056 府中市寿町1-1 電話:042-340-0211

会場へは京王線府中駅下車、北口を出て左方向のケヤキ並木と甲州街道の交差点へ歩く。交差点を渡らないで手前に有るビルが府中グリーンプラザ分館です。

神林采希さんは私のネット上の友人で、以前、このブログの今年の7月27日の記事で、新しい水墨画の先生としてご紹介したことがあります。

皆さまもブログをどの様に活用していらっしゃるでしょうか?お教え頂ければ嬉しく思います。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。 藤山杜人


ロシアから来た偉大な宣教者、ニコライをもっと知ろう!

2009年11月07日 | うんちく・小ネタ

ニコライは1836年にロシアのある農村で生まれ、明治維新の7年前の1860年、24歳の時日本へ宣教のために行く決心をします。着いた1861年はまだ江戸時代です。翌年、函館に着いてから終生日本に居ました。もっとも短期間、2度、祖国へ帰ったことはありましたが。

 着いた1861年はまだ江戸時代です。それから51年後の1912年、75歳で永眠し、谷中の墓地に葬られ日本の土になりました。

函館着任後に血の滲むような努力をし日本語を習得します。書道も研鑽し、日本の歴史や佛教も勉強しました。古事記や日本書紀も読破する勉強家でした。

ニコライの日本を愛する心は強く、数々の感動的なエピソードが残っています。

今日はその中から一つをご紹介します。

1904年、1905年は日露戦争でした。戦争勃発と共に在日ロシア人は一斉に帰国して行きます。ロシア公使のローゼン男爵もニコライに帰国するように薦めます。ニコライは静かに断ったそうです。そして言うのです、「私はロシアに仕える者ではない。主ハリスト(主キリスト)に仕える者である。」と。

残留した理由は、日露戦争の間、日本人信者が迫害されるのを予想し、彼らを勇気づける為に残ったと考えらています。案の定、ロシア正教の日本人信徒は「露探」(ロシアのスパイ)と罵倒され、聖堂や集会所が暴徒の襲撃を受けたのです。

ニコライは教書を発表し信徒を慰めます、

「我々には地上の祖国の他に、天に国がある。天の国には民族の別無く皆が平等に生きている。なぜなら全ての人々は皆同じ父(神)の子であり、お互いは皆兄弟であるからです。我々の属する国は主である神が作った教会なのです。信者は平等な会員なのです。天の神、すなわち我らの父の一つの家族としてとどまり、その家族としての義務をそれぞれに果たすようにしようではないか!」

ニコライは日本人信徒の一人一人を強く愛していたのです。ロシアへ逃げ帰るなど考える筈がありません。

1912年、持病の心臓病が悪化し、聖路加病院で天に帰りました。駿河台のニコライ堂から谷中の墓地まで、葬列を見送る人垣が沿道の両側を埋め尽くしました。明治天皇からの「恩賜の花輪」を抱きかかえた人が葬列の中に見えます。(葬列の写真10枚ほどを見ながら書いています)。 今日はこの辺で止めます。(続く)

WikipedeaNikolaikasatkin1 でニコライ・カサートキンを検索すると以下の紹介があります。取りあえずここに転載しご紹介いたします。

=======ニコライの生い立ち=========

スモレンスクベリスクベリョーザ村の輔祭、ドミトリイ・カサートキンの息子として生まれる。母は五歳のときに死亡。ベリスク神学校初等科を卒業後、スモレンスク神学校を経て、サンクトペテルブルク神学大学に1857年入学。在学中、ヴァーシリー・ゴローニンの著した『日本幽囚記』を読んで以来日本への渡航と伝道に駆り立てられたニコライは、在日本ロシア領事館附属礼拝堂司祭募集を知り、志願してその任につくことになった。在学中の1860年7月7日(ロシア暦)修士誓願し修道士ニコライとなる。同年7月12日(ロシア暦)聖使徒ペトル・パウェル祭の日、修道輔祭叙聖(按手)され、翌日神学校付属礼拝堂聖十二使徒教会記念の日に修道司祭に叙聖された。

1861年函館ロシア領事館附属礼拝堂司祭として着任。この頃、新島襄らから日本語を教わる。以後精力的に正教の布教に努めた。函館にて日本ハリストス正教会の初穂(最初の信者)で後に初の日本人司祭となる沢辺琢磨らを獲得したのち、懐徳堂中井木菟麻呂らの協力を得て奉神礼用の祈祷書および聖書(新約全巻・旧約の一部)の翻訳・伝道を行った。1869年、1879年に二度帰国。それ以降は日露戦争中を含め、日本を離れることなく、神田駿河台の正教会本会で没した。谷中墓地に葬られる。

1970年谷中墓地改修の折、棺を開けると不朽体が現れた。同年ロシア正教会はニコライを「日本の亜使徒・大主教・ニコライ」、日本の守護聖人として列聖した。日本教会が聖自治教会となったのはこのときである。ニコライの不朽体は谷中墓地のほか、ニコライ堂(大腿部)、函館ハリストス正教会などにあり、信者の崇敬の対象となっている。

関東大震災で焼失したといわれていたニコライの日記は中村健之介によって発見され、ロシア語原文版が2004年に刊行された(Dnevniki Sviatogo Nikolaia Iaponskogo, 5 vols. St. Petersburg: Giperion, 2004)サ。注解を加えた日本語全訳は2007年に刊行(『宣教師ニコライの全日記』教文館、全9巻)。

列聖以降、日本の亜使徒聖ニコライ聖ニコライ大主教と呼ばれる。記憶日(祭日)は2月16日(ニコライ祭)。


木枯しが吹いて足早に過ぎ去って行く紅葉の季節

2009年11月07日 | 写真

今年は紅葉を楽しむためにあちこちへ行きました。八ヶ岳、南アルプス夜叉神峠、裏磐梯、安達太良山、奥多摩、そして昨日は富士山、山中湖、忍野八海などです。

山中湖周辺の樹林では 落葉が冷たい風に舞い、紅葉も終わりでした。もう冬の始まりです。寒い冬の季節を想い、心がリンと鳴ります。そんな湖や樹林の写真を3枚お送りします。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。  藤山杜人

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日本人のロシアへの感情とロシア正教の布教の関係

2009年11月06日 | 日記・エッセイ・コラム

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このブログの11月4日の記事に書いたように、私はお茶の水のにコライ堂でロシア正教のある聖職者の方にお会いしました。彼は以前はカトリックでした。ロシア正教の方がイエス様の傍へいるような気がしたので宗派を変えたと言いました。

1549年に日本へカトリックを伝えたイエズス会のザビエルの教えを信じていた人が1861年(明治維新の6年前に)に日本に来たロシアのニコライの教えへ従う事にしたのです。鑑真を尊敬していた人が親鸞の方をもっと好きになる。こういう事はよくあることで驚くべきことではありません。しかしニコライ堂での会話は私へ一つの新しい問題を提起したのです。外国の宗教の、その宗派の隆盛は日本人のその外国への国民感情によって左右されるのでは無いか?、という大問題です。

日本人の多くはロシア政府、そしてロシア人が好きでないかも知れません。日露戦争やシベリア出兵、ノモハン事件などで、ロシアは常に日本の敵国でした。その上、第二次大戦の終期に日本が弱り目祟り目の敗戦6日前にロシアは卑怯にも満州へ攻め込んで来たのです。そして55万人もの日本兵を酷寒のシベリアへ抑留し5万人を殺したのです。そして戦後も国後、択捉、などの北方四島を不法にも占領し、日本と平和条約も結んでいません。

そんなロシアが日本へ持ってきたロシア正教というキリスト教の一宗派を信じる人が居るのでしょうか?居ます。東京の駿河台にあるニコライ堂へ行ってみると日本人信者が沢山居るのが分かります。

日本へロシア正教を持ってきた偉大な人はニコライです。本名、イオアン・デミトリヴィチ・カサートキンは1836年8月13日に生まれました。生まれたところはロシア帝国スモレンスク県ベーリ郡ベリョーザ村です。彼は傑出した宣教師でした。

万里の波濤を越えてはるばる日本へやって来たザビエルのように、鉄道も無いシベリアを馬車で横断し、樺太の北の対岸の港から船で函館にやって来たのです。彼が伝えたロシア正教と日本での布教の事などを少しずつ書いて見たいと思います。(続く)


マイフレンドの陶芸家の尾張裕峯さんが新聞に出ました

2009年11月06日 | インポート

このブログの11月2日掲載記事でご紹介しました、マイフレの陶芸家の尾張裕峯さんが今日の新聞に出ました。大変嬉しい出来事なのでその記事の写真と尾張さんからのお手紙を以下に掲載いたします。

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以下は尾張さんからの今朝の手紙です。ご参考までに付記します。

========尾張さんから藤山へ==============

おはようございます。先日、取材のありました中日新聞に四段抜きのカラーで私の陶芸教室開講の記事が載りましたので、まず、第一に藤山様にご案内申し上げます。
新聞後で、各方面に案内しますので、受講生はこれからですが、今まで会得した技術も継承する人が現れることを願っております。
本日は全国的に小春日和が期待できそうです。よい日をお楽しみください。
まずは ご報告まで、           尾張裕峯拝

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